「ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)」の版間の差分
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'''第5代[[ランズダウン侯爵]]、ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス'''︵{{lang-en-short|Henry Charles Keith Petty-FitzMaurice, 5th Marquess of Lansdowne}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[インドの星勲章|GCSI]], [[聖マイケル・聖ジョージ勲章|GCMG]], [[インド帝国勲章|GCIE]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}、[[1845年]][[1月14日]] - [[1927年]][[6月3日]]︶は、[[イギリス]]の[[貴族]]、[[政治家]]。
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'''第5代[[ランズダウン侯爵]]、ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス'''︵{{lang-en-short|Henry Charles Keith Petty-FitzMaurice, 5th Marquess of Lansdowne}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[インドの星勲章|GCSI]], [[聖マイケル・聖ジョージ勲章|GCMG]], [[インド帝国勲章|GCIE]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}、[[1845年]][[1月14日]] - [[1927年]][[6月3日]]︶は、[[イギリス]]の[[貴族]]、[[政治家]]。
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[[ランズダウン侯爵]]ペティ=フィッツモーリス家に生まれる。[[1866年]]に爵位を継承し、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員として政界入り。はじめ[[自由党 (イギリス)|自由党]]に所属していたが、[[自由統一党 (イギリス)|自由統一党]]を経て[[保守党 (イギリス)|保守党]]へ移籍。[[ヴィクトリア朝]]後期から[[第一次世界大戦]]の頃までイギリス政界の重鎮として活躍した。[[カナダ総督]](在職[[1883年]]-[[1888年]])や[[インド総督]](在職[[1888年]]-[[1894年]])を務めた後、保守党政権下で{{仮リンク|陸軍大臣 (イギリス)|label=陸軍大臣|en|Secretary of State for War}}(在職[[1895年]]-[[1900年]])や[[外務英連邦大臣|外務大臣]](在職1900年-[[1905年]])を務めた。外相在職時に[[日英同盟]]や[[英仏協商]]に調印したことで知られる。
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誕生から父親が第4代ランズダウン侯爵となる[[1863年]]までは |
誕生から父親が第4代ランズダウン侯爵となる[[1863年]]まではクランモーリス子爵︵{{lang|en|Viscount Clanmaurice}}︶の、1863年から自身が襲爵する[[1866年]]までは[[ケリー伯爵 (アイルランド)|ケリー伯爵︵{{lang|en|Earl of Kerry}}︶]]の[[儀礼称号]]で称された。
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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第4代[[ランズダウン侯爵]]{{仮リンク|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第4代ランズダウン侯爵)|en|Henry Petty-Fitzmaurice, 4th Marquess of Lansdowne|label=ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス}}と後妻の{{仮リンク|エミリー・ペティ=フィッツモーリス (ランズダウン侯爵夫人)|en|Emily Petty-Fitzmaurice, Marchioness of Lansdowne|label=エミリー・ペティ=フィッツモーリス}}(旧姓de Flahault)の間の長男として生まれる<ref name="thepeerage">{{Cite web|last=Lundy|first=Darryl|url=http://www.thepeerage.com/p959.htm#i9586|title=Sir Henry Charles Keith Petty-FitzMaurice, 5th Marquess of Lansdowne|work=thepeerage.com|language=英語|accessdate=2010年11月28日}}</ref><ref name="DCB">{{Cite web|last=Waite|first=P. B.|authorlink=:en:Peter Busby Waite|url=http://www.biographi.ca/009004-119.01-e.php?&id_nbr=7958|title=PETTY-FITZMAURICE, HENRY CHARLES KEITH, 5th Marquess of LANSDOWNE|work=[[:en:Dictionary of Canadian Biography|Dictionary of Canadian Biography]] Online|pages=|publisher=[[トロント大学]] & [[ラヴァル大学]]|language=英語|accessdate=2010年11月28日}}</ref>。 |
第4代[[ランズダウン侯爵]]{{仮リンク|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第4代ランズダウン侯爵)|en|Henry Petty-Fitzmaurice, 4th Marquess of Lansdowne|label=ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス}}と後妻の{{仮リンク|エミリー・ペティ=フィッツモーリス (ランズダウン侯爵夫人)|en|Emily Petty-Fitzmaurice, Marchioness of Lansdowne|label=エミリー・ペティ=フィッツモーリス}}(旧姓de Flahault)の間の長男として生まれる<ref name="thepeerage">{{Cite web|last=Lundy|first=Darryl|url=http://www.thepeerage.com/p959.htm#i9586|title=Sir Henry Charles Keith Petty-FitzMaurice, 5th Marquess of Lansdowne|work=thepeerage.com|language=英語|accessdate=2010年11月28日}}</ref><ref name="DCB">{{Cite web|last=Waite|first=P. B.|authorlink=:en:Peter Busby Waite|url=http://www.biographi.ca/009004-119.01-e.php?&id_nbr=7958|title=PETTY-FITZMAURICE, HENRY CHARLES KEITH, 5th Marquess of LANSDOWNE|work=[[:en:Dictionary of Canadian Biography|Dictionary of Canadian Biography]] Online|pages=|publisher=[[トロント大学]] & [[ラヴァル大学]]|language=英語|accessdate=2010年11月28日}}</ref>。 |
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フィッツモーリス家は[[12世紀]]に[[アイルランド]]・[[ケリー州]]へ移住し、以来同地の領主として君臨してきた家柄である。代々[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の政治家の家系であり、曽祖父に[[イギリスの首相|首相]]や[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]を務めた初代ランズダウン侯爵[[ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)|ウィリアム・ペティ]]︵首相在職時の爵位は |
フィッツモーリス家は[[12世紀]]に[[アイルランド]]・[[ケリー州]]へ移住し、以来同地の領主として君臨してきた家柄である。代々[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の政治家の家系であり、曽祖父に[[イギリスの首相|首相]]や[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]を務めた初代ランズダウン侯爵[[ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)|ウィリアム・ペティ]]︵首相在職時の爵位は第2代[[シェルバーン伯]]︶、祖父に[[財務大臣 (イギリス)|財務相]]や内相・{{仮リンク|枢密院議長 (イギリス)|label=枢密院議長|en|Lord President of the Council}}を歴任した第3代ランズダウン侯爵[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス]]がいる<ref name="タックマン(1990)46">[[#タックマン(1990)|タックマン(1990)]] p.46-47</ref>。
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[[イートン・カレッジ]]を経て[[オックスフォード大学]][[ベリオール・カレッジ (オックスフォード大学)|ベリオール・カレッジ]]を卒業した<ref name="thepeerage" /><ref name="DCB" />。 |
[[イートン・カレッジ]]を経て[[オックスフォード大学]][[ベリオール・カレッジ (オックスフォード大学)|ベリオール・カレッジ]]を卒業した<ref name="thepeerage" /><ref name="DCB" />。 |
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[[1866年]]、父の死により21歳で |
[[1866年]]、父の死により21歳で第5代ランズダウン侯爵位と家督を相続した。なお後に母親からも[[スコットランド貴族]]爵位[[ネアーン卿]]({{interlang|en|Lord Nairne}})を相続している。ランズダウン侯爵家は大地主であるものの、抱える負債も巨額であり、彼も家計のやり繰りには苦労した<ref name="浜渦(1999)143">[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.143</ref>。 |
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=== 自由党政権において === |
=== 自由党政権において === |
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=== 総督として === |
=== 総督として === |
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[[1883年]]から[[1888年]]まで[[カナダの総督]]を務めた<ref>{{LondonGazette |issue=25264 |date=28 August 1883 |startpage=4225 |accessdate=2010年11月28日}}</ref>。彼の総督在任中のカナダは[[ジョン・A・マクドナルド]]が2期目の首相を務めている時期だったが、鉄道建設をめぐるスキャンダルが発生し、経済も悪化、さらに[[1885年]]に北西部で[[ルイ・リエル]]の反乱が発生するなど危機的状況にあった<ref name=GG>{{cite web| url=http://www.gg.ca/document.aspx?id=15408&lan=eng| last=[[カナダ総督|カナダ総督府]]| title=The Governor General > Former Governors General > British > The Marquess of Lansdowne 1883-1888|accessdate=2016年7月22日|language= 英語}}</ref>。ランズダウン侯はカナダの民心の安定を図るために1885年には西部カナダを巡る旅を行い、カナダ先住民とも触れ合った<ref name=GG/>。また米国との漁業問題をめぐる交渉に尽力した<ref name=GG/>。1884年に英国科学振興協会の会合の主催するなど科学のパトロンとしても活動した<ref name=GG/>。カナダに安定を取り戻すことに貢献した優秀な総督と評価されている<ref name=GG/>。
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[[1883年]]から[[1888年]]まで[[カナダの総督]]を務めた<ref>{{LondonGazette |issue=25264 |date=28 August 1883 |startpage=4225 |accessdate=2010年11月28日}}</ref>。
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ついで1888年から[[1894年]]まで[[インドの総督]]を務めた<ref>{{LondonGazette |issue=25871 |date=2 November 1888 |startpage=5949 |accessdate=2010年11月28日}}</ref>。[[ルピー]]の減価でイギリスの対印投資が減少している現状を踏まえて、1893年6月にルピーの[[変動相場制]]を停止し、1ルピー=1[[シリング]]4[[ペンス]]の[[固定相場制]]へ移行させた。また[[金本位制]]導入のため銀貨自由鋳造を停止させた。これによりルピーの交換レートは上がったものの、インド国内の通貨供給が減少し、経済活動の規模は小さくなった<ref>[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.143-144</ref>。外交面ではアフガン国境の小国[[フンザ]]と[[ナガル]]を併合し、[[シッキム州|シッキム王国]]や[[チトラル]]の[[カラート]]を保護国にするなど拡張政策を取った<ref>[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.144</ref>。
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ついで1888年から[[1894年]]まで[[インドの総督]]を務めた<ref>{{LondonGazette |issue=25871 |date=2 November 1888 |startpage=5949 |accessdate=2010年11月28日}}</ref>。[[ルピー]]の減価でイギリスの対印投資が減少している現状を踏まえて、1893年6月にルピーの[[変動相場制]]を停止し、1ルピー=1[[シリング]]4[[ペンス]]の[[固定相場制]]へ移行させた。また[[金本位制]]導入のため銀貨自由鋳造を停止させた。これによりルピーの交換レートは上がったものの、インド国内の通貨供給が減少し、経済活動の規模は小さくなった<ref>[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.143-144</ref>。外交面ではアフガン国境の小国[[フンザ]]と[[ナガル]]を併合し、[[シッキム州|シッキム王国]]や[[チトラル]]の[[カラート]]を保護国にするなど拡張政策を取った<ref>[[#浜渦(1999)|浜渦(1999)]] p.144</ref>。
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帰国後は[[自由統一党]]([[リベラル・ユニオニスト]])に所属。[[1895年]]、第3代[[ソールズベリー侯爵]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯爵)|ロバート・ガスコイン=セシル]]を首相とする[[保守党 (イギリス)|保守党]]との連立政権({{仮リンク|第三次ソールズベリー侯爵内閣|label=第三次ソールズベリー侯爵内閣|en|Unionist Government 1895–1905}})において{{仮リンク|陸軍大臣 (イギリス)|label=陸軍大臣|en|Secretary of State for War}}<ref name="LondonGazette1895">{{LondonGazette |issue=26640 |date=5 July 1895 |startpage=3805 |accessdate=2010年11月28日}}</ref>として入閣した。陸軍総司令官人事では初代ウォルズリー子爵{{仮リンク|ガーネット・ウォルズリー (初代ウォルズリー子爵)|label=ガーネット・ウォルズリー|en|Garnet Wolseley, 1st Viscount Wolseley}}元帥を任命し、[[エドワード・カードウェル (初代カードウェル子爵)|エドワード・カードウェル]]の路線を継承して陸軍への文民統制を強化した。在任中の[[1899年]]に第二次[[ボーア戦争]]が勃発するが、5万人以上と予想されるブーア軍に対して3万5千人の動員が必要である、とのウルズリーの進言を「徹底的に効率の良い状態にある」1万人で事足りるとするなどしたことから、戦争準備が不十分であったことを批判された<ref name="DCB" />。 |
帰国後は[[自由統一党]]([[リベラル・ユニオニスト]])に所属。[[1895年]]、第3代[[ソールズベリー侯爵]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯爵)|ロバート・ガスコイン=セシル]]を首相とする[[保守党 (イギリス)|保守党]]との連立政権({{仮リンク|第三次ソールズベリー侯爵内閣|label=第三次ソールズベリー侯爵内閣|en|Unionist Government 1895–1905}})において{{仮リンク|陸軍大臣 (イギリス)|label=陸軍大臣|en|Secretary of State for War}}<ref name="LondonGazette1895">{{LondonGazette |issue=26640 |date=5 July 1895 |startpage=3805 |accessdate=2010年11月28日}}</ref>として入閣した。陸軍総司令官人事では初代ウォルズリー子爵{{仮リンク|ガーネット・ウォルズリー (初代ウォルズリー子爵)|label=ガーネット・ウォルズリー|en|Garnet Wolseley, 1st Viscount Wolseley}}元帥を任命し、[[エドワード・カードウェル (初代カードウェル子爵)|エドワード・カードウェル]]の路線を継承して陸軍への文民統制を強化した。在任中の[[1899年]]に第二次[[ボーア戦争]]が勃発するが、5万人以上と予想されるブーア軍に対して3万5千人の動員が必要である、とのウルズリーの進言を「徹底的に効率の良い状態にある」1万人で事足りるとするなどしたことから、戦争準備が不十分であったことを批判された<ref name="DCB" />。 |
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[[1900年]]10月にソールズベリー侯 |
[[1900年]]10月にソールズベリー侯の後を受けて[[外務英連邦大臣|外務大臣]]へ転任した<ref name="thepeerage" /><ref name="DCB" /><ref name="坂井(1999)287">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.287</ref>。中国分割をめぐるロシア帝国主義の極東進出を憂慮し、極東の現状維持ができる国として[[日本]]に注目し、首相ソールズベリー侯の賛成も得て、[[1902年]][[1月30日]]には[[ロンドン]]にて[[在イギリス日本大使|イギリス駐箚日本公使]][[林董]]男爵︵後に伯爵︶との間で[[日英同盟]]を調印した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.295-297</ref>。
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続く[[アーサー・バルフォア]]内閣でも外相に留任した。[[1903年]][[5月15日]]には[[ペルシア湾]]におけるイギリスの優越権を宣言して[[ロシア帝国]]の[[南下政策]]を牽制した。また日本国内の日露協商派の動きを警戒し、1903年7月には日本政府に対して日本が独断でロシアと協商を結ばないよう釘を刺した<ref name="坂井(1999)309">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.309</ref>。日英同盟は﹁日英どちらかが二か国以上と戦争になった場合はもう片方は同盟国のために参戦、一か国との戦争の場合はもう片方は中立を保つ﹂という約定になっていたため、フランスがロシアとともに日本に宣戦布告せぬようフランス取り込みに腐心した。[[フランス]][[フランス外務省|外相]][[テオフィル・デルカッセ]]と交渉を進め、両国の懸案事項である世界各地での植民地争奪戦を互譲的に解決していき、[[1904年]][[4月8日]]に[[英仏協商]]を締結させることに成功した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.307-309</ref>。
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続く[[アーサー・バルフォア]]内閣でも外相に留任した。[[1903年]][[5月15日]]には[[ペルシア湾]]におけるイギリスの優越権を宣言して[[ロシア帝国]]の[[南下政策]]を牽制した。また日本国内の日露協商派の動きを警戒し、1903年7月には日本政府に対して日本が独断でロシアと協商を結ばないよう釘を刺した<ref name="坂井(1999)309">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.309</ref>。日英同盟は﹁日英どちらかが二か国以上と戦争になった場合はもう片方は同盟国のために参戦、一か国との戦争の場合はもう片方は中立を保つ﹂という約定になっていたため、フランスがロシアとともに日本に宣戦布告せぬようフランス取り込みに腐心した。[[フランス]][[フランス外務省|外相]][[テオフィル・デルカッセ]]と交渉を進め、両国の懸案事項である世界各地での植民地争奪戦を互譲的に解決していき、[[1904年]][[4月8日]]に[[英仏協商]]を締結させることに成功した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.307-309</ref>。
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[[1906年]]の[[1906年イギリス総選挙|総選挙]]において自由党が圧勝すると、保守党が半永久的に多数を占めている貴族院から自由党政府の政策に抵抗するという保守党党首[[アーサー・バルフォア]]の計画に協力し、初等教育から宗教教育を排除することを目的とした﹁教育法案﹂や富裕の醸造業者の独占を制限することを目的とした﹁酒類販売免許法案﹂などを貴族院で廃案に追い込んだ<ref name="坂井(1967)416-417">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.416-417</ref>。
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[[1906年]]の[[1906年イギリス総選挙|総選挙]]において自由党が圧勝すると、保守党が半永久的に多数を占めている貴族院から自由党政府の政策に抵抗するという保守党党首[[アーサー・バルフォア]]の計画に協力し、初等教育から宗教教育を排除することを目的とした﹁教育法案﹂や富裕の醸造業者の独占を制限することを目的とした﹁酒類販売免許法案﹂などを貴族院で廃案に追い込んだ<ref name="坂井(1967)416-417">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.416-417</ref>。
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[[1909年]]には貴族院は予算案に介入しないという慣例を破って﹁{{仮リンク|人民予算|en|People's Budget}}﹂を否決した。この予算案には土地課税が盛り込まれており、地主貴族から土地の国有化を狙う﹁アカの予算﹂として強い反発を招いていたためだった。ランズダウン |
[[1909年]]には貴族院は予算案に介入しないという慣例を破って﹁{{仮リンク|人民予算|en|People's Budget}}﹂を否決した。この予算案には土地課税が盛り込まれており、地主貴族から土地の国有化を狙う﹁アカの予算﹂として強い反発を招いていたためだった。ランズダウン侯も﹁土地課税が実施されるには土地の評価が前提となる。ひいてはこれが土地の国有化につながる﹂と批判している<ref name="坂井(1967)427">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.420/427</ref>。
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しかしこれを受けて首相[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]は[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]を解散。[[1910年]]1月の{{仮リンク|1910年1月イギリス総選挙|en|United Kingdom general election, January 1910|label=総選挙}}は[[ハング・パーラメント]]となったものの自由党は{{仮リンク|アイルランド議会党|en|Irish Parliamentary Party}}と連立して予算案を通過させた<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.428-435</ref>。 |
しかしこれを受けて首相[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]は[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]を解散。[[1910年]]1月の{{仮リンク|1910年1月イギリス総選挙|en|United Kingdom general election, January 1910|label=総選挙}}は[[ハング・パーラメント]]となったものの自由党は{{仮リンク|アイルランド議会党|en|Irish Parliamentary Party}}と連立して予算案を通過させた<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.428-435</ref>。 |
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[[File:Henry Charles Keith Petty-Fitzmaurice, 5th Marquess of Lansdowne by Philip Alexius de László.jpg|180px|thumb|ガーター騎士団の正装をしたランズダウン侯爵の肖像画(フィリップ・ド・ラースロー画)]] |
[[File:Henry Charles Keith Petty-Fitzmaurice, 5th Marquess of Lansdowne by Philip Alexius de László.jpg|180px|thumb|ガーター騎士団の正装をしたランズダウン侯爵の肖像画(フィリップ・ド・ラースロー画)]] |
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=== 爵位 === |
=== 爵位 === |
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[[1866年]][[7月5日]]の父{{仮リンク|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第4代ランズダウン侯爵)|label=ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス|en|Henry Petty-Fitzmaurice, 4th Marquess of Lansdowne}}の死去により以下の爵位を継承<ref name="thepeerage" /><ref name="CP ML">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/lansdowne1784.htm|title=Lansdowne, Marquess of (GB, 1784)|accessdate= 2016-7-22 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。
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*[[1866年]][[7月5日]]、第5代[[ランズダウン侯爵]]([[1784年]]創設[[グレートブリテン貴族]]爵位)<ref name="thepeerage" /> |
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*1866年7月5日、第5代ワイクーム伯爵(1784年創設グレートブリテン貴族爵位)<ref name="thepeerage" /> |
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*'''サマセット州における第5代ランズダウン侯爵''' <small>(5thMarquess of Lansdowne, in the County of Somerset)</small> |
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*1866年7月5日、第6代[[ケリー伯爵 (アイルランド)|ケリー伯爵]]([[1723年]]創設アイルランド貴族爵位)<ref name="thepeerage" /> |
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*:([[1784年]][[12月6日]]の[[勅許状]]による[[グレートブリテン貴族]]爵位) |
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*'''第6代[[ケリー伯爵 (アイルランド)|ケリー伯爵]]''' <small>(6th Earl of Kerry)</small> |
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*1866年7月5日、第5代キャルネ・アンド・キャルストン子爵(1784年創設グレートブリテン貴族爵位)<ref name="thepeerage" /> |
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*:([[1722年]][[1月17日]]の勅許状による[[アイルランド貴族]]爵位) ※[[法定推定相続人]]の[[儀礼称号]] |
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*'''ウェックスフォード州における第6代[[シェルバーン伯爵]]''' <small>(6th Earl of Shelburne, in the County of Wexford)</small> |
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*1866年7月5日、第6代フィッツモーリス子爵([[1751年]]創設アイルランド貴族爵位)<ref name="thepeerage" /> |
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*:([[1753年]][[6月26日]]の勅許状によるアイルランド貴族爵位) |
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*'''バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムの第5代ウィコム伯爵''' <small>(5th Earl Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham)</small> |
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*1866年7月5日、第6代ワイクーム卿、チッピング・ワイクーム男爵([[1760年]]創設グレートブリテン貴族爵位)<ref name="thepeerage" /> |
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*:(1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族) |
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*1866年7月5日、第24代[[ケリー男爵]]([[1295年]]創設アイルランド貴族爵位)<ref name="thepeerage" /> |
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*'''第6代クランモーリス子爵''' <small>(6th Viscount Clanmaurice)</small> |
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*[[1895年]][[6月26日]]、第9代{{仮リンク|ネアーン卿|en|Lord Nairne}}([[1681年]]創設[[スコットランド貴族]]爵位)<ref name="thepeerage" /> |
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*:(1722年1月17日の勅許状によるアイルランド貴族爵位) |
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*'''第6代フィッツモーリス子爵''' <small>(6th Viscount Fitzmaurice)</small> |
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*:([[1751年]][[10月7日]]の勅許状によるアイルランド貴族爵位) |
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*'''第5代キャルネ=キャルストン子爵''' <small>(5th Viscount Calne and Calston)</small> |
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*:(1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位) |
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*'''第26代ケリー=リックナウ男爵''' <small>(26th Baron of Kerry and Lixnaw)</small> |
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*:([[1223年]]頃創設アイルランド貴族爵位) |
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*'''第6代ダンケロン男爵''' <small>(6th Baron Dunkeron)</small> |
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*:(1751年10月7日の勅許状によるアイルランド貴族爵位) |
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*'''バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムの第6代ウィコム男爵''' <small>(6th Baron Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham)</small> |
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*:([[1760年]][[5月17日]]の勅許状によるグレートブリテン貴族) |
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[[1895年]][[6月26日]]の母{{仮リンク|エミリー・ペティ=フィッツモーリス (ランズダウン侯爵夫人)|label=エミリー・ペティ=フィッツモーリス|en|Emily Petty-Fitzmaurice, Marchioness of Lansdowne}}の死去により以下の爵位を継承した<ref name="thepeerage" /><ref name="CP LN">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/nairne1681.htm|title=Nairne, Lord (S, 1681)|accessdate= 2016-7-22 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。
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*'''第9代{{仮リンク|ネアーン卿|en|Lord Nairne}}''' <small>(9th Lord Nairne)</small> |
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*:([[1681年]][[1月27日]]の勅許状による[[スコットランド貴族]]爵位) |
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=== 勲章 === |
=== 勲章 === |
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*{{Cite book|和書|author=[[浜渦哲雄]]|date=1999年(平成11年)|title=大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120029370|ref=浜渦(1999)}} |
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*{{Cite book|和書|date=2001年(平成13年)|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=[[秦郁彦]]編|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦(2001)}} |
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2016年7月22日 (金) 16:21時点における版
第5代ランズダウン侯爵 ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス Henry Petty-Fitzmaurice, | |
---|---|
![]() ランズダウン侯爵 | |
生年月日 | 1845年1月14日 |
出生地 |
![]() |
没年月日 | 1927年6月3日 (満82歳没) |
死没地 |
![]() |
出身校 | オックスフォード大学ベリオール・カレッジ |
所属政党 | 自由党→自由統一党→保守党 |
称号 | 第5代ランズダウン侯爵、ガーター勲章勲爵士(KG)、インドの星勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCSI)、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)、インド帝国勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCIE)、枢密顧問官 (PC) |
配偶者 | モード |
親族 |
初代ランズダウン侯爵 (曽祖父) 第3代ランズダウン侯爵 (祖父) 初代アバコーン公爵 (義父) 初代フィッツモーリス男爵 (弟) 第9代デヴォンシャー公爵 (娘婿) |
在任期間 | 1883年10月23日 - 1888年6月11日[1] |
女王 | ヴィクトリア |
在任期間 | 1888年12月10日 - 1894年10月11日[2] |
女帝 | ヴィクトリア |
内閣 | 第3次ソールズベリー侯爵内閣 |
在任期間 | 1895年7月4日 - 1900年11月1日[3] |
内閣 | 第3次ソールズベリー侯爵内閣、バルフォア内閣 |
在任期間 | 1900年11月1日 - 1905年12月4日[4] |
| |
在任期間 | 1866年7月5日 - 1927年6月3日[5] |
経歴
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7a/Marquis_of_Lansdowne_Vanity_Fair_4_April_1874.jpg/180px-Marquis_of_Lansdowne_Vanity_Fair_4_April_1874.jpg)
生い立ち
第4代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスと後妻のエミリー・ペティ=フィッツモーリス︵旧姓de Flahault︶の間の長男として生まれる[6][7]。 フィッツモーリス家は12世紀にアイルランド・ケリー州へ移住し、以来同地の領主として君臨してきた家柄である。代々ホイッグ党の政治家の家系であり、曽祖父に首相や内務大臣を務めた初代ランズダウン侯爵ウィリアム・ペティ︵首相在職時の爵位は第2代シェルバーン伯︶、祖父に財務相や内相・枢密院議長を歴任した第3代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスがいる[8]。 イートン・カレッジを経てオックスフォード大学ベリオール・カレッジを卒業した[6][7]。 1866年、父の死により21歳で第5代ランズダウン侯爵位と家督を相続した。なお後に母親からもスコットランド貴族爵位ネアーン卿︵Lord Nairne︶を相続している。ランズダウン侯爵家は大地主であるものの、抱える負債も巨額であり、彼も家計のやり繰りには苦労した[9]。自由党政権において
貴族院議員となったランズダウンは自由党に所属し、第1次グラッドストン内閣では1868年から1872年まで大蔵卿委員[10]を、1872年から1874年まで陸軍省政務次官[6][7]を務めた。 1880年に第2次グラッドストン内閣が発足するとインド省政務次官[6][7]に任じられるが、アイルランド自治に関するウィリアム・グラッドストンの方針に反対して辞職[7]、後に自由党からも離党した。総督として
1883年から1888年までカナダの総督を務めた[11]。彼の総督在任中のカナダはジョン・A・マクドナルドが2期目の首相を務めている時期だったが、鉄道建設をめぐるスキャンダルが発生し、経済も悪化、さらに1885年に北西部でルイ・リエルの反乱が発生するなど危機的状況にあった[12]。ランズダウン侯はカナダの民心の安定を図るために1885年には西部カナダを巡る旅を行い、カナダ先住民とも触れ合った[12]。また米国との漁業問題をめぐる交渉に尽力した[12]。1884年に英国科学振興協会の会合の主催するなど科学のパトロンとしても活動した[12]。カナダに安定を取り戻すことに貢献した優秀な総督と評価されている[12]。 ついで1888年から1894年までインドの総督を務めた[13]。ルピーの減価でイギリスの対印投資が減少している現状を踏まえて、1893年6月にルピーの変動相場制を停止し、1ルピー=1シリング4ペンスの固定相場制へ移行させた。また金本位制導入のため銀貨自由鋳造を停止させた。これによりルピーの交換レートは上がったものの、インド国内の通貨供給が減少し、経済活動の規模は小さくなった[14]。外交面ではアフガン国境の小国フンザとナガルを併合し、シッキム王国やチトラルのカラートを保護国にするなど拡張政策を取った[15]。保守党政権の閣僚として
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/91/Defence_Committee_meeting_in_London.jpg/180px-Defence_Committee_meeting_in_London.jpg)
保守党野党時代
1906年の総選挙において自由党が圧勝すると、保守党が半永久的に多数を占めている貴族院から自由党政府の政策に抵抗するという保守党党首アーサー・バルフォアの計画に協力し、初等教育から宗教教育を排除することを目的とした﹁教育法案﹂や富裕の醸造業者の独占を制限することを目的とした﹁酒類販売免許法案﹂などを貴族院で廃案に追い込んだ[22]。 1909年には貴族院は予算案に介入しないという慣例を破って﹁人民予算﹂を否決した。この予算案には土地課税が盛り込まれており、地主貴族から土地の国有化を狙う﹁アカの予算﹂として強い反発を招いていたためだった。ランズダウン侯も﹁土地課税が実施されるには土地の評価が前提となる。ひいてはこれが土地の国有化につながる﹂と批判している[23]。 しかしこれを受けて首相ハーバート・ヘンリー・アスキスは庶民院を解散。1910年1月の総選挙はハング・パーラメントとなったものの自由党はアイルランド議会党と連立して予算案を通過させた[24]。 さらに同年12月の総選挙後、自由党政権は貴族院の権限を縮小する議会法案を提出してきた。これに対してランズダウン卿は初め徹底抗戦で臨んだが、自由党政権は1911年7月に選挙前に国王から新貴族任命の約束を得ている旨を明らかにし、議会法案を貴族院が否決したら法案に賛成する新貴族任命を行うであろうことをバルフォアやランズダウン卿ら保守党幹部に通告した。ここに至ってランズダウン卿は党首バルフォアとともに法案を可決させるしかないと判断し、貴族院保守党の説得にあたったが、貴族院保守党には徹底抗戦派が多かった。ランズダウン卿はじめ妥協派の保守党貴族院議員ははじめ棄権を考えていたが、棄権すると議会法案否決の公算が大であったため、賛成する方針に転じ、賛成131、反対114の僅差でなんとか可決させた。この結果、イギリスにおける庶民院の優越が確定することとなった[25]。第一次世界大戦
第一次世界大戦中の1915年、ガリポリの戦いはじめ好転しない戦局からアスキスは保守党も取り込んだ挙国一致内閣︵第2次アスキス内閣︶を組織した。この際にランズダウン卿も保守党からの閣僚として無任所大臣として入閣、首相がデビッド・ロイド・ジョージに代わる1916年まで務めた[6][7]。 戦死者の急増で兵員が枯渇してくるとロイド・ジョージやチャーチル、カーゾン卿といった閣僚たちとともに徴兵制導入の主要論者となり、慎重派閣僚たちを退けて、1916年5月に18歳から41歳の男性を一律に即時徴兵する法案を可決させることに成功した[26]。 1916年11月には講和覚書を書き、閣僚たちに回覧した。その中でランズダウン卿はイギリスが今度の大戦で負った甚大な人的・財政的・物的損害を列挙したうえで﹁この負担に耐えることはもとより国民の義務であり、国民の士気も衰えてはいないが、近い将来敵国を打倒し、無条件降伏を受諾させられるかは極めて疑わしい。そうなると無用の殺戮を不必要に長引かせていることに責任が生じよう。﹂と論じ、ドイツとの講和交渉に応じる可能性を排除すべきではないと訴えた。だがこれは陸軍大臣ロイド・ジョージら反政府派から厳しく批判された︵ロイド・ジョージはアスキスに対する政権内不満分子になりはじめていた︶[27]。晩年・死去
1927年6月3日、心臓発作のため死去。82歳。爵位は長男のケリー伯爵ヘンリーが相続した。遺産は土地が 1,044,613 UKポンド、他の資産が 233,888 UKポンドであった。栄典
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/eb/Henry_Charles_Keith_Petty-Fitzmaurice%2C_5th_Marquess_of_Lansdowne_by_Philip_Alexius_de_L%C3%A1szl%C3%B3.jpg/180px-Henry_Charles_Keith_Petty-Fitzmaurice%2C_5th_Marquess_of_Lansdowne_by_Philip_Alexius_de_L%C3%A1szl%C3%B3.jpg)
爵位
1866年7月5日の父ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの死去により以下の爵位を継承[6][28]。 ●サマセット州における第5代ランズダウン侯爵 (5thMarquess of Lansdowne, in the County of Somerset) (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位) ●第6代ケリー伯爵 (6th Earl of Kerry) (1722年1月17日の勅許状によるアイルランド貴族爵位) ※法定推定相続人の儀礼称号 ●ウェックスフォード州における第6代シェルバーン伯爵 (6th Earl of Shelburne, in the County of Wexford) (1753年6月26日の勅許状によるアイルランド貴族爵位) ●バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムの第5代ウィコム伯爵 (5th Earl Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham) (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族) ●第6代クランモーリス子爵 (6th Viscount Clanmaurice) (1722年1月17日の勅許状によるアイルランド貴族爵位) ●第6代フィッツモーリス子爵 (6th Viscount Fitzmaurice) (1751年10月7日の勅許状によるアイルランド貴族爵位) ●第5代キャルネ=キャルストン子爵 (5th Viscount Calne and Calston) (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位) ●第26代ケリー=リックナウ男爵 (26th Baron of Kerry and Lixnaw) (1223年頃創設アイルランド貴族爵位) ●第6代ダンケロン男爵 (6th Baron Dunkeron) (1751年10月7日の勅許状によるアイルランド貴族爵位) ●バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムの第6代ウィコム男爵 (6th Baron Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham) (1760年5月17日の勅許状によるグレートブリテン貴族) 1895年6月26日の母エミリー・ペティ=フィッツモーリスの死去により以下の爵位を継承した[6][29]。 ●第9代ネアーン卿 (9th Lord Nairne) (1681年1月27日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)勲章
●1884年、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス︵GCMG︶[30] ●1888年、インド帝国勲章ナイト・グランド・コマンダー︵GCIE︶[6] ●1888年、インドの星勲章ナイト・グランド・コマンダー︵GCSI︶[6] ●1895年、ガーター勲章勲爵士︵KG︶[31] ●1905年、ロイヤル・ヴィクトリア剄飾[32]その他
●1895年、枢密顧問官 ︵PC︶[16] ●法学博士号︵マギル大学名誉学位︶[6] ●法学博士号︵リーズ大学名誉学位︶[6] ●法学博士号︵ケンブリッジ大学名誉学位︶[6]家族
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e9/Lady_Maud_Evelyn_Hamilton%2C_Marchioness_of_Lansdowne_by_Cowell%2C_Simla%2C_India.jpg/180px-Lady_Maud_Evelyn_Hamilton%2C_Marchioness_of_Lansdowne_by_Cowell%2C_Simla%2C_India.jpg)
出典
参考文献
●坂井秀夫﹃政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として﹄創文社、1967年(昭和42年)。ASIN B000JA626W。 ●バーバラ・タックマン 著、大島かおり 訳﹃世紀末のヨーロッパ 誇り高き塔・第一次大戦前夜﹄筑摩書房、1990年︵平成2年︶。ISBN 978-4480855541。 ●中村祐吉﹃イギリス政変記 アスキス内閣の悲劇﹄集英社、1978年︵昭和53年︶。ASIN B000J8P5LC。 ●浜渦哲雄﹃大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか﹄中央公論新社、1999年(平成11年)。ISBN 978-4120029370。 ●秦郁彦編 編﹃世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000﹄東京大学出版会、2001年︵平成13年︶。ISBN 978-4130301220。外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Henry Petty-FitzMaurice
- “Former Governors General” (英語). The Governor General of Canada. 2010年11月28日閲覧。
公職 | ||
---|---|---|
先代 エドワード・スタンホープ |
![]() 1880年 |
次代 エンフィールド子爵 |
先代 サー・ヘンリー・キャンベル=バナマン |
![]() 1895年 - 1900年 |
次代 ウィリアム・セント・ジョン・ブロドリック |
先代 第3代ソールズベリー侯爵 |
![]() 1900年 - 1905年 |
次代 サー・エドワード・グレイ准男爵 |
先代 第8代デヴォンシャー公爵 |
![]() 1903年 - 1905年 |
次代 初代リポン侯爵 |
官職 | ||
先代 ローン侯爵 |
![]() 1883年 - 1888年 |
次代 初代スタンリー・オブ・プレストン男爵 |
先代 初代ダファリン伯爵 |
![]() 1888年 - 1894年 |
次代 第9代エルギン伯爵 |
名誉職 | ||
先代 第4代バース侯爵 |
![]() 1896年–1920年 |
次代 ウォルター・ロング |
党職 | ||
先代 第8代デヴォンシャー公爵 |
保守党貴族院院内総務 1903年-1916年 |
次代 初代カーゾン・オブ・ケドルストン伯爵 |
先代 アーサー・バルフォア |
保守党党首 保守党庶民院院内総務アンドルー・ボナー・ローとともに 1911年-1916年 |
次代 アンドルー・ボナー・ロー |
グレートブリテンの爵位 | ||
先代 ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス |
![]() 1866年 - 1927年 |
次代 ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス |
スコットランドの爵位 | ||
先代 エミリー・ペティ=フィッツモーリス |
![]() 1895年 - 1927年 |
次代 ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス |