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* [http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1998/00415/contents/003.htm 風土を読む 吉田東伍]日本財団図書館 |
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2016年10月24日 (月) 23:57時点における版
吉田 東伍︵よしだ とうご、元治元年4月14日︵1864年5月19日︶ - 大正7年︵1918年︶1月22日︶は日本の歴史学者、地理学者︵歴史地理学︶。
新潟県出身。﹁大日本地名辞書﹂の編纂者として知られる。日本歴史地理学会︵日本歴史地理研究会︶の創設者の一人。
概説
元治元(1864)年4月14日︵4月10日との説もある[1]︶、越後国蒲原郡保田村︵現‥阿賀野市安田村︶の豪農[2]旗野家の子︵三男︶としてに生まれる。吉田姓は養子先であり、明治17(1884)年12月から名乗った[3]。明治8(1875)年、11歳の時から新潟学校︵後の新潟英語学校︶中学部を3年ほどで中退後、学校教育を受けずに独学で小学校教員となる[4]。1884(明治17)年、中蒲原大鹿新田︵新潟市秋葉区︶の吉田家の養子となり結婚する。1885(明治18)年、1年志願兵として仙台兵学校に入営する。休日には仙台師範学校の図書館︵旧仙台藩の図書を収蔵︶に通う。翌年、帰郷する。1887(明治20)年、24歳の時、小学校正教員の検定に合格し、北蒲原郡水原小学校訓導となった。この頃、歴史・地理・天文のほか考古学・人類学に関心をもつ。1889年︵明治22年︶水原小学校を辞職。[5]。
1890年︵明治23年︶、27歳での結婚後に単身北海道に渡り、そこから﹃史学雑誌﹄に寄稿した﹁古代半島興廃概考﹂が学者の注意を引き、落後生という筆名で続々史論を発表し注目された。特に﹃史海﹄への投書論考が主筆田口卯吉らの注目をひき、学界への登竜門となった。1891年︵明治24年︶郷土に帰り、親戚の市島謙吉を頼って上京し、市島が主筆を務める読売新聞社に入社し、﹁徳川政教考﹂を﹃読売新聞﹄に連載。また、2年足らずで膨大な﹃日韓古史断﹄︵1893年、30歳︶を書き上げ、翌年﹃徳川政教考﹄を出版し、歴史家としての地位を固めた。
1895年、日清戦争に記者として従軍した頃から、1893年に官撰日本地誌の編纂事業が中止されており、その事業を独力で継ごうという意思の表れでもあり[6]、また、日本の地名の変遷を記した研究がないことに気付き、13年かかって﹃大日本地名辞書﹄11冊を完成した。原稿の厚さ5mに及ぶ質量とも古今未曾有の大地誌で、今日でも刊行されている。
歴史地理学のほか日本音楽史の造詣も深く、とくに能楽研究に意を注ぎ、﹃世子六十以後申楽談儀﹄(﹃申楽談儀﹄)を校訂、これが世阿弥伝書の発見につながる契機となった。その後、吉田が﹃花伝書﹄と命名した﹃風姿花伝﹄をはじめ,当時発見された世阿弥の著書16部を収めた﹃世阿弥十六部集﹄を校注し、従来の観阿弥・世阿弥像を一新させ,近代能楽研究の出発点となった。
晩年は宴曲(早歌︵そうが︶)研究に努め,東儀鉄笛︵とうぎてつてき︶の協力で宴曲再興を試み,私財を投じて﹃宴曲全集﹄を公刊して研究の基礎を築いた。
他にも、社会経済史の分野では﹃庄園制度之大要﹄が、近代史の分野では﹃維新史八講﹄があり、現代より過去にさかのぼるという歴史的視野の問題を含む通史﹃倒叙日本史﹄(全12巻)もある。
東京専門学校︵早稲田大学の前身︶文学部史学科講師となり、以後、国史、日本地誌、明治史、日本地理を担当、のちに教授となり、さらに維持員、理事に就任したが、1918年︵大正7年︶尿毒症のため急死した。
次男の吉田千秋︵1895-1919︶は琵琶湖周航の歌の原曲の作曲者。三男の吉田冬蔵は英文学者で新潟大学文学部教授を務めた。