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'''和田 英'''︵わだ えい、[[安政]]4年︵[[1857年]]︶[[8月21日]] - [[昭和]]4年︵[[1929年]]︶[[9月26日]]︶は、官営富岡製糸場の伝習工女。﹃[[富岡日記]]﹄を著した。旧姓は横田。▼ [[File:Wada Ei 1.jpg|thumb|和田英]]
▲'''和田 英'''︵わだ えい、[[安政]]4年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]︵[[1857年]] == 経歴 ==
[[File:Tomioka Silk Mill.JPG|thumb|明治時代の富岡製糸場]]
1857年 [[長野県]]埴科郡松代町(現・[[長野市]][[松代町 (長野県)|松代町]]松代)に[[松代藩|松代藩士]]横田数馬の次女として生まれる。▼
[[File:Rokkosha.jpg|thumb|六工社]]
[[1873年]] 松代町から英を含む16人が[[富岡製糸場]]へ伝習工女として入場する。
[[1874年]] 富岡製糸場を退場し、長野県埴科郡西條村
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[[1905年]] 富岡製糸場での日々を回顧して『富岡日記』を著す。
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== 人物・逸話 ==
[[File:Former Yokota Residence 5.jpg|thumb|生家(旧横田家住宅)]]
*英は17歳で故郷を離れ富岡に着任するが、工女募集責任者である父
*﹃富岡日記﹄の前半は伝習生として、後半は技術者としての記録であるが、どちらも国家的視点から展開されている。新版は[[ちくま文庫]]︵2014年6月︶、ほかに[[みすず書房]]︿大人の本棚﹀、[[中公文庫]]などで刊行された。 *『富岡日記』や『我母乃躾』に示されている英の母親横田亀代子(きよこ)の躾は、儒教精神に裏付けられた独自の教えであり、学習教材に広く使われている。▼
*長野市松代町の生家は「旧横田家住宅」として国の[[重要文化財]]に指定され、保存、公開されている。
*2017年、英を主人公とした『[[紅い襷〜富岡製糸場物語〜]]』が公開された。英を演じるのは[[水島優]]、50年後の英を[[大空真弓]]が演じている。
▲*富岡製糸場の工女姿のキャラクター「おエイちゃん」(現:[[富岡市]]イメージキャラクター「お富ちゃん」)のモデルとなった。
== 家系・親族 ==
==参考文献==▼
* 母方祖父・横田甚吾左衛門︵1874年没︶ ‐ 松代藩士。横田家の先祖は奥会津横田の住人山内大学と伝えられ、江戸時代には信州松代藩士として150石の禄を受けていた中級武士であった。長男の九郎左が松代と新潟港をつなぐ船運のため藩の支援を受けて信濃川開墾に乗り出したが中途で病死し、その際の私債により生活は困窮していた。甚吾左衛門は藩政に参与ののち[[松代県]]の理事を務めた。<ref name=sato>[https://dl.ndl.go.jp/pid/909611/1/338 横田亀代子]信濃人物志、佐藤寅太郎、文正社、1922</ref> *和田英『富岡日記―定』([[創樹選書]]、1976年)▼
* 父・横田数馬︵1880年没︶ ‐ 松代藩士・斎藤運平の二男。横田家の婿養子。同藩目付ののち松代県議事、長野警部、[[埴科郡]]長。 *和田英『我母之躾』([[信濃教育会]]出版部、1992年)▼
▲* 母・横田亀代子︵1836-1910︶ ‐ 横田甚吾左衛門の二女。兄夭折のため婿を取り横田家を継ぐ<ref name=sato/>。﹃富岡日記﹄や﹃我母乃躾﹄に示されている * 姉・寿子 ‐ 真田稔︵いとこ︶の妻。娘に[[真田志ん]]。娘・長の孫に[[高畠通敏]]。<ref name=sato/><ref name=takahata/> * 弟・[[横田秀雄]] ‐ 大審院長。子に[[横田正俊]]
* 次弟・[[小松謙次郎]] ‐ 鉄道大臣
* 次妹・艶子(1867年生) ‐ 海軍少将・[[細谷資氏]]の妻<ref name=sato/>。子に[[細谷資彦]]、[[細谷資芳]]。
* 三妹・小常(ことき、1870年生) ‐ 医師・笠原親文の妻。親文は産科の名医と言われた[[岩手県]][[一関]]の[[笠原三安]]の長男で、[[東京外国語学校]]卒業後ドイツ語教師を経てドイツに留学、医学を修めて帰国し、福岡、秋田の公立病院長、栃木県立宇都宮病院外科部長を経て独立し、宇都宮共立病院を開業した。子に[[旅順医学専門学校]]教授・笠原親之助。<ref name=sato/><ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E4%B8%89%E5%AE%89-1064895 笠原三安]コトバンク</ref><ref>[ 第十六章 人物]「復刻 眞瀧村誌」眞瀧村誌復刻刊行委員会、2003</ref><ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/1186274/1/297 笠原親之助]『批判研究博士人物 医科 続篇』 井関九郎 発展社出版部 1936</ref>
* 三弟・横田俊夫(1873年生︶‐[[朝鮮総督府]]判事、[[大邱]]地方法院長。[[東京帝国大学法科大学]]仏法科を卒業後、静岡・東京で裁判所判事ののち[[統監府]]判事、朝鮮總督府判事となり京城地方法院など経て大邱地方法院長を務めた。<ref>[https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-24186 横田俊夫]﹃人事興信録﹄第8版、昭和3(1928)年</ref> * 四妹・越路(1878年生)‐[[台湾]]警察・宮尾邦太郎の妻<ref name=sato/>
* 五妹・信夫(志能武、1880年生) ‐ 医師・間庭延俊の妻<ref name=sato/>
* 夫・和田盛治︵1913年没︶ ‐ 旧松代藩士陸軍中尉。[[佐久間象山]]の甥。[[古河財閥]]に勤め、[[足尾銅山]]の工場長として[[田中正造]]と対決した。<ref name=sato/><ref name=takahata>﹃高畠通敏集, 第5巻﹄高畠通、岩波書店、p342</ref> * 養嗣子・和田盛一(1884-1945) ‐ 工学士。馬場淳一郎の子。[[東京帝国大学工科大学]]採治科卒業後、足尾銅山技師となり[[久根鉱業所]]などを経て足尾鉱業所所長、のち東邦金属製錬重役。妻は細谷資氏の娘。<ref>﹃帝国大学出身名鑑﹄ 校友調査会 1932 和田盛一</ref><ref>﹃人事興信録 第14版 下﹄和田盛一</ref> ▲== 参考文献 ==
*[[上條宏之]]『絹ひとすじの青春-『富岡日記』にみる日本の近代』[[日本放送出版協会]](NHKブックス320)、[[1978年]]
== 脚注 ==
<references />
== 外部リンク ==
*
*{{国立国会図書館のデジタル化資料|1028995|富岡後記}}
{{Commonscat|Wada Ei}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:わた えい}}
[[Category:幕末松代藩の人物]]
[[Category:長野県出身の人物]]
[[Category:明治時代の人物]]
[[Category:戦前日本の女性]]
[[Category:1857年生]]
[[Category:1929年没]]
[[Category:富岡製糸場]]
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2023年11月24日 (金) 11:43時点における最新版
和田 英︵わだ えい、安政4年8月21日︵1857年10月8日︶ - 昭和4年︵1929年︶9月26日︶は、官営富岡製糸場の伝習工女。﹃富岡日記﹄を著した。旧姓は横田。
明治時代の富岡製糸場
六工社
1857年 信濃国埴科郡松代︵現・長野市松代町松代︶に松代藩士横田数馬の次女として生まれる。
1873年 松代町から英を含む16人が富岡製糸場へ伝習工女として入場する。
1874年 富岡製糸場を退場し、長野県埴科郡西條村︵現・長野市松代町西条︶に建設された日本初の民営機械製糸場・六工社の創業に参画するとともに、その後も教授として指導的な役割を果たす。
1880年 旧松代藩士陸軍中尉和田盛治と結婚[1]。
1905年 富岡製糸場での日々を回顧して﹃富岡日記﹄を著す。
墓所は、長野市松代町の蓮乗寺。