「七尾城 (石見国)」の版間の差分
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[[ファイル:Ikou temple soumon.JPG|thumb|大手門跡(現在は医光寺総門)]]
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'''七尾城'''(ななおじょう)は[[島根県]][[益田市]]七尾町にあった[[日本の城]]。城跡は、同市三宅町にある[[三宅御土居跡]]とともに国の[[史跡]]「'''益田氏城館跡'''」に指定されている。
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== 脚注 ==
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2020年5月2日 (土) 15:31時点における版
七尾城 (島根県) | |
---|---|
七尾城太鼓檀 | |
別名 | 益田七尾城、益田城 |
城郭構造 | 連郭式山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 益田兼高 |
築城年 | 鎌倉時代 |
主な改修者 | 益田藤兼 |
主な城主 | 益田氏 |
廃城年 | 慶長5年(1600年) |
遺構 | 曲輪跡、堀切 |
指定文化財 | 国の史跡 |
位置 | 北緯34度40分19.1秒 東経131度51分49.6秒 / 北緯34.671972度 東経131.863778度 |
地図 |
七尾城︵ななおじょう︶は島根県益田市七尾町にあった日本の城。城跡は、同市三宅町にある三宅御土居跡とともに国の史跡﹁益田氏城館跡﹂に指定されている。
概要
七尾城は、石見国の国司として鎌倉時代︵建久年間︶に益田荘を本拠とした益田氏の城。歴代の益田氏が居館とした三宅御土居など[1]の詰めの城として、標高約120mの七尾山に築かれた。山頂の本丸跡︵標高約118m︶からは益田平野から日本海までを一望できる。なお、三宅御土居跡とは、益田川を挟み870mの距離がある。 発掘調査により、大小40あまりの曲輪・空堀・土塁・井戸跡などが発掘された[2]。さらに、戦国時代後期のものとされる礎石建物や遺物が多く出土しており、毛利元就と対立した頃には益田藤兼と家臣たちが居城とするなど、戦時のみに使われる城郭という従来の山城のイメージを塗り替えるものである[3][4]。歴史
築城時期は諸説あるが、通説では建久4年︵1193年︶に益田兼高が築城したとされる[5]。史料に登場するのは南北朝時代で、延元元年︵1336年︶に南朝方の三隅氏が﹁北尾崎木戸﹂︵当時の大手口[6]︶を急襲したことが益田家文書に残る[5][7]。 戦国時代後期、益田氏は陶氏と縁戚関係にあり、大寧寺の変でも陶隆房︵後の陶晴賢︶に協力していたが、その陶晴賢が天文24年︵1555年︶の厳島の戦いで毛利元就に敗れると、当時の益田氏当主・益田藤兼は毛利勢の攻撃に備えて城を大改修した[5]。この時、藤兼とその家臣たちは、三宅御土居を出て七尾城内に移住したとされる。その後、藤兼は元就の軍門に降って毛利氏の家臣となり、藤兼の子・益田元祥は三宅御土居に居館を戻した[8]。 慶長5年︵1600年︶、関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は周防国・長門国の2ヶ国へ減封されると、益田元祥も毛利氏に従って長門須佐へと移り、七尾城は廃城となった。 廃城時に、城の大手門は医光寺に移築されて総門としてなって現存しており、﹁医光寺総門﹂として昭和36年︵1961年︶に島根県の指定文化財とされた[6]。 さらに、昭和40年代には三宅御土居跡と共に島根県の史跡として指定される[4]。そして、平成16年︵2004年︶、再び三宅御土居とセットで国の史跡﹁益田氏城館跡﹂となった。脚注
- ^ その他、上久々茂土居(益田市久々茂町)や大谷土居(益田市大谷町)が益田氏代々の居館跡と推定され、時代と共に移転(益田川の上流から下流へ)してきたと考えられている。
- ^ 益田氏城館跡 - コトバンク
- ^ 住吉神社参道の案内板「益田氏と七尾城」 - 心に刻む益田十景〜七尾山、住吉神社と自然散策道〜(益田オンリーワンクラブ・益田市・益田観光協会)
- ^ a b 益田氏城館跡国史跡指定 - 益田歴史を活かしたまちづくりの会
- ^ a b c 歴史・文化 - 益田市
- ^ a b 医光寺の現地説明板「島根県指定文化財 医光寺総門」(益田市教育委員会)
- ^ 住吉神社参道の案内板「国指定史跡 益田城館跡 七尾城跡」(益田市教育委員会)
- ^ 益田氏城館跡「三宅御土居」 - 益田市