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「合肥の戦い」の版間の差分

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Baryousan (会話 | 投稿記録)
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== 第一次戦役(208年)==

== 第一次戦役(208年)==


[[208]][[]][[|]][[]]退[[]][[|]]

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曹操は張喜と[[蔣済]]に1000人の軍を指揮させ即座に救援として派遣し、[[汝南郡|汝南]]を通過する際に汝南の兵を指揮させる事とした。張喜と蔣済の軍はそもそも寡兵であった上[[疫病]]により頭数が減っていたが、蔣済は一計を案じ、歩騎4万の軍を率いて向かっているから受け入れの準備をするようにという偽の書簡を揚州刺史に届けた。孫権はこの書簡を届けていた使者を捕らえ、4万の軍勢が救援として接近していると考え軍と共に撤退した<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷01|author=三國志

曹操は張喜と[[蔣済]]に1000人の軍を指揮させ即座に救援として派遣し、[[汝南郡|汝南]]を通過する際に汝南の兵を指揮させる事とした。張喜と蔣済の軍はそもそも寡兵であった上[[疫病]]により頭数が減っていたが、蔣済は一計を案じ、歩騎4万の軍を率いて向かっているから受け入れの準備をするようにという偽の書簡を揚州刺史に届けた。孫権はこの書簡を届けていた使者を捕らえ、4万の軍勢が救援として接近していると考え軍と共に撤退した<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷01|author=三國志

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張遼は夜中に敢えて自らに従うという兵を選別し800人を集め、牛肉を将兵に振る舞い、明け方に出撃すると伝えた<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷17#張遼|wslanguage=zh}} - 於是遼夜募敢從之士,得八百人,椎牛饗將士,明日大戰。</ref>。

張遼は夜中に敢えて自らに従うという兵を選別し800人を集め、牛肉を将兵に振る舞い、明け方に出撃すると伝えた<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷17#張遼|author=三國志 魏書·張樂于張徐傳|wslanguage=zh}} - 於是遼夜募敢從之士,得八百人,椎牛饗將士,明日大戰。</ref>。



明け方、張遼は鎧を着込み戟を持ち自ら先鋒となって孫権の本陣に斬り込み、数十人の兵と2人の将校を斬り、孫権の眼前に迫った。[[徐盛]]が負傷し牙旗を奪われて逃走したが、[[賀斉]]が牙旗を奪い返し、[[潘璋]]が逃亡兵を斬って士気の崩壊を防いだため、前線に戻った。孫権は長戟を振るって身を守りつつ高い丘の上に逃走した。孫権は張遼の率いる軍が寡兵である事を見てとり張遼の軍を幾重にも包囲した<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷17#張遼|wslanguage=zh}} - 平旦,遼被甲持戟,先登陷陳,殺數十人,斬二將,大呼自名,衝壘入,至權麾下。權大驚,衆不知所爲,走登高冢,以長戟自守。遼叱權下戰,權不敢動,望見遼所將衆少,乃聚圍遼數重。</ref>。


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10退退1000[[]][[]][[]][[]]7000<ref>{{Cite wikisource|title=/17#|author= ·|wslanguage=zh}} - 退</ref>30013[[]]<ref>{{Cite wikisource|title=/47#|author=·|wslanguage=zh}} - 5駿駿使使</ref>3000<ref>{{Cite wikisource|title=/60#|author= ·|wslanguage=zh}} - [[]]</ref>



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== 合肥新城の築城 ==

== 合肥新城の築城 ==


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== 第三次戦役(233年) ==

== 第三次戦役(233年) ==


[[233]]6100<ref>{{Cite wikisource|title=/26#滿|wslanguage=zh}} - 耀耀</ref>

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== 第四次戦役(234年) ==

== 第四次戦役(234年) ==


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毌丘倹は「建国以来、これほど困難な戦はなかった」と上奏し、戦死した将兵の功績を讃え、遺族のために便宜を図ったという。

毌丘倹は「建国以来、これほど困難な戦はなかった」と上奏し、戦死した将兵の功績を讃え、遺族のために便宜を図ったという。


== 第六次戦役(268年)==

[[268年]]秋9月、呉は荊州と揚州で同時に軍事行動を起こした。命をうけた[[丁奉]]と[[諸葛靚]]は芍陂に布陣して合肥を攻撃し、[[孫晧]]も自ら東関まで軍をすすめた。


丁奉は、晋側の指揮を取っていた[[石苞]]が中央とうまくいっていない事を聞きつけると、有りもしない手紙を送って離間の計を行った。この計略は上手くいき、司馬炎は軍を派遣して石苞を捕らえようとするなど大きな事態に発展しかけたが、[[孫鑠]]の助言により武装解除の上石苞自ら寿春を出て罪に服したため、事態は収拾された。[[司馬駿]]が変わって丁奉と対峙した。その頃荊州では襄陽を攻めていた[[万彧]]が[[胡烈]]に打ち破られ、江夏を攻めていた[[朱績]]も撤退した為、荊州で指揮を執っていた[[司馬望]]は合肥方面へ軍を向けた。丁奉は2か月にわたって晋軍と対峙を続けていたが戦況は不利であり、司馬望の救援もやってきたため、冬11月には撤退した<ref>呉志・三嗣主伝、呉志・丁奉伝 晋書・武帝紀、晋書・安平献王孚伝及び資治通鑑より。武帝紀では司馬望と司馬駿が共同して丁奉を打ち破ったと書かれているが、安平献王孚伝では司馬望が到着する前に丁奉は撤退したとしている</ref>。これが三国時代を通して行われた合肥方面での最後の戦いとなっている。



== 脚注 ==

== 脚注 ==


2024年5月18日 (土) 16:45時点における最新版

合肥の戦い
戦争合肥の戦い
年月日208年冬~268年
場所:合肥(現在の安徽省合肥市
結果:一次(208年):曹操軍の勝利
二次(215年):曹操軍の勝利
三次(233年):魏軍の勝利
四次(234年):魏軍の勝利
五次(253年):魏軍の勝利
六次(268年):晋軍の勝利
交戦勢力
孫権軍(一次)(二次)
軍(三次、四次、五次、六次)
曹操軍(一次、二次)
軍(三次、四次、五次)
軍(六次)
指導者・指揮官
孫権(一次、二次、三次、四次)
諸葛恪(五次)
丁奉(六次)
蔣済張喜(一次)
薛悌張遼(二次)
満寵(三次、四次)
毌丘倹(五次)
司馬駿(六次)
戦力
不明 不明
損害
三国時代

/

215107

[]



[]


200[1]

[2][3]

208[]


208退

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209[6]

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370003調3[8][9]

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退[12]

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233[]


2336100[19]

234[]


234101

6滿寿3退滿[20]

7退退[21]

253[]


252[22]

2532100100

1007退8[23]

便

268[]


2689

寿駿退211退[24]

脚注[編集]



(一)^ ウィキソース出典 · (), /15#,   - 

(二)^ ウィキソース出典 · (), /15#,   - 

(三)^ ウィキソース出典 · (), /15#,   - 

(四)^ ウィキソース出典    (), /01,  

(五)^ ウィキソース出典  ·  (), /14#,  

(六)^ ウィキソース出典  (), /01,   - 

(七)^ ウィキソース出典 · (), /47#,   - 

(八)^ ウィキソース出典  · (), /17#,   - 使

(九)^ ウィキソース出典  · (), /18#,   - 

(十)^ ウィキソース出典  · (), /17#,   - 

(11)^ ウィキソース出典  · (), /17#,   - 

(12)^ ウィキソース出典  · (), /17#,   - 

(13)^ ウィキソース出典  · (), /17#,   - 退

(14)^ ウィキソース出典 · (), /47#,   - 5駿駿使使

(15)^ ウィキソース出典  · (), /60#,   - 

(16)^ ウィキソース出典  · (), /55#,   - 使使

(17)^ ウィキソース出典 · (), /47#,   - 5便

(18)^ ウィキソース出典  滿 (), /26#滿,   - 西便

(19)^ ウィキソース出典  滿 (), /26#滿,   - 耀耀

(20)^ ウィキソース出典  滿 (), /26#滿,   - 退

(21)^ ウィキソース出典  · (), /03,   - 滿西退

(22)^ ウィキソース出典    (), /48#,   - ︿使西使

(23)^ ウィキソース出典  · (), /04#,   - 

(24)^  駿退