「ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー」の版間の差分
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{{Infobox 作家 |
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| name = ヘンリー・ワ |
| name = <small>ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー<br />Henry Wadsworth Longfellow</small> |
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| caption = <!--[[ジュリア・マーガレット・カメロン]]撮影--><!-- ← キャプションは本人に関する情報 -->1868年 |
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| movement =[[ロマン主義]] |
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| spouses=メアリー・ストーラー・ポッター(1831 - 1835没)<br>フランシス・ファニー・アップルトン(1843 - 1861没) |
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| signature = HWLongfellow autograph1.png}} |
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'''ヘンリー・ワ |
'''ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー'''︵{{lang-en-short|Henry Wadsworth Longfellow}}、[[1807年]][[2月27日]] - [[1882年]][[3月24日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Henry-Wadsworth-Longfellow Henry Wadsworth Longfellow American poet] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>︶は、[[アメリカ合衆国]]の[[詩人]]である。代表作に﹁ポール・リビアの騎行﹂{{enlink|Paul Revere's Ride}}、﹁人生讃歌﹂{{enlink|A Psalm of Life}}、﹁[[ハイアワサの歌]]﹂{{enlink|The Song of Hiawatha}}、﹁エヴァンジェリン﹂{{enlink|Evangeline}}などがあり、[[ダンテ・アリギエーリ]]の﹁[[神曲]]﹂をアメリカで初めて翻訳した人物でもある<ref>{{Cite web|和書|url=http://fukushima-net.com/sites/meigen/672|title=︻成長しようとする心が若さを保つ秘訣。︼ ロングフェロー|publisher=福島みんなのNEWS|accessdate=2020-10-08}}</ref>。﹁炉辺の詩人﹂5人組の1人として知られる。[[メイン州]][[ポートランド (メイン州)|ポートランド]]で生まれ育つ。[[ブランズウィック (メイン州)|ブランズウィック]]の[[ボウディン大学]]で学び、幾度かの海外滞在を経た後、後半生の45年間は[[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]で過ごした。
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== 来歴 == |
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ロングフェローは |
ロングフェローは1807年2月27日に、[[メイン州]]ポートランドで、スティーヴン・ロングフェローとジルパー・ワズワース・ロングフェロー夫妻の子として生まれ、現在もワズワース・ロングフェロー・ハウスとして知られる家で育った。父親は弁護士であり、母方の祖父ペレグ・ワズワース・シニアは[[アメリカ独立戦争]]を戦った将軍だった。ロングフェロー家は1676年に[[イギリス]]の[[ヨークシャー]]から新大陸に渡ってきた一家である。また母方からは、[[メイフラワー号]]の乗船者のプリシラ・オールデン、ジョン・オールデン、ウィリアム・ブリュースター、ヘンリー・サムソン、ジョン・ハウランド、リチャード・ウォーレンの血を、また歴代大統領の幾人かを出したジョン・ラスロップ牧師の血も受けていた。<ref> [http://www.hwlongfellow.org/family_genealogy.shtml Henry Wadsworth Longfellow - A Maine Historical Society Web Site - Wadsworth-Longfellow Genealogy]</ref>
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ロングフェローの兄弟は、ステ |
ロングフェローの兄弟は、スティーヴン︵1805年生︶、エリザベス︵1808年生︶、アン︵1810年生︶、アレクサンダー︵1814年生︶、メアリー︵1816年生︶、エレン︵1818年生︶、サミュエル︵1819年生︶の7人だった。
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ロングフェローは読み書きに大変優れており、3歳で私塾に入学し、6歳の時にはポートランド・アカデミーに入った。 |
ロングフェローは読み書きに大変優れており、3歳で私塾に入学し、6歳の時にはポートランド・アカデミーに入った。1822年、14歳でブランズウィックの[[ボウディン大学]]に入学した。ここでは生涯の友人となる[[ナサニエル・ホーソーン]]と出会った。 |
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=== 最初の欧州旅行とボ |
=== 最初の欧州旅行とボウディン大学での教授職 === |
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1825年に[[ボウディン大学]]を卒業すると、言語学の研究のために何度か[[ヨーロッパ]]に派遣するという条件付で[[ボウディン大学]]の教授職の申し出を受けた<ref> Monterio. p. xx</ref>。1826年から1829年の間、ヨーロッパ︵イギリス、フランス、ドイツ、オランダ、イタリア、スペイン︶を旅し、帰国すると[[ボウディン大学]]では初めての現代言語学教授となり、また非常勤司書にもなった。この教授時代にロングフェローはフランス語、イタリア語、スペイン語で教本を書き、また旅行記﹁海を越えて‥海を渡ったピルグリム﹂(''Outre-Mer: A Pilgrimage Beyond the Sea'')を著した<ref> Monterio. pp. xx - xxi</ref>。[[1831年]]、ポートランドのメアリー・ストーラー・ポッターと結婚した。
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=== 2回目の欧州旅行とハーバードでの教授職 === |
=== 2回目の欧州旅行とハーバードでの教授職 === |
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[[ファイル:Henry Wadsworth Longfellow - Project Gutenberg eText 16786.jpg|thumb|ヘンリー・ワ |
[[ファイル:Henry Wadsworth Longfellow - Project Gutenberg eText 16786.jpg|thumb|ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー]] |
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ロングフェローはまた、1年間程度の海外留学という条件付で[[ハーバード大学]]のフランス語とスペイン語のスミス教授職 (Smith Professor of French and Spanish) を得た。ロングフェローが旅の途上、[[ロッテルダム]]にいた |
ロングフェローはまた、1年間程度の海外留学という条件付で[[ハーバード大学]]のフランス語とスペイン語のスミス教授職 (Smith Professor of French and Spanish) を得た。ロングフェローが旅の途上、[[ロッテルダム]]にいた1835年、妻メアリーは流産の後に22歳で亡くなった。その3年後、ロングフェローはメアリーとの愛に着想を得て﹁天使の足跡﹂(''Footsteps of Angels'')を書いた。
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ロングフェローは |
ロングフェローは1836年にアメリカに戻り、ハーバードの教授職に就いた。ケンブリッジに移り住み、終生そこに留まることになった。ただし、夏の間だけは[[ナハント (マサチューセッツ州)|ナハント]]で過ごした。この頃に詩集の刊行を始めた。1839年の﹁夜の声﹂(''Voices of the Night'')、1841年の﹁バラードと他の詩﹂(''Ballads and Other Poems'')である。﹁バラードと他の詩﹂には有名な[[詩]]﹁村の鍛冶屋﹂(''The Village Blacksmith'')が入っている。1842年にはドイツのライン地方に詩人の[[フェルディナント・フライリヒラート]]を訪問し、終生の交友を結ぶ。
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⚫ | ロングフェローは1854年にハーバードを退職し、著述に専念することにした。1859年にはハーバード大学から名誉博士号を受けた。 |
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=== フランシス・"ファニー"・アップルトンとの結婚 === |
=== フランシス・"ファニー"・アップルトンとの結婚 === |
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ロングフェローは、[[ボストン]]の裕福な実業家ネイサン・アップルトンの娘、フランシス・"ファニー"・アップルトンとの交際を始めた。この交際期間、ロングフェローは度々ハーバードからボストン・ブリッジを越えてボストンのアップルトン家まで歩いて通った。この橋は老朽化したために |
ロングフェローは、[[ボストン]]の裕福な実業家ネイサン・アップルトンの娘、フランシス・"ファニー"・アップルトンとの交際を始めた。この交際期間、ロングフェローは度々ハーバードからボストン・ブリッジを越えてボストンのアップルトン家まで歩いて通った。この橋は老朽化したために1906年に架け替えられ、ロングフェロー・ブリッジと名づけられた。 |
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7年後にファニーが結婚に同意し、[[1843年]]に二人は結婚した。ネイサン・アップルトンは二人への結婚祝に[[チャールズ川]]を見下ろす「クレーギー・ハウス」を購入した。この家は、独立戦争中に[[ジョージ・ワシントン]]将軍とその参謀が占領したものだった<ref> [http://lnhstest.brinkster.net/ クレーギー・ハウス]、[http://lnhstest.brinkster.net/ Longfellow birthplace]</ref>。 |
7年後にファニーが結婚に同意し、[[1843年]]に二人は結婚した。ネイサン・アップルトンは二人への結婚祝に[[チャールズ川]]を見下ろす「クレーギー・ハウス」を購入した。この家は、独立戦争中に[[ジョージ・ワシントン]]将軍とその参謀が占領したものだった<ref> [http://lnhstest.brinkster.net/ クレーギー・ハウス]、[http://lnhstest.brinkster.net/ Longfellow birthplace]</ref>。 |
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ロングフェローのファニーに注いだ愛は、 |
ロングフェローのファニーに注いだ愛は、1845年10月に書いた彼の唯一の愛の詩、ソネット「夜の星」(''The Evening Star'')の中の次の行に見て取ることができる。 |
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<blockquote>おお、私の愛するいとしい金星!私の朝のそして夜の愛の星!(O my beloved, my sweet Hesperus! My morning and my evening star of love!)</blockquote> |
<blockquote>おお、私の愛するいとしい金星!私の朝のそして夜の愛の星!(O my beloved, my sweet Hesperus! My morning and my evening star of love!)</blockquote> |
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ロングフェローとファニーの間には6人の子供が生まれた。 |
ロングフェローとファニーの間には6人の子供が生まれた。 |
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⚫ | ロングフェローは |
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=== ファニーの死 === |
=== ファニーの死 === |
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ロングフェローは家庭生活を愛する |
ロングフェローは家庭生活を愛する良き夫であり、良き父親であった。しかし、突然の悲劇に襲われた。 |
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[[1861年]]7月 |
[[1861年]]7月9日、ファニーが子供の髪の房を封筒に入れて[[封蝋]]で封緘しようとしていた時に衣服に引火、重篤な火傷を負ったことで翌10日に死去した。44歳だった。ロングフェローはファニーの死にひどく落胆し、終生立ち直ることがなかった。ロングフェローの悲しみの強さは、ファニーの死後18年も経って彼女の思い出に書いたソネット﹁雪の十字架﹂(''The Cross of Snow'')の次の節からも見て取れる。
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<blockquote>これが私が胸につける十字架 (Such is the cross I wear upon my breast) |
<blockquote>これが私が胸につける十字架 (Such is the cross I wear upon my breast) |
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=== 死 === |
=== 死 === |
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ロングフェローは |
ロングフェローは1882年3月24日、5日間[[腹膜炎]]を患った後に死去。遺体は二人の妻が眠るケンブリッジの[[マウント・オーバーン墓地]]に埋葬された。1884年、[[ロンドン]]の[[ウェストミンスター寺院]]の詩人のコーナーに、アメリカの詩人としては初めてその胸像が置かれた。 |
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== 家族 == |
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⚫ | 1847年4月7日に妻のファニーが長女ファニーを出産した際、医師のネイサン・クーリー・キープが妊婦に産科麻酔を使用しているが、これがアメリカにおける産科麻酔使用の初例として知られる。 |
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長男の'''チャールズ・ロングフェロー'''は1871年(明治3年)6月から1873年(明治5年)3月までの間日本に滞在し、東京・蝦夷・長崎など日本各所を訪問。[[明治天皇]]に拝謁したり、[[岩崎弥太郎]]や[[山内容堂]]と親交を結んだりもしている。家族への手紙の中で当時の日本社会の様子やそこでの暮らしを詳しく伝えている。滞在中に撮影した写真や日記を元にした『ロングフェロー日本滞在記』が[[平凡社]]から出版されているほか、手に入れた土産品などが[[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]の{{仮リンク|ロングフェロー邸|en|Longfellow House–Washington's Headquarters National Historic Site}}で展示されている。 |
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== 作品 == |
== 作品 == |
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ロングフェローの作品は彼の時代には広い人気を集め、現代の批評家の中には感傷的に過ぎるという者もいるが、現代でもなお人気がある。その詩は親しみやすく、分かりやすい題材を扱い、平明で、流麗な言葉を用いている。ロングフェローの詩作品がアメリカの聴衆を作り、アメリカの神話を生むことになったのである。
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ロングフェローの作品は彼の時代には広い人気を集め、現代の批評家の中には感傷的に過ぎるという者もいるが、現代でもなお人気がある。その詩は親しみやすく、分かりやすい題材を扱い、平明で、流麗な言葉を用いている。ロングフェローの詩作品がアメリカの聴衆を作り、アメリカの神話を生むことになったのである。
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ロングフェローの詩「クリスマスの鐘」(''Christmas Bells'')は、クリスマス・キャロル「クリスマスの日に鐘の音を聞いたよ」 |
ロングフェローの詩「クリスマスの鐘」(''Christmas Bells'')は、クリスマス・キャロル「クリスマスの日に鐘の音を聞いたよ」{{enlink|I Heard the Bells on Christmas Day}}の元になっている。 |
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ケンブリッジにあるロングフェローの家、ロングフェロー国定歴史サイトは、アメリカ国定歴史サイト、[[アメリカ国定歴史建造物]]、アメリカ登録歴史プレースに指定されている。 |
ケンブリッジにあるロングフェローの家、ロングフェロー国定歴史サイトは、アメリカ国定歴史サイト、[[アメリカ国定歴史建造物]]、アメリカ登録歴史プレースに指定されている。1906年、その3分の2縮尺の家が[[ミネソタ州]][[ミネアポリス]]のミネハナ公園に造られ、動物園の目玉的存在になった。また、ポートランドのダウンタウンにあるロングフェローの生家は、メイン州歴史協会によって保存・運営され、夏季のみ博物館として公開されている。 |
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<div style="clear: bot$&"></div> |
<div style="clear: bot$&"></div> |
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* ドン・ホルヘ・マンリケのコプラ (Coplas de Don Jorge Manrique. スペイン語からの翻訳, 1833) |
* ドン・ホルヘ・マンリケのコプラ (Coplas de Don Jorge Manrique. スペイン語からの翻訳, 1833) |
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* 海を越えて:海を渡ったピルグリム (Outre-Mer: A Pilgrimage Beyond the Sea. 旅行記, 1835) |
* 海を越えて:海を渡ったピルグリム (Outre-Mer: A Pilgrimage Beyond the Sea. 旅行記, 1835) |
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* 夜の声 |
* 夜の声 (Voices of the Night. 1839) - 処女詩集、「人生の讃歌」を含む。 |
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* ハイペリオン |
* ハイペリオン (Hyperion, a Romance. 1839) |
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* バラードと他の詩 (Ballads and Other Poems. 1842) |
* バラードと他の詩 (Ballads and Other Poems. 1842) - ﹁村の鍛冶屋﹂{{enlink|The Village Blacksmith}}、﹁もっと高く﹂{{enlink|Excelsior (Longfellow)|Excelsior}}を含む詩集。
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* 奴隷の詩 (Poems on Slavery. 1842) |
* 奴隷の詩 (Poems on Slavery. 1842) |
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* スペインの学生 (The Spanish Student. 3幕劇, 1843) |
* スペインの学生 (The Spanish Student. 3幕劇, 1843) |
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* 黄金の伝説 (The Golden Legend. 詩劇, 1851) |
* 黄金の伝説 (The Golden Legend. 詩劇, 1851) |
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* [[ハイアワサの歌]] (The Song of Hiawatha. 叙事詩, 1855) |
* [[ハイアワサの歌]] (The Song of Hiawatha. 叙事詩, 1855) |
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* マイル |
* マイルズ・スタンディッシュの求婚と他の詩 (The Courtship of Miles Standish and Other Poems. 1858) |
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* 路傍の宿屋の話 (Tales of a Wayside Inn. 詩歌, 1863) |
* 路傍の宿屋の話 (Tales of a Wayside Inn. 詩歌, 1863) |
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* 家の詩 (Household Poems. 1865) |
* 家の詩 (Household Poems. 1865) |
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* ニューイングランドの悲劇 (The New England Tragedies. 1868) |
* ニューイングランドの悲劇 (The New England Tragedies. 1868) |
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* 神の悲劇 (The Divine Tragedy. 1871) |
* 神の悲劇 (The Divine Tragedy. 1871) |
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* クリスタス (Christus: A Mystery. 1872) - 上記の「神の悲劇」「黄金の伝説」「ニューイングランドの悲劇」を合わせて三部作としたもの。 |
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* クリストゥス (Christus. ミステリー, 1872) |
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* 3冊の歌の本 (Three Books of Song. 1872) |
* 3冊の歌の本 (Three Books of Song. 1872) |
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* その後 (Aftermath. 詩, 1873) |
* その後 (Aftermath. 詩, 1873) |
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=== 日本語訳 === |
=== 日本語訳 === |
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日本人による翻訳は1870年に[[中村正直]]によって「村の鍛冶屋」が七言の[[漢詩]]「打鉄匠歌」として翻訳されたのにはじまり、『[[新体詩抄]]』(1882年)に3編が日本語に翻訳されてから愛読されるようになった。長編では[[山路愛山]]が1891年に「マイルス・スタンヂッシュの恋」を翻訳したのが最初である<ref>{{cite journal|和書|author=鈴木進|year=2002|title=アメリカ文学翻訳事始め―ロングフェローの訳詩と訳者たち―|journal=湘南国際女子短期大学紀要|issue=9|pages=102-114|url=http://id.nii.ac.jp/1361/00000791/}}</ref>(下記の大空社『アメリカ詩集』に収録)。 |
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* 西川光太郎註訳『プリモスの美人』東文館、1902年 |
* 西川光太郎註訳『プリモスの美人』東文館、1902年 |
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* 高須梅渓(高須芳次郎)訳『乙女の操』新潮社、1906年 |
* 高須梅渓(高須芳次郎)訳『乙女の操』新潮社、1906年 |
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* 生田春月訳『ロングフェロウ詩集』越山堂、1923年 |
* 生田春月訳『ロングフェロウ詩集』越山堂、1923年 |
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* 山内六郎訳『涙の彼方に : エヴェンゼリン物語 : 詩物語』平凡社、1926年 |
* 山内六郎訳『涙の彼方に : エヴェンゼリン物語 : 詩物語』平凡社、1926年 |
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* 幡谷正雄訳『イ |
* 幡谷正雄訳『イヷンヂェリン』新潮社、1927年(〈新潮文庫113〉、1934年) |
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* 齋藤悦子訳『エヴァンジェリン : 哀詩』岩波書店〈岩波文庫700〉1930年、ISBN 4003230515 |
* 齋藤悦子訳『エヴァンジェリン : 哀詩』岩波書店〈岩波文庫700〉1930年、ISBN 4003230515 |
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* 關口野薔薇訳『エバンジエリン』天沼幼稚園、1934年 |
* 關口野薔薇訳『エバンジエリン』天沼幼稚園、1934年 |
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* 松山敏訳『ロングフェロウ詩集』人生社〈人生詩歌文庫9〉、1953年 |
* 松山敏訳『ロングフェロウ詩集』人生社〈人生詩歌文庫9〉、1953年 |
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* 大和資雄訳「夜の声」『世界名詩集大成 11 アメリカ』平凡社、1959年 |
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* しらいしかずこ訳『ハイワサのちいさかったころ』ほるぷ出版、1989年、ISBN 4593502233 |
* しらいしかずこ訳『ハイワサのちいさかったころ』ほるぷ出版、1989年、ISBN 4593502233 |
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* 三宅一郎訳『[[ハイアワサの歌]]』作品社、1993年、ISBN 4878931787 |
* 三宅一郎訳『[[ハイアワサの歌]]』作品社、1993年、ISBN 4878931787 |
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* 川戸道昭・榊原貴教編『アメリカ詩集』大空社〈明治翻訳文学全集22〉1999年、ISBN 4756803164 |
* 川戸道昭・榊原貴教編『アメリカ詩集』大空社〈明治翻訳文学全集22〉1999年、ISBN 4756803164 <ref>{{citation|和書|url=https://www.ozorasha.co.jp/nada/page022.html|title=明治翻訳文学全集 《新聞雑誌編》|publisher=大空社}}</ref> |
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== 名句・語録 == |
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== ロングフェローの名言 == |
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[[ファイル:Longfellow Village Blacksmith (manuscript 1).jpg|thumb|200px|「村の鍛冶屋」原稿]] |
[[ファイル:Longfellow Village Blacksmith (manuscript 1).jpg|thumb|200px|「村の鍛冶屋」原稿]] |
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* 夜に通り過ぎる船 ("ships that pass in the night") |
* 夜に通り過ぎる船 ("ships that pass in the night") |
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122行目: | 129行目: | ||
* 間違ったことの言い訳をするよりも正しいことをするほうが時間がかからない。 ("It takes less time to do a thing right than explain why you did it wrong.") |
* 間違ったことの言い訳をするよりも正しいことをするほうが時間がかからない。 ("It takes less time to do a thing right than explain why you did it wrong.") |
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* 上着の綻びは直ぐ繕える。しかし、きつい言葉は子供の心を傷つける。 ("A torn jacket is soon mended; but hard words bruise the heart of a child.") |
* 上着の綻びは直ぐ繕える。しかし、きつい言葉は子供の心を傷つける。 ("A torn jacket is soon mended; but hard words bruise the heart of a child.") |
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* 悲しみは瞬時の暗闇を通って灯りから灯りへ架ける覆われた橋にすぎない。 (" |
* 悲しみは瞬時の暗闇を通って灯りから灯りへ架ける覆われた橋にすぎない。 ("The grave is but a covered bridge Leading from light to light, through a brief darkness!") |
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* 貴方の持ち物を誰かに上げなさい。思っているよりもいいことになるかもしれない。 ("Give what you have to somebody, it may be better than you think.") |
* 貴方の持ち物を誰かに上げなさい。思っているよりもいいことになるかもしれない。 ("Give what you have to somebody, it may be better than you think.") |
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* 愛がいつ始まるかを知るのは難しい。愛が始まった、と知るのはそんなに難しくない。 ("It is difficult to know at what moment love begins; it is less difficult to know that it has begun.") |
* 愛がいつ始まるかを知るのは難しい。愛が始まった、と知るのはそんなに難しくない。 ("It is difficult to know at what moment love begins; it is less difficult to know that it has begun.") |
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== 雑記 == |
== 雑記 == |
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* |
* アメリカにはロングフェローの名を冠した学校が[[マサチューセッツ州]]、[[メイン州]]、[[イリノイ州]]、[[アイオワ州]]、[[ミシガン州]]、[[ウィスコンシン州]]、[[カリフォルニア州]]、[[ミネソタ州]]、[[モンタナ州]]、[[ペンシルベニア州]]、[[ニューヨーク州]]、[[テキサス州]]、[[サウスダコタ州]]など各所にある。
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* [[ニール・ダイアモンド]]のポップソングに「ロングフェローのセレナーデ」がある。 |
* [[ニール・ダイアモンド]]のポップソングに「ロングフェローのセレナーデ」がある。 |
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* |
* 2007年3月に[[アメリカ合衆国郵便公社]]はロングフェローの切手を発行した。 |
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* 合衆国で最初に水道をひいたのはロングフェロー家という記録がある。 |
<!--* 合衆国で最初に水道をひいたのはロングフェロー家という記録がある。--><!-- 要出典 --> |
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* 男声アカペラ合唱団ボ |
* 男声アカペラ合唱団ボウディン・カレッジ・ロングフェローズは、ロングフェローの作品に基づいた曲を演奏している。 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{wikiquote|en:Henry Wadsworth Longfellow|ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー}} |
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{{Wikisource author| |
{{Wikisource author||ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー}} |
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* [http://www.poetryfoundation.org/archive/poet.html?id=81397 ロングフェローの伝記と作品 - PoetryFoundation.org] {{en icon}} |
* [http://www.poetryfoundation.org/archive/poet.html?id=81397 ロングフェローの伝記と作品 - PoetryFoundation.org] {{en icon}} |
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* {{gutenberg author| id=Longfellow+Henry+Wadsworth | name=Henry Wadsworth Longfellow}} |
* {{gutenberg author| id=Longfellow+Henry+Wadsworth | name=Henry Wadsworth Longfellow}} |
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* [http://www.reelyredd.com/0802blacksmith.htm 『村の鍛冶屋』の朗読音声] {{en icon}} |
* [http://www.reelyredd.com/0802blacksmith.htm 『村の鍛冶屋』の朗読音声] {{en icon}} |
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* [http://www.hwlongfellow.org/ Maine Historical Society] {{en icon}} 詩テクストの検索可能なデータベース、伝記情報、教師向け授業プラン |
* [http://www.hwlongfellow.org/ Maine Historical Society] {{en icon}} 詩テクストの検索可能なデータベース、伝記情報、教師向け授業プラン |
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* [ |
* [https://web.archive.org/web/20040812150027/http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/evangeline/index.html 幡谷正雄訳 イヷンヂェリン(Evangeline)] - [[物語倶楽部]]の[[インターネットアーカイブ]]。 |
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{{DEFAULTSORT:ろんくふえろ へんりわすわす}} |
{{DEFAULTSORT:ろんくふえろ へんりわすわす}} |
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[[Category:プール・ル・メリット勲章平和章受章者]] |
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[[Category:ロマン派詩人]] |
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[[Category:1882年没]] |
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{{Link FA|pl}} |
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[[an:Henry Wadsworth Longfellow]] |
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[[be:Генры Лангфела]] |
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[[bg:Хенри Уадсуорт Лонгфелоу]] |
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[[ca:Henry Wadsworth Longfellow]] |
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[[cs:Henry Wadsworth Longfellow]] |
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[[cy:Henry Wadsworth Longfellow]] |
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[[de:Henry Wadsworth Longfellow]] |
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[[en:Henry Wadsworth Longfellow]] |
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[[es:Henry Wadsworth Longfellow]] |
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[[fa:هنری وادزورث لانگفلو]] |
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[[fi:Henry Wadsworth Longfellow]] |
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[[fr:Henry Longfellow]] |
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[[ga:Henry Wadsworth Longfellow]] |
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[[he:הנרי וודסוורת' לונגפלו]] |
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[[hu:Henry Wadsworth Longfellow]] |
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[[hy:Հենրի Լոնգֆելո]] |
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2023年12月10日 (日) 00:59時点における最新版
ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー Henry Wadsworth Longfellow | |
---|---|
![]() 1868年 | |
誕生 |
1807年2月27日 アメリカ合衆国、メイン州ポートランド |
死没 |
1882年3月24日 (75歳没) アメリカ合衆国、マサチューセッツ州ケンブリッジ |
職業 | 詩人、大学教授 |
文学活動 | ロマン主義 |
配偶者 |
メアリー・ストーラー・ポッター(1831 - 1835没) フランシス・ファニー・アップルトン(1843 - 1861没) |
署名 |
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来歴[編集]
ロングフェローは1807年2月27日に、メイン州ポートランドで、スティーヴン・ロングフェローとジルパー・ワズワース・ロングフェロー夫妻の子として生まれ、現在もワズワース・ロングフェロー・ハウスとして知られる家で育った。父親は弁護士であり、母方の祖父ペレグ・ワズワース・シニアはアメリカ独立戦争を戦った将軍だった。ロングフェロー家は1676年にイギリスのヨークシャーから新大陸に渡ってきた一家である。また母方からは、メイフラワー号の乗船者のプリシラ・オールデン、ジョン・オールデン、ウィリアム・ブリュースター、ヘンリー・サムソン、ジョン・ハウランド、リチャード・ウォーレンの血を、また歴代大統領の幾人かを出したジョン・ラスロップ牧師の血も受けていた。[3] ロングフェローの兄弟は、スティーヴン︵1805年生︶、エリザベス︵1808年生︶、アン︵1810年生︶、アレクサンダー︵1814年生︶、メアリー︵1816年生︶、エレン︵1818年生︶、サミュエル︵1819年生︶の7人だった。 ロングフェローは読み書きに大変優れており、3歳で私塾に入学し、6歳の時にはポートランド・アカデミーに入った。1822年、14歳でブランズウィックのボウディン大学に入学した。ここでは生涯の友人となるナサニエル・ホーソーンと出会った。最初の欧州旅行とボウディン大学での教授職[編集]
1825年にボウディン大学を卒業すると、言語学の研究のために何度かヨーロッパに派遣するという条件付でボウディン大学の教授職の申し出を受けた[4]。1826年から1829年の間、ヨーロッパ︵イギリス、フランス、ドイツ、オランダ、イタリア、スペイン︶を旅し、帰国するとボウディン大学では初めての現代言語学教授となり、また非常勤司書にもなった。この教授時代にロングフェローはフランス語、イタリア語、スペイン語で教本を書き、また旅行記﹁海を越えて‥海を渡ったピルグリム﹂(Outre-Mer: A Pilgrimage Beyond the Sea)を著した[5]。1831年、ポートランドのメアリー・ストーラー・ポッターと結婚した。2回目の欧州旅行とハーバードでの教授職[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/18/Henry_Wadsworth_Longfellow_-_Project_Gutenberg_eText_16786.jpg/220px-Henry_Wadsworth_Longfellow_-_Project_Gutenberg_eText_16786.jpg)
フランシス・"ファニー"・アップルトンとの結婚[編集]
ロングフェローは、ボストンの裕福な実業家ネイサン・アップルトンの娘、フランシス・"ファニー"・アップルトンとの交際を始めた。この交際期間、ロングフェローは度々ハーバードからボストン・ブリッジを越えてボストンのアップルトン家まで歩いて通った。この橋は老朽化したために1906年に架け替えられ、ロングフェロー・ブリッジと名づけられた。 7年後にファニーが結婚に同意し、1843年に二人は結婚した。ネイサン・アップルトンは二人への結婚祝にチャールズ川を見下ろす﹁クレーギー・ハウス﹂を購入した。この家は、独立戦争中にジョージ・ワシントン将軍とその参謀が占領したものだった[6]。 ロングフェローのファニーに注いだ愛は、1845年10月に書いた彼の唯一の愛の詩、ソネット﹁夜の星﹂(The Evening Star)の中の次の行に見て取ることができる。 おお、私の愛するいとしい金星!私の朝のそして夜の愛の星!(O my beloved, my sweet Hesperus! My morning and my evening star of love!) ロングフェローとファニーの間には6人の子供が生まれた。ファニーの死[編集]
ロングフェローは家庭生活を愛する良き夫であり、良き父親であった。しかし、突然の悲劇に襲われた。 1861年7月9日、ファニーが子供の髪の房を封筒に入れて封蝋で封緘しようとしていた時に衣服に引火、重篤な火傷を負ったことで翌10日に死去した。44歳だった。ロングフェローはファニーの死にひどく落胆し、終生立ち直ることがなかった。ロングフェローの悲しみの強さは、ファニーの死後18年も経って彼女の思い出に書いたソネット﹁雪の十字架﹂(The Cross of Snow)の次の節からも見て取れる。 これが私が胸につける十字架 (Such is the cross I wear upon my breast) この45年間、景色がいくら変わり (These forty five years, through all the changing scenes) 季節がいくら変わろうと、彼女の死の日より変わらずに (And seasons, changeless since the day she died.)死[編集]
ロングフェローは1882年3月24日、5日間腹膜炎を患った後に死去。遺体は二人の妻が眠るケンブリッジのマウント・オーバーン墓地に埋葬された。1884年、ロンドンのウェストミンスター寺院の詩人のコーナーに、アメリカの詩人としては初めてその胸像が置かれた。家族[編集]
●チャールズ・アップルトン (1844-1893) ●アーネスト・ワズワース (1845-1921) ●ファニー (1847-1848) ●アリス・メアリー (1850-1928) ●イーディス (1853-1915) ●アン・アレグラ (1855-1934) 1847年4月7日に妻のファニーが長女ファニーを出産した際、医師のネイサン・クーリー・キープが妊婦に産科麻酔を使用しているが、これがアメリカにおける産科麻酔使用の初例として知られる。 長男のチャールズ・ロングフェローは1871年︵明治3年︶6月から1873年︵明治5年︶3月までの間日本に滞在し、東京・蝦夷・長崎など日本各所を訪問。明治天皇に拝謁したり、岩崎弥太郎や山内容堂と親交を結んだりもしている。家族への手紙の中で当時の日本社会の様子やそこでの暮らしを詳しく伝えている。滞在中に撮影した写真や日記を元にした﹃ロングフェロー日本滞在記﹄が平凡社から出版されているほか、手に入れた土産品などがマサチューセッツ州ケンブリッジのロングフェロー邸で展示されている。作品[編集]
ロングフェローは存命中からアメリカで賞賛された人物であり、1877年の彼の70歳の誕生日はパレードや講演会、彼の詩の朗読会が行われ、あたかも国民の休日のようであった。最も愛された詩人の一人とも言われており、アメリカの最初期の﹁著名人﹂の一人である。 ロングフェローの作品は彼の時代には広い人気を集め、現代の批評家の中には感傷的に過ぎるという者もいるが、現代でもなお人気がある。その詩は親しみやすく、分かりやすい題材を扱い、平明で、流麗な言葉を用いている。ロングフェローの詩作品がアメリカの聴衆を作り、アメリカの神話を生むことになったのである。 ロングフェローの詩﹁クリスマスの鐘﹂(Christmas Bells)は、クリスマス・キャロル﹁クリスマスの日に鐘の音を聞いたよ﹂ (I Heard the Bells on Christmas Day) の元になっている。 ケンブリッジにあるロングフェローの家、ロングフェロー国定歴史サイトは、アメリカ国定歴史サイト、アメリカ国定歴史建造物、アメリカ登録歴史プレースに指定されている。1906年、その3分の2縮尺の家がミネソタ州ミネアポリスのミネハナ公園に造られ、動物園の目玉的存在になった。また、ポートランドのダウンタウンにあるロングフェローの生家は、メイン州歴史協会によって保存・運営され、夏季のみ博物館として公開されている。作品一覧[編集]
●ドン・ホルヘ・マンリケのコプラ (Coplas de Don Jorge Manrique. スペイン語からの翻訳, 1833) ●海を越えて‥海を渡ったピルグリム (Outre-Mer: A Pilgrimage Beyond the Sea. 旅行記, 1835) ●夜の声 (Voices of the Night. 1839) - 処女詩集、﹁人生の讃歌﹂を含む。 ●ハイペリオン (Hyperion, a Romance. 1839) ●バラードと他の詩 (Ballads and Other Poems. 1842) - ﹁村の鍛冶屋﹂ (The Village Blacksmith) 、﹁もっと高く﹂ (Excelsior) を含む詩集。 ●奴隷の詩 (Poems on Slavery. 1842) ●スペインの学生 (The Spanish Student. 3幕劇, 1843) ●ヨーロッパの詩と詩歌 (Poets and Poetry of Europe. 翻訳, 1844) ●ブリュージュの鐘楼と他の詩 (The Belfry of Bruges and Other Poems. 1845) ●エヴァンジェリン: アカディの話 (Evangeline: A Tale of Acadie. 叙事詩, 1847) ●カヴァナー: 物語 (Kavanagh: A Tale. 1849) ●海辺と炉辺 (The Seaside and the Fireside. 1850) ●黄金の伝説 (The Golden Legend. 詩劇, 1851) ●ハイアワサの歌 (The Song of Hiawatha. 叙事詩, 1855) ●マイルズ・スタンディッシュの求婚と他の詩 (The Courtship of Miles Standish and Other Poems. 1858) ●路傍の宿屋の話 (Tales of a Wayside Inn. 詩歌, 1863) ●家の詩 (Household Poems. 1865) ●ルスの花 (Flower-de-Luce. 詩歌, 1867) ●ダンテの神曲 (Dante's Divine Comedy. 翻訳, 1867) ●ニューイングランドの悲劇 (The New England Tragedies. 1868) ●神の悲劇 (The Divine Tragedy. 1871) ●クリスタス (Christus: A Mystery. 1872) - 上記の﹁神の悲劇﹂﹁黄金の伝説﹂﹁ニューイングランドの悲劇﹂を合わせて三部作としたもの。 ●3冊の歌の本 (Three Books of Song. 1872) ●その後 (Aftermath. 詩, 1873) ●パンドラの仮面と他の詩 (The Masque of Pandora and Other Poems. 1875) ●ケラモスと他の詩 (Kéramos and Other Poems. 1878) ●はるかなる目標 (Ultima Thule. 1880) ●港にて (In the Harbor. 詩, 1882)日本語訳[編集]
日本人による翻訳は1870年に中村正直によって﹁村の鍛冶屋﹂が七言の漢詩﹁打鉄匠歌﹂として翻訳されたのにはじまり、﹃新体詩抄﹄︵1882年︶に3編が日本語に翻訳されてから愛読されるようになった。長編では山路愛山が1891年に﹁マイルス・スタンヂッシュの恋﹂を翻訳したのが最初である[7]︵下記の大空社﹃アメリカ詩集﹄に収録︶。名句・語録[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/73/Longfellow_Village_Blacksmith_%28manuscript_1%29.jpg/200px-Longfellow_Village_Blacksmith_%28manuscript_1%29.jpg)
雑記[編集]
●アメリカにはロングフェローの名を冠した学校がマサチューセッツ州、メイン州、イリノイ州、アイオワ州、ミシガン州、ウィスコンシン州、カリフォルニア州、ミネソタ州、モンタナ州、ペンシルベニア州、ニューヨーク州、テキサス州、サウスダコタ州など各所にある。 ●ニール・ダイアモンドのポップソングに﹁ロングフェローのセレナーデ﹂がある。 ●2007年3月にアメリカ合衆国郵便公社はロングフェローの切手を発行した。 ●男声アカペラ合唱団ボウディン・カレッジ・ロングフェローズは、ロングフェローの作品に基づいた曲を演奏している。参考文献[編集]
●Gartner, Matthew. "America's Longfellow", 2002. National Park Service - Longfellow House. http://home.nps.gov/long/historyculture/upload/Gartner%20Essay.pdf ●McClatchy, J. D. ed. Poems and Other Writings, New York: The Library of America, 2000. ISBN 978-1-88301185-7. ●Monterio, George. Introduction to Longfellow, Henry Wadsworth, The Poetical Works of Longfellow. Boston: Houghton Mifflin, 1975. ISBN 0395184878脚注[編集]
外部リンク[編集]
- ロングフェローの伝記と作品 - PoetryFoundation.org (英語)
- Henry Wadsworth Longfellowの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- 『村の鍛冶屋』の朗読音声 (英語)
- Maine Historical Society (英語) 詩テクストの検索可能なデータベース、伝記情報、教師向け授業プラン
- 幡谷正雄訳 イヷンヂェリン(Evangeline) - 物語倶楽部のインターネットアーカイブ。