「ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)」の版間の差分
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'''第5代[[ランズダウン侯爵]]ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス'''︵{{lang-en-short|Henry Charles Keith Petty-FitzMaurice, 5th Marquess of Lansdowne}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[インドの星勲章|GCSI]], [[聖マイケル・聖ジョージ勲章|GCMG]], [[インド帝国勲章|GCIE]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}、[[1845年]][[1月14日]] - [[1927年]][[6月3日]]︶は、[[イギリス]]の[[貴族]]、[[政治家]]。
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'''第5代[[ランズダウン侯爵]]ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス'''︵{{lang-en-short|Henry Charles Keith Petty-FitzMaurice, 5th Marquess of Lansdowne}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[インドの星勲章|GCSI]], [[聖マイケル・聖ジョージ勲章|GCMG]], [[インド帝国勲章|GCIE]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}、[[1845年]][[1月14日]] - [[1927年]][[6月3日]]︶は、[[イギリス]]の[[貴族]]、[[政治家]]。
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2022年2月15日 (火) 20:46時点における版
第5代ランズダウン侯爵 ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス Henry Petty-Fitzmaurice, | |
---|---|
![]() ランズダウン侯爵 | |
生年月日 | 1845年1月14日 |
出生地 |
![]() |
没年月日 | 1927年6月3日 (満82歳没) |
死没地 |
![]() |
出身校 | オックスフォード大学ベリオール・カレッジ |
所属政党 | 自由党→自由統一党→保守党 |
称号 | 第5代ランズダウン侯爵、ガーター勲章勲爵士(KG)、インドの星勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCSI)、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)、インド帝国勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCIE)、枢密顧問官 (PC) |
配偶者 | モード(旧姓ハミルトン) |
親族 | 初代ランズダウン侯爵(曽祖父)、第3代ランズダウン侯爵 (祖父)、第4代ランズダウン侯爵(父)、初代フィッツモーリス男爵(弟)、初代アバコーン公爵(義父)、第9代デヴォンシャー公爵(娘婿)、タレーラン(曽祖父)、シャルル・ド・モルニー(伯父) |
在任期間 | 1883年10月23日 - 1888年6月11日[1] |
女王 | ヴィクトリア |
在任期間 | 1888年12月10日 - 1894年10月11日[2] |
女帝 | ヴィクトリア |
内閣 | 第3次ソールズベリー侯爵内閣 |
在任期間 | 1895年7月4日 - 1900年11月1日[3] |
内閣 | 第3次ソールズベリー侯爵内閣、バルフォア内閣 |
在任期間 | 1900年11月1日 - 1905年12月4日[4] |
| |
在任期間 | 1866年7月5日 - 1927年6月3日[5] |
経歴
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7a/Marquis_of_Lansdowne_Vanity_Fair_4_April_1874.jpg/180px-Marquis_of_Lansdowne_Vanity_Fair_4_April_1874.jpg)
生い立ち
第4代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスと後妻のエミリー・ペティ=フィッツモーリス︵フランス外相タレーランの息子であるフランス軍将軍シャルル・ド・フラオーの娘︶の間の長男として生まれる[6][7]。 フィッツモーリス家は12世紀にアイルランド・ケリー県へ移住し、以来同地の領主として君臨してきた家柄である。代々ホイッグ党の政治家の家系であり、曽祖父に首相や内務大臣を務めた初代ランズダウン侯爵ウィリアム・ペティ︵首相在職時の爵位は第2代シェルバーン伯︶、祖父に財務相や内相・枢密院議長を歴任した第3代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスがいる[8]。 イートン・カレッジを経てオックスフォード大学ベリオール・カレッジを卒業した[6][7]。 1866年、父の死により21歳で第5代ランズダウン侯爵位と家督を相続した。なお後に母親からもスコットランド貴族爵位ネアーン卿を相続している[9]。ランズダウン侯爵家はアイルランドの大地主であり、1876年時点ではケリー県に94,983エーカー、ミーズ県に12,995エーカー、クイーンズ・カウンティ︵現代のリーシュ県︶に8,980エーカー、ダブリン県に2,132エーカー、リムリック県に1,526エーカー、キングス・カウンティ︵現代のオファリー県︶に617エーカー、リムリック市に116エーカーの領地を所有し、これらの領地は年収32,342ポンド相当だった[10]。しかし、抱える負債も巨額であり、彼も家計のやり繰りには苦労した[11]。自由党政権において
貴族院議員となったランズダウンは自由党に所属し、第1次グラッドストン内閣では1868年から1872年まで大蔵卿委員[12]を、1872年から1874年まで陸軍省政務次官[6][7]を務めた。 1880年に第2次グラッドストン内閣が発足するとインド省政務次官[6][7]に任じられるが、アイルランド自治に関するウィリアム・グラッドストンの方針に反対して辞職[7]、後に自由党からも離党した。総督として
1883年から1888年までカナダの総督を務めた[13]。彼の総督在任中のカナダはジョン・A・マクドナルドが2期目の首相を務めている時期だったが、鉄道建設をめぐるスキャンダルが発生し、経済も悪化、さらに1885年に北西部でルイ・リエルの反乱が発生するなど危機的状況にあった[14]。ランズダウン侯はカナダの民心の安定を図るために1885年には西部カナダを巡る旅を行い、カナダ先住民とも触れ合った[14]。また米国との漁業問題をめぐる交渉に尽力した[14]。1884年に英国科学振興協会の会合の主催するなど科学のパトロンとしても活動した[14]。カナダに安定を取り戻すことに貢献した優秀な総督と評価されている[14]。 ついで1888年から1894年までインドの総督を務めた[15]。ルピーの減価でイギリスの対印投資が減少している現状を踏まえて、1893年6月にルピーの変動相場制を停止し、1ルピー=1シリング4ペンスの固定相場制へ移行させた。また金本位制導入のため銀貨自由鋳造を停止させた。これによりルピーの交換レートは上がったものの、インド国内の通貨供給が減少し、経済活動の規模は小さくなった[16]。外交面ではアフガン国境の小国フンザとナガルを併合し、シッキム王国やチトラルのカラートを保護国にするなど拡張政策を取った[17]。保守党政権の閣僚として
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/91/Defence_Committee_meeting_in_London.jpg/180px-Defence_Committee_meeting_in_London.jpg)
保守党野党時代
1906年の総選挙において自由党が圧勝すると、保守党が半永久的に多数を占めている貴族院から自由党政府の政策に抵抗するという保守党党首アーサー・バルフォアの計画に保守党貴族院院内総務として協力し、初等教育から宗教教育を排除することを目的とした﹁教育法案﹂や富裕の醸造業者の独占を制限することを目的とした﹁酒類販売免許法案﹂などを貴族院で廃案に追い込んだ[24]。 1909年には貴族院は予算案に介入しないという慣例を破って﹁人民予算﹂を否決した。この予算案には土地課税が盛り込まれており、地主貴族から土地の国有化を狙う﹁アカの予算﹂として強い反発を招いていたためだった。ランズダウン侯も﹁土地課税が実施されるには土地の評価が前提となる。ひいてはこれが土地の国有化につながる﹂と批判している[25]。 しかしこれを受けて首相ハーバート・ヘンリー・アスキスは庶民院を解散。1910年1月の総選挙はハング・パーラメントとなったものの自由党はアイルランド議会党と連立して予算案を通過させた[26]。 さらに同年12月の総選挙後、自由党政権は貴族院の権限を縮小する議会法案を提出してきた。これに対してランズダウン卿は初め徹底抗戦で臨んだが、自由党政権は1911年7月に選挙前に国王から新貴族任命の約束を得ている旨を明らかにし、議会法案を貴族院が否決したら法案に賛成する新貴族任命を行うであろうことをバルフォアやランズダウン卿ら保守党幹部に通告した。ここに至ってランズダウン卿は党首バルフォアとともに法案を可決させるしかないと判断し、貴族院保守党の説得にあたったが、貴族院保守党には徹底抗戦派が多かった。ランズダウン卿はじめ妥協派の保守党貴族院議員ははじめ棄権を考えていたが、棄権すると議会法案否決の公算が大であったため、賛成する方針に転じ、賛成131、反対114の僅差でなんとか可決させた。この結果、イギリスにおける庶民院の優越が確定することとなった[27]。第一次世界大戦
第一次世界大戦中の1915年、ガリポリの戦いはじめ好転しない戦局からアスキスは保守党も取り込んだ挙国一致内閣︵第2次アスキス内閣︶を組織した。この際にランズダウン卿も保守党からの閣僚として無任所大臣として入閣、首相がデビッド・ロイド・ジョージに代わる1916年まで務めた[6][7]。 戦死者の急増で兵員が枯渇してくるとロイド・ジョージやウィンストン・チャーチル、カーゾン伯、オースティン・チェンバレンといった閣僚たちとともに徴兵制導入の主要論者となり、慎重派閣僚たちを退けて、1916年5月に18歳から41歳の男性を一律に即時徴兵する1916年兵役法を可決させることに成功した[28]。 1916年11月には講和覚書を書き、閣僚たちに回覧した。その中でランズダウン卿はイギリスが今度の大戦で負った甚大な人的・財政的・物的損害を列挙したうえで﹁この負担に耐えることはもとより国民の義務であり、国民の士気も衰えてはいないが、近い将来敵国を打倒し、無条件降伏を受諾させられるかは極めて疑わしい。そうなると無用の殺戮を不必要に長引かせていることに責任が生じよう。﹂と論じ、ドイツとの講和交渉に応じる可能性を排除すべきではないと訴えた。だがこれは陸軍大臣ロイド・ジョージら徹底抗戦派の閣内反政府派から厳しく批判された︵ロイド・ジョージはアスキスに対する政権内不満分子になりはじめていた︶[29]。 1916年12月にアスキス内閣が崩壊してロイド・ジョージ内閣が成立すると閣僚職辞職を余儀なくされ、保守党貴族院院内総務の地位もカーゾン卿に譲ることになった[30]。 政府を追われた後もこれ以上の戦争継続を疑問視し、1917年11月29日付けの﹃デイリー・テレグラフ﹄でドイツと早期講和するべきである旨を訴えて物議を醸した︵Lansdowne Letter︶[31]。晩年・死去
1927年6月3日、心臓発作のため死去。82歳。爵位は長男のケリー伯爵ヘンリーが相続した。遺産は土地が 1,044,613 UKポンド、他の資産が 233,888 UKポンドであった。栄典
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/eb/Henry_Charles_Keith_Petty-Fitzmaurice%2C_5th_Marquess_of_Lansdowne_by_Philip_Alexius_de_L%C3%A1szl%C3%B3.jpg/180px-Henry_Charles_Keith_Petty-Fitzmaurice%2C_5th_Marquess_of_Lansdowne_by_Philip_Alexius_de_L%C3%A1szl%C3%B3.jpg)
爵位
1866年7月5日の父ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの死去により以下の爵位を継承[6][32]。 ●サマセット州における第5代ランズダウン侯爵 (5thMarquess of Lansdowne, in the County of Somerset) (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位) ●第6代ケリー伯爵 (6th Earl of Kerry) (1722年1月17日の勅許状によるアイルランド貴族爵位) ●ウェックスフォード県における第6代シェルバーン伯爵 (6th Earl of Shelburne, in the County of Wexford) (1753年6月26日の勅許状によるアイルランド貴族爵位) ●バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムの第5代ウィコム伯爵 (5th Earl Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham) (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族) ●第6代クランモーリス子爵 (6th Viscount Clanmaurice) (1722年1月17日の勅許状によるアイルランド貴族爵位) ●第6代フィッツモーリス子爵 (6th Viscount Fitzmaurice) (1751年10月7日の勅許状によるアイルランド貴族爵位) ●第5代キャルネ=キャルストン子爵 (5th Viscount Calne and Calston) (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位) ●第26代ケリー=リックナウ男爵 (26th Baron of Kerry and Lixnaw) (1223年頃創設アイルランド貴族爵位) ●第6代ダンケロン男爵 (6th Baron Dunkeron) (1751年10月7日の勅許状によるアイルランド貴族爵位) ●バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムの第6代ウィコム男爵 (6th Baron Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham) (1760年5月17日の勅許状によるグレートブリテン貴族) 1895年6月26日の母エミリー・ペティ=フィッツモーリスの死去により以下の爵位を継承した[6][9]。 ●第9代ネアーン卿 (9th Lord Nairne) (1681年1月27日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)勲章
●1884年、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス︵GCMG︶[33] ●1888年、インド帝国勲章ナイト・グランド・コマンダー︵GCIE︶[6] ●1888年、インドの星勲章ナイト・グランド・コマンダー︵GCSI︶[6] ●1895年、ガーター勲章勲爵士︵KG︶[34] ●1905年、ロイヤル・ヴィクトリア剄飾[35]その他
●1895年、枢密顧問官 ︵PC︶[18] ●法学博士号︵マギル大学名誉学位︶[6] ●法学博士号︵リーズ大学名誉学位︶[6] ●法学博士号︵ケンブリッジ大学名誉学位︶[6]家族
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e9/Lady_Maud_Evelyn_Hamilton%2C_Marchioness_of_Lansdowne_by_Cowell%2C_Simla%2C_India.jpg/180px-Lady_Maud_Evelyn_Hamilton%2C_Marchioness_of_Lansdowne_by_Cowell%2C_Simla%2C_India.jpg)
出典
参考文献
●坂井秀夫﹃政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として﹄創文社、1967年。ASIN B000JA626W。 ●バーバラ・タックマン 著、大島かおり 訳﹃世紀末のヨーロッパ 誇り高き塔・第一次大戦前夜﹄筑摩書房、1990年。ISBN 978-4480855541。 ●中村祐吉﹃イギリス政変記 アスキス内閣の悲劇﹄集英社、1978年。ASIN B000J8P5LC。 ●浜渦哲雄﹃大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか﹄中央公論新社、1999年。ISBN 978-4120029370。 ●秦郁彦編 編﹃世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000﹄東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。 ●松村赳、富田虎男﹃英米史辞典﹄研究社、2000年。ISBN 978-4767430478。外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Henry Petty-FitzMaurice
- “Former Governors General” (英語). The Governor General of Canada. 2010年11月28日閲覧。
公職 | ||
---|---|---|
先代 エドワード・スタンホープ |
![]() 1880年 |
次代 エンフィールド子爵 |
先代 サー・ヘンリー・キャンベル=バナマン |
![]() 1895年 - 1900年 |
次代 セントジョン・ブロドリック |
先代 第3代ソールズベリー侯爵 |
![]() 1900年 - 1905年 |
次代 サー・エドワード・グレイ准男爵 |
先代 第8代デヴォンシャー公爵 |
![]() 1903年 - 1905年 |
次代 初代リポン侯爵 |
官職 | ||
先代 ローン侯爵 |
![]() 1883年 - 1888年 |
次代 初代スタンリー・オブ・プレストン男爵 |
先代 初代ダファリン伯爵 |
![]() 1888年 - 1894年 |
次代 第9代エルギン伯爵 |
名誉職 | ||
先代 第4代バース侯爵 |
![]() 1896年–1920年 |
次代 ウォルター・ロング |
党職 | ||
先代 第8代デヴォンシャー公爵 |
保守党貴族院院内総務 1903年-1916年 |
次代 初代カーゾン伯爵 |
先代 アーサー・バルフォア |
保守党党首 保守党庶民院院内総務アンドルー・ボナー・ローとともに 1911年-1916年 |
次代 アンドルー・ボナー・ロー |
グレートブリテンの爵位 | ||
先代 ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス |
![]() 1866年 - 1927年 |
次代 ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス |
スコットランドの爵位 | ||
先代 エミリー・ペティ=フィッツモーリス |
![]() 1895年 - 1927年 |
次代 ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス |