六条有房
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六条有房 | |
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時代 | 鎌倉時代後期 |
生誕 | 建長3年(1251年) |
死没 | 元応元年7月2日(1319年7月19日) |
改名 | 有真、戒浄(法名) |
別名 | 千種、禅林寺、六条内府 |
官位 | 内大臣従一位 |
主君 |
後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇 →後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇 |
氏族 | 村上源氏久我流庶流、六条家 |
父母 | 父:六条通有、母:藤原清定の女 |
妻 | 後醍醐天皇皇女[1]? |
子 | 有忠、中院光忠、季光、照源、女子 |
六条 有房 ︵ろくじょう ありふさ︶は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。太政大臣久我通光の孫にして、左中将六条通有の子。庶流出身で、父と同様に昇進は難渋したが、後宇多上皇の厚遇を得て内大臣に昇り、六条家を興した。
経歴
前半生の官歴は定かでないが、恐らく近衛次将などを経ながら、大覚寺統の亀山・後宇多院に近侍していたのであろう。永仁6年︵1298年︶7月従三位に叙されて公卿に列し、正安元年︵1299年︶12月正三位に進んだ。同3年︵1301年︶後二条天皇が践祚して後宇多上皇が院政を開始すると、左大弁・造東大寺長官を兼ね、参議に任じられる。乾元元年︵1302年︶12月侍従、翌2年︵1303年︶1月従二位・権中納言に叙任されるも、間もなく辞任。嘉元2年︵1304年︶5月祖父久我通光の影供を行う[2]。同3年︵1305年︶3月権中納言に還任し、11月院使として鎌倉に下り、朝幕間の交渉に当たった。徳治元年︵1306年︶12月正二位、同3年︵1308年︶1月権大納言に叙任されたが、8月天皇が重篤になると辞した。 その後皇統が持明院統に移ったために再び不遇となる。文保2年︵1318年︶後宇多院政が再開する直前の1月11日には従一位に叙されたが、翌元応元年︵1319年︶病に倒れ、6月28日﹁所労危急﹂のため上首2人︵中院通重、花山院師信︶を超越して内大臣に任じられた。これは後宇多法皇の詔によって前任一条内経を更迭し、兼宣旨や任大臣節会を行わず、陣儀で口宣を下すという異例の措置であった[3]。2日後の7月1日法皇自ら見舞いに訪れた際、病床に臥したまま拝謁し、辞職を願い出て出家した。法名は有真または戒浄[4]という。薨去したのは明くる2日であった。享年69。 二条為世から二条派の歌学を学んだ歌人で、﹃新後撰和歌集﹄以下の勅撰集に24首、連歌集﹃莬玖波集﹄には11句入集する。京極派の歌論を批判した﹃野守鏡﹄﹃歌苑連署事書﹄の作者といわれる。能書家としても知られた。系譜
- 父:六条通有(?-?)
- 母:藤原清定の女
脚注
参考文献
- 本郷和人 「廷臣小伝」(『中世朝廷訴訟の研究』 東京大学出版会、1995年、ISBN 9784130201070)
- 小川剛生 「六条有房について」(東京大学国語国文学会編 『國語と國文學』第73巻第8号 至文堂、1996年8月、NCID AN00088621)
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