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'''ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー'''︵{{lang-en-short|Henry Wadsworth Longfellow}}、[[1807年]][[2月27日]] - [[1882年]][[3月24日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Henry-Wadsworth-Longfellow Henry Wadsworth Longfellow American poet] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>︶は、[[アメリカ合衆国]]の[[詩人]]である。代表作に﹁ポール・リビアの騎行﹂{{enlink|Paul Revere's Ride}}、﹁人生讃歌﹂{{enlink|A Psalm of Life}}、﹁[[ハイアワサの歌]]﹂{{enlink|The Song of Hiawatha}}、﹁エヴァンジェリン﹂{{enlink|Evangeline}}などがあり、[[ダンテ・アリギエーリ]]の﹁[[神曲]]﹂をアメリカで初めて翻訳した人物でもある<ref>{{Cite web|url=http://fukushima-net.com/sites/meigen/672|title=︻成長しようとする心が若さを保つ秘訣。︼ ロングフェロー|publisher=福島みんなのNEWS|accessdate=2020-10-08}}</ref>。﹁炉辺の詩人﹂5人組の1人として知られる。[[メイン州]][[ポートランド (メイン州)|ポートランド]]で生まれ育つ。[[ブランズウィック (メイン州)|ブランズウィック]]の[[ボウディン大学]]で学び、幾度かの海外滞在を経た後、後半生の45年間は[[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]で過ごした。
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'''ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー'''︵{{lang-en-short|Henry Wadsworth Longfellow}}、[[1807年]][[2月27日]] - [[1882年]][[3月24日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Henry-Wadsworth-Longfellow Henry Wadsworth Longfellow American poet] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>︶は、[[アメリカ合衆国]]の[[詩人]]である。代表作に﹁ポール・リビアの騎行﹂{{enlink|Paul Revere's Ride}}、﹁人生讃歌﹂{{enlink|A Psalm of Life}}、﹁[[ハイアワサの歌]]﹂{{enlink|The Song of Hiawatha}}、﹁エヴァンジェリン﹂{{enlink|Evangeline}}などがあり、[[ダンテ・アリギエーリ]]の﹁[[神曲]]﹂をアメリカで初めて翻訳した人物でもある<ref>{{Cite web|和書|url=http://fukushima-net.com/sites/meigen/672|title=︻成長しようとする心が若さを保つ秘訣。︼ ロングフェロー|publisher=福島みんなのNEWS|accessdate=2020-10-08}}</ref>。﹁炉辺の詩人﹂5人組の1人として知られる。[[メイン州]][[ポートランド (メイン州)|ポートランド]]で生まれ育つ。[[ブランズウィック (メイン州)|ブランズウィック]]の[[ボウディン大学]]で学び、幾度かの海外滞在を経た後、後半生の45年間は[[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]で過ごした。
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== 来歴 == |
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ロングフェローは1807年2月27日に、[[メイン州]]ポートランドで、スティーヴン・ロングフェローとジルパー・ワズワース・ロングフェロー夫妻の子として生まれ、現在もワズワース・ロングフェロー・ハウスとして知られる家で育った。父親は弁護士であり、母方の祖父ペレグ・ワズワース・シニアは[[アメリカ独立戦争]]を戦った将軍だった。ロングフェロー家は1676年に[[イギリス]]の[[ヨークシャー]]から新大陸に渡ってきた一家である。また母方からは、[[メイフラワー号]]の乗船者 |
ロングフェローは1807年2月27日に、[[メイン州]]ポートランドで、スティーヴン・ロングフェローとジルパー・ワズワース・ロングフェロー夫妻の子として生まれ、現在もワズワース・ロングフェロー・ハウスとして知られる家で育った。父親は弁護士であり、母方の祖父ペレグ・ワズワース・シニアは[[アメリカ独立戦争]]を戦った将軍だった。ロングフェロー家は1676年に[[イギリス]]の[[ヨークシャー]]から新大陸に渡ってきた一家である。また母方からは、[[メイフラワー号]]の乗船者のプリシラ・オールデン、ジョン・オールデン、ウィリアム・ブリュースター、ヘンリー・サムソン、ジョン・ハウランド、リチャード・ウォーレンの血を、また歴代大統領の幾人かを出したジョン・ラスロップ牧師の血も受けていた。<ref> [http://www.hwlongfellow.org/family_genealogy.shtml Henry Wadsworth Longfellow - A Maine Historical Society Web Site - Wadsworth-Longfellow Genealogy]</ref>
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ロングフェローの兄弟は、スティーヴン︵1805年生︶、エリザベス︵1808年生︶、アン︵1810年生︶、アレクサンダー︵1814年生︶、メアリー︵1816年生︶、エレン︵1818年生︶、サミュエル︵1819年生︶の7人だった。
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ロングフェローの兄弟は、スティーヴン︵1805年生︶、エリザベス︵1808年生︶、アン︵1810年生︶、アレクサンダー︵1814年生︶、メアリー︵1816年生︶、エレン︵1818年生︶、サミュエル︵1819年生︶の7人だった。
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* [http://www.hwlongfellow.org/ Maine Historical Society] {{en icon}} 詩テクストの検索可能なデータベース、伝記情報、教師向け授業プラン |
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* [https://web.archive.org/web/20040812150027/http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/evangeline/index.html 幡谷正雄訳 イヷンヂェリン(Evangeline)] - [[物語倶楽部]]の[[インターネットアーカイブ]]。 |
* [https://web.archive.org/web/20040812150027/http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/evangeline/index.html 幡谷正雄訳 イヷンヂェリン(Evangeline)] - [[物語倶楽部]]の[[インターネットアーカイブ]]。 |
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2023年12月10日 (日) 00:59時点における最新版
ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー Henry Wadsworth Longfellow | |
---|---|
1868年 | |
誕生 |
1807年2月27日 アメリカ合衆国、メイン州ポートランド |
死没 |
1882年3月24日 (75歳没) アメリカ合衆国、マサチューセッツ州ケンブリッジ |
職業 | 詩人、大学教授 |
文学活動 | ロマン主義 |
配偶者 |
メアリー・ストーラー・ポッター(1831 - 1835没) フランシス・ファニー・アップルトン(1843 - 1861没) |
署名 | |
ウィキポータル 文学 |
来歴[編集]
ロングフェローは1807年2月27日に、メイン州ポートランドで、スティーヴン・ロングフェローとジルパー・ワズワース・ロングフェロー夫妻の子として生まれ、現在もワズワース・ロングフェロー・ハウスとして知られる家で育った。父親は弁護士であり、母方の祖父ペレグ・ワズワース・シニアはアメリカ独立戦争を戦った将軍だった。ロングフェロー家は1676年にイギリスのヨークシャーから新大陸に渡ってきた一家である。また母方からは、メイフラワー号の乗船者のプリシラ・オールデン、ジョン・オールデン、ウィリアム・ブリュースター、ヘンリー・サムソン、ジョン・ハウランド、リチャード・ウォーレンの血を、また歴代大統領の幾人かを出したジョン・ラスロップ牧師の血も受けていた。[3] ロングフェローの兄弟は、スティーヴン︵1805年生︶、エリザベス︵1808年生︶、アン︵1810年生︶、アレクサンダー︵1814年生︶、メアリー︵1816年生︶、エレン︵1818年生︶、サミュエル︵1819年生︶の7人だった。 ロングフェローは読み書きに大変優れており、3歳で私塾に入学し、6歳の時にはポートランド・アカデミーに入った。1822年、14歳でブランズウィックのボウディン大学に入学した。ここでは生涯の友人となるナサニエル・ホーソーンと出会った。最初の欧州旅行とボウディン大学での教授職[編集]
1825年にボウディン大学を卒業すると、言語学の研究のために何度かヨーロッパに派遣するという条件付でボウディン大学の教授職の申し出を受けた[4]。1826年から1829年の間、ヨーロッパ︵イギリス、フランス、ドイツ、オランダ、イタリア、スペイン︶を旅し、帰国するとボウディン大学では初めての現代言語学教授となり、また非常勤司書にもなった。この教授時代にロングフェローはフランス語、イタリア語、スペイン語で教本を書き、また旅行記﹁海を越えて‥海を渡ったピルグリム﹂(Outre-Mer: A Pilgrimage Beyond the Sea)を著した[5]。1831年、ポートランドのメアリー・ストーラー・ポッターと結婚した。2回目の欧州旅行とハーバードでの教授職[編集]
フランシス・"ファニー"・アップルトンとの結婚[編集]
ロングフェローは、ボストンの裕福な実業家ネイサン・アップルトンの娘、フランシス・"ファニー"・アップルトンとの交際を始めた。この交際期間、ロングフェローは度々ハーバードからボストン・ブリッジを越えてボストンのアップルトン家まで歩いて通った。この橋は老朽化したために1906年に架け替えられ、ロングフェロー・ブリッジと名づけられた。 7年後にファニーが結婚に同意し、1843年に二人は結婚した。ネイサン・アップルトンは二人への結婚祝にチャールズ川を見下ろす﹁クレーギー・ハウス﹂を購入した。この家は、独立戦争中にジョージ・ワシントン将軍とその参謀が占領したものだった[6]。 ロングフェローのファニーに注いだ愛は、1845年10月に書いた彼の唯一の愛の詩、ソネット﹁夜の星﹂(The Evening Star)の中の次の行に見て取ることができる。 おお、私の愛するいとしい金星!私の朝のそして夜の愛の星!(O my beloved, my sweet Hesperus! My morning and my evening star of love!) ロングフェローとファニーの間には6人の子供が生まれた。ファニーの死[編集]
ロングフェローは家庭生活を愛する良き夫であり、良き父親であった。しかし、突然の悲劇に襲われた。 1861年7月9日、ファニーが子供の髪の房を封筒に入れて封蝋で封緘しようとしていた時に衣服に引火、重篤な火傷を負ったことで翌10日に死去した。44歳だった。ロングフェローはファニーの死にひどく落胆し、終生立ち直ることがなかった。ロングフェローの悲しみの強さは、ファニーの死後18年も経って彼女の思い出に書いたソネット﹁雪の十字架﹂(The Cross of Snow)の次の節からも見て取れる。 これが私が胸につける十字架 (Such is the cross I wear upon my breast) この45年間、景色がいくら変わり (These forty five years, through all the changing scenes) 季節がいくら変わろうと、彼女の死の日より変わらずに (And seasons, changeless since the day she died.)死[編集]
ロングフェローは1882年3月24日、5日間腹膜炎を患った後に死去。遺体は二人の妻が眠るケンブリッジのマウント・オーバーン墓地に埋葬された。1884年、ロンドンのウェストミンスター寺院の詩人のコーナーに、アメリカの詩人としては初めてその胸像が置かれた。家族[編集]
●チャールズ・アップルトン (1844-1893) ●アーネスト・ワズワース (1845-1921) ●ファニー (1847-1848) ●アリス・メアリー (1850-1928) ●イーディス (1853-1915) ●アン・アレグラ (1855-1934) 1847年4月7日に妻のファニーが長女ファニーを出産した際、医師のネイサン・クーリー・キープが妊婦に産科麻酔を使用しているが、これがアメリカにおける産科麻酔使用の初例として知られる。 長男のチャールズ・ロングフェローは1871年︵明治3年︶6月から1873年︵明治5年︶3月までの間日本に滞在し、東京・蝦夷・長崎など日本各所を訪問。明治天皇に拝謁したり、岩崎弥太郎や山内容堂と親交を結んだりもしている。家族への手紙の中で当時の日本社会の様子やそこでの暮らしを詳しく伝えている。滞在中に撮影した写真や日記を元にした﹃ロングフェロー日本滞在記﹄が平凡社から出版されているほか、手に入れた土産品などがマサチューセッツ州ケンブリッジのロングフェロー邸で展示されている。作品[編集]
ロングフェローは存命中からアメリカで賞賛された人物であり、1877年の彼の70歳の誕生日はパレードや講演会、彼の詩の朗読会が行われ、あたかも国民の休日のようであった。最も愛された詩人の一人とも言われており、アメリカの最初期の﹁著名人﹂の一人である。 ロングフェローの作品は彼の時代には広い人気を集め、現代の批評家の中には感傷的に過ぎるという者もいるが、現代でもなお人気がある。その詩は親しみやすく、分かりやすい題材を扱い、平明で、流麗な言葉を用いている。ロングフェローの詩作品がアメリカの聴衆を作り、アメリカの神話を生むことになったのである。 ロングフェローの詩﹁クリスマスの鐘﹂(Christmas Bells)は、クリスマス・キャロル﹁クリスマスの日に鐘の音を聞いたよ﹂ (I Heard the Bells on Christmas Day) の元になっている。 ケンブリッジにあるロングフェローの家、ロングフェロー国定歴史サイトは、アメリカ国定歴史サイト、アメリカ国定歴史建造物、アメリカ登録歴史プレースに指定されている。1906年、その3分の2縮尺の家がミネソタ州ミネアポリスのミネハナ公園に造られ、動物園の目玉的存在になった。また、ポートランドのダウンタウンにあるロングフェローの生家は、メイン州歴史協会によって保存・運営され、夏季のみ博物館として公開されている。作品一覧[編集]
●ドン・ホルヘ・マンリケのコプラ (Coplas de Don Jorge Manrique. スペイン語からの翻訳, 1833) ●海を越えて‥海を渡ったピルグリム (Outre-Mer: A Pilgrimage Beyond the Sea. 旅行記, 1835) ●夜の声 (Voices of the Night. 1839) - 処女詩集、﹁人生の讃歌﹂を含む。 ●ハイペリオン (Hyperion, a Romance. 1839) ●バラードと他の詩 (Ballads and Other Poems. 1842) - ﹁村の鍛冶屋﹂ (The Village Blacksmith) 、﹁もっと高く﹂ (Excelsior) を含む詩集。 ●奴隷の詩 (Poems on Slavery. 1842) ●スペインの学生 (The Spanish Student. 3幕劇, 1843) ●ヨーロッパの詩と詩歌 (Poets and Poetry of Europe. 翻訳, 1844) ●ブリュージュの鐘楼と他の詩 (The Belfry of Bruges and Other Poems. 1845) ●エヴァンジェリン: アカディの話 (Evangeline: A Tale of Acadie. 叙事詩, 1847) ●カヴァナー: 物語 (Kavanagh: A Tale. 1849) ●海辺と炉辺 (The Seaside and the Fireside. 1850) ●黄金の伝説 (The Golden Legend. 詩劇, 1851) ●ハイアワサの歌 (The Song of Hiawatha. 叙事詩, 1855) ●マイルズ・スタンディッシュの求婚と他の詩 (The Courtship of Miles Standish and Other Poems. 1858) ●路傍の宿屋の話 (Tales of a Wayside Inn. 詩歌, 1863) ●家の詩 (Household Poems. 1865) ●ルスの花 (Flower-de-Luce. 詩歌, 1867) ●ダンテの神曲 (Dante's Divine Comedy. 翻訳, 1867) ●ニューイングランドの悲劇 (The New England Tragedies. 1868) ●神の悲劇 (The Divine Tragedy. 1871) ●クリスタス (Christus: A Mystery. 1872) - 上記の﹁神の悲劇﹂﹁黄金の伝説﹂﹁ニューイングランドの悲劇﹂を合わせて三部作としたもの。 ●3冊の歌の本 (Three Books of Song. 1872) ●その後 (Aftermath. 詩, 1873) ●パンドラの仮面と他の詩 (The Masque of Pandora and Other Poems. 1875) ●ケラモスと他の詩 (Kéramos and Other Poems. 1878) ●はるかなる目標 (Ultima Thule. 1880) ●港にて (In the Harbor. 詩, 1882)日本語訳[編集]
日本人による翻訳は1870年に中村正直によって﹁村の鍛冶屋﹂が七言の漢詩﹁打鉄匠歌﹂として翻訳されたのにはじまり、﹃新体詩抄﹄︵1882年︶に3編が日本語に翻訳されてから愛読されるようになった。長編では山路愛山が1891年に﹁マイルス・スタンヂッシュの恋﹂を翻訳したのが最初である[7]︵下記の大空社﹃アメリカ詩集﹄に収録︶。名句・語録[編集]
雑記[編集]
●アメリカにはロングフェローの名を冠した学校がマサチューセッツ州、メイン州、イリノイ州、アイオワ州、ミシガン州、ウィスコンシン州、カリフォルニア州、ミネソタ州、モンタナ州、ペンシルベニア州、ニューヨーク州、テキサス州、サウスダコタ州など各所にある。 ●ニール・ダイアモンドのポップソングに﹁ロングフェローのセレナーデ﹂がある。 ●2007年3月にアメリカ合衆国郵便公社はロングフェローの切手を発行した。 ●男声アカペラ合唱団ボウディン・カレッジ・ロングフェローズは、ロングフェローの作品に基づいた曲を演奏している。参考文献[編集]
●Gartner, Matthew. "America's Longfellow", 2002. National Park Service - Longfellow House. http://home.nps.gov/long/historyculture/upload/Gartner%20Essay.pdf ●McClatchy, J. D. ed. Poems and Other Writings, New York: The Library of America, 2000. ISBN 978-1-88301185-7. ●Monterio, George. Introduction to Longfellow, Henry Wadsworth, The Poetical Works of Longfellow. Boston: Houghton Mifflin, 1975. ISBN 0395184878脚注[編集]
外部リンク[編集]
- ロングフェローの伝記と作品 - PoetryFoundation.org (英語)
- Henry Wadsworth Longfellowの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- 『村の鍛冶屋』の朗読音声 (英語)
- Maine Historical Society (英語) 詩テクストの検索可能なデータベース、伝記情報、教師向け授業プラン
- 幡谷正雄訳 イヷンヂェリン(Evangeline) - 物語倶楽部のインターネットアーカイブ。