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「合肥の戦い」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2012年10月}}

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''''''[[]][[]][[]][[|]][[ ()|]][[ ()|]][[ ()|]]

''''''/[[]][[]][[]][[|]][[ ()|]][[ ()|]][[ ()|]]


[[孫権]]が[[劉備]]に[[荊州]]の一部を返還する代わりに曹操を攻めるという依頼から始まった。[[215年]]に起こった戦いが有名で、10万人の孫権軍が7千人の曹操軍に大敗を喫したことで知られている。

[[劉備]]が[[孫権]]に[[荊州]]の一部を返還する代わりに曹操を攻めるという依頼から始まった。[[215年]]に起こった戦い(第二次)が有名で、10万人の孫権軍が7千人の曹操軍に大敗を喫したことで知られている。



== 合肥城の位置と戦略上の意義 ==

== 合肥城の位置と戦略上の意義 ==

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== 劉馥による合肥城整備 ==

== 劉馥による合肥城整備 ==


[[200]][[]][[|]][[]][[ ()|]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]

[[200]][[]][[|]][[]][[ ()|]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]<ref>{{Cite wikisource|title=/15#|author=·|wslanguage=zh}} - </ref>





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== 第一次戦役(208年)==

== 第一次戦役(208年)==


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曹操は張喜と[[蔣済]]に1000人の軍を指揮させ即座に救援として派遣し、[[汝南郡|汝南]]を通過する際に汝南の兵を指揮させる事とした。張喜と蔣済の軍はそもそも寡兵であった上[[疫病]]により頭数が減っていたが、蔣済は一計を案じ、歩騎4万の軍を率いて向かっているから受け入れの準備をするようにという偽の書簡を揚州刺史に届けた。孫権はこの書簡を届けていた使者を捕らえ、4万の軍勢が救援として接近していると考え軍と共に撤退した

曹操は張喜と[[蔣済]]に1000人の軍を指揮させ即座に救援として派遣し、[[汝南郡|汝南]]を通過する際に汝南の兵を指揮させる事とした。張喜と蔣済の軍はそもそも寡兵であった上[[疫病]]により頭数が減っていたが、蔣済は一計を案じ、歩騎4万の軍を率いて向かっているから受け入れの準備をするようにという偽の書簡を揚州刺史に届けた。孫権はこの書簡を届けていた使者を捕らえ、4万の軍勢が救援として接近していると考え軍と共に撤退した<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷01|author=三國志

魏書•武帝紀 建安十三年十二月の項|wslanguage=zh}}</ref><ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷14#蔣濟|author=三國志

魏書·程郭董劉蔣劉傳 蔣済伝建安十三年の項|wslanguage=zh}}</ref>。



[[209年]]、曹操は自ら出陣し合肥に陣を張った。史料には同年合肥での本格的な軍の衝突の記録はなく、この時期曹操は合肥の兵力や武将の編成や整備などを行ったものと推測される。


[[209]]<ref>{{Cite wikisource|title=/01|author=|wslanguage=zh}} - </ref>


== 第二次戦役(215年) ==

== 第二次戦役(215年) ==


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[[214]][[ ()|]][[|]]10[[|]]<ref>{{Cite wikisource|title=/47#|author=·|wslanguage=zh}} - </ref>



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3[[]][[]]70003[[|]]調[[]][[]]3<ref>{{Cite wikisource|title=/17#|author= ·|wslanguage=zh}} - 使</ref><ref>{{Cite wikisource|title=/18#|author= ·|wslanguage=zh}} - </ref>


張遼は夜中に敢えて自らに従うという兵を選別し800人を集め、牛肉を将兵に振る舞い、明け方に出撃すると伝えた。

張遼は夜中に敢えて自らに従うという兵を選別し800人を集め、牛肉を将兵に振る舞い、明け方に出撃すると伝えた<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷17#張遼|author=三國志 魏書·張樂于張徐傳|wslanguage=zh}} - 於是遼夜募敢從之士,得八百人,椎牛饗將士,明日大戰。</ref>




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2[[]][[]][[]]<ref>{{Cite wikisource|title=/17#|author= ·|wslanguage=zh}} - </ref>



退

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退退<ref>{{Cite wikisource|title=/55#|author= ·|wslanguage=zh}} - 使使</ref>

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張遼は孫権の容貌を知らなかった。孫権が最後衛の1000人の中でとても目立ったので、戦いの後に張遼は「勇武と騎射を備えた紫髯の将軍は何者だ」と孫権軍の降兵に問うと、自らが目撃した将軍が孫権その人であった事を知り、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って、捕まえ損ねた事を惜しんだ<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷47#孫權|author=三國志吳書·吳主傳|wslanguage=zh}} - 建安十九年5月の項記載の[[献帝]]春秋抜粋より《獻帝春秋》曰:張遼問吳降人:「向有紫髥將軍,長上短下,便馬善射,是誰?」降人答曰:「是孫會稽。」遼及樂進相遇,言不早知之,急追自得,舉軍嘆恨。</ref>。


退退

張遼は後に、孫権軍の降兵から自らが目撃した将軍が孫権その人であった事を知り、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って、捕まえ損ねた事を惜しんだ。



== 合肥新城の築城 ==

== 合肥新城の築城 ==


230[[寿]][[]]西30[[]][[]]

230[[寿]][[]]西30[[]]<ref>{{Cite wikisource|title=/26#滿|author= 滿|wslanguage=zh}} - 西便</ref>


== 第三次戦役(233年) ==

== 第三次戦役(233年) ==


[[233]]6100

[[233]]6100<ref>{{Cite wikisource|title=/26#滿|author= 滿|wslanguage=zh}} - 耀耀</ref>


== 第四次戦役(234年) ==

== 第四次戦役(234年) ==


[[234]][[|]][[]][[ ()|]]10[[]][[]]1[[]][[|]][[]][[ ()|]]

[[234]][[|]][[]][[ ()|]]10[[]][[]]1[[]][[|]][[]][[ ()|]]



6滿寿3退滿[[ ()|]]

6滿寿3退滿[[ ()|]]<ref>{{Cite wikisource|title=/26#滿|author= 滿|wslanguage=zh}} - 退</ref>



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7退退[[]]<ref>{{Cite wikisource|title=/03|author= ·|wslanguage=zh}} - 滿西退</ref>


== 第五次戦役(253年)==

== 第五次戦役(253年)==


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[[252]][[]][[]][[|]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]<ref>{{Cite wikisource|title=/48#|author=  |wslanguage=zh}} - ︿使西使</ref>


[[253年]]、勢いに乗った諸葛恪は魏に侵攻して合肥新城を包囲した。魏の諸将は慌てたが、[[司馬師]]は[[毌丘倹]]・[[文欽]]・[[張特]]に持久戦を命じた。彼らは2ヶ月間城を防衛するが、城内では兵の半分が戦死したり病にかかったりして、合肥新城も呉軍に攻め落とされた。張特はこの状況でまともに戦っても勝機は無いと見て、諸葛恪に対し「魏の法では、城を100日守ればその将兵は敵に降伏しても罪にはならず、家族が処刑されることもない。数日したら100日になるので、それから降伏する」と述べた。諸葛恪はこの言葉を信じ、城への攻撃を中止した。張特は密かに城壁を修復し、呉軍に対し徹底抗戦を始めた。諸葛恪はこれに激怒して城を攻めた。

[[253年]]、勢いに乗った諸葛恪は魏に侵攻して合肥新城を包囲した。魏の諸将は慌てたが、[[司馬師]]は[[毌丘倹]]・[[文欽]]・[[張特]]に持久戦を命じた。彼らは2ヶ月間城を防衛するが、城内では兵の半分が戦死したり病にかかったりして、合肥新城も呉軍に攻め落とされた。張特はこの状況でまともに戦っても勝機は無いと見て、諸葛恪に対し「魏の法では、城を100日守ればその将兵は敵に降伏しても罪にはならず、家族が処刑されることもない。数日したら100日になるので、それから降伏する」と述べた。諸葛恪はこの言葉を信じ、城への攻撃を中止した。張特は密かに城壁を修復し、呉軍に対し徹底抗戦を始めた。諸葛恪はこれに激怒して城を攻めた。




1007[[]][[]]退8

1007[[]][[]]退8<ref>{{Cite wikisource|title=/04#|author= ·|wslanguage=zh}} - </ref>


毌丘倹は「建国以来、これほど困難な戦はなかった」と上奏し、戦死した将兵の功績を讃え、遺族のために便宜を図ったという。

毌丘倹は「建国以来、これほど困難な戦はなかった」と上奏し、戦死した将兵の功績を讃え、遺族のために便宜を図ったという。


== 第六次戦役(268年)==

[[268年]]秋9月、呉は荊州と揚州で同時に軍事行動を起こした。命をうけた[[丁奉]]と[[諸葛靚]]は芍陂に布陣して合肥を攻撃し、[[孫晧]]も自ら東関まで軍をすすめた。


丁奉は、晋側の指揮を取っていた[[石苞]]が中央とうまくいっていない事を聞きつけると、有りもしない手紙を送って離間の計を行った。この計略は上手くいき、司馬炎は軍を派遣して石苞を捕らえようとするなど大きな事態に発展しかけたが、[[孫鑠]]の助言により武装解除の上石苞自ら寿春を出て罪に服したため、事態は収拾された。[[司馬駿]]が変わって丁奉と対峙した。その頃荊州では襄陽を攻めていた[[万彧]]が[[胡烈]]に打ち破られ、江夏を攻めていた[[朱績]]も撤退した為、荊州で指揮を執っていた[[司馬望]]は合肥方面へ軍を向けた。丁奉は2か月にわたって晋軍と対峙を続けていたが戦況は不利であり、司馬望の救援もやってきたため、冬11月には撤退した<ref>呉志・三嗣主伝、呉志・丁奉伝 晋書・武帝紀、晋書・安平献王孚伝及び資治通鑑より。武帝紀では司馬望と司馬駿が共同して丁奉を打ち破ったと書かれているが、安平献王孚伝では司馬望が到着する前に丁奉は撤退したとしている</ref>。これが三国時代を通して行われた合肥方面での最後の戦いとなっている。


== 脚注 ==

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2024年5月18日 (土) 16:45時点における最新版

合肥の戦い
戦争合肥の戦い
年月日208年冬~268年
場所:合肥(現在の安徽省合肥市
結果:一次(208年):曹操軍の勝利
二次(215年):曹操軍の勝利
三次(233年):魏軍の勝利
四次(234年):魏軍の勝利
五次(253年):魏軍の勝利
六次(268年):晋軍の勝利
交戦勢力
孫権軍(一次)(二次)
軍(三次、四次、五次、六次)
曹操軍(一次、二次)
軍(三次、四次、五次)
軍(六次)
指導者・指揮官
孫権(一次、二次、三次、四次)
諸葛恪(五次)
丁奉(六次)
蔣済張喜(一次)
薛悌張遼(二次)
満寵(三次、四次)
毌丘倹(五次)
司馬駿(六次)
戦力
不明 不明
損害
三国時代

/

215107

[]



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200[1]

[2][3]

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便

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2689

寿駿退211退[24]

脚注[編集]



(一)^ ウィキソース出典 · (), /15#,   - 

(二)^ ウィキソース出典 · (), /15#,   - 

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(四)^ ウィキソース出典    (), /01,  

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(13)^ ウィキソース出典  · (), /17#,   - 退

(14)^ ウィキソース出典 · (), /47#,   - 5駿駿使使

(15)^ ウィキソース出典  · (), /60#,   - 

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(17)^ ウィキソース出典 · (), /47#,   - 5便

(18)^ ウィキソース出典  滿 (), /26#滿,   - 西便

(19)^ ウィキソース出典  滿 (), /26#滿,   - 耀耀

(20)^ ウィキソース出典  滿 (), /26#滿,   - 退

(21)^ ウィキソース出典  · (), /03,   - 滿西退

(22)^ ウィキソース出典    (), /48#,   - ︿使西使

(23)^ ウィキソース出典  · (), /04#,   - 

(24)^  駿退