細谷資彦
細谷 資彦 | |
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生誕 | 1897年6月13日 |
死没 |
1944年9月12日(47歳没) 東シナ海[1][2] |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1920 - 1944 |
最終階級 | 海軍少将 |
墓所 | 谷中墓地 |
細谷 資彦︵ほそや すけひこ、1897年︵明治30年︶6月13日-1944年︵昭和19年︶9月12日︶は、日本の海軍軍人。海軍少将従四位勲三等[1]。
生涯[編集]
父は日露戦争において特務艦隊司令官[3]を務めた海軍少将 細谷資氏で、その二男。細谷は海軍兵学校47期を経て海軍大学校航海学生を卒業した航海科専攻士官で、空母﹁加賀﹂、﹁鳳翔﹂、戦艦﹁霧島﹂、﹁長門﹂などで航海長を歴任[1]。中央では海軍省人事局員、伏見宮博恭王附武官のほか軍令部出仕として臨時戦史部に勤務︵第四部第八課長︶[2]。大佐進級後に砲艦﹁安宅﹂艦長として日中戦争を戦い、1943年︵昭和18年︶12月に第一海上護衛隊運航指揮官に就任し、翌年にヒ72船団の指揮中に戦死した。 細谷の墓は東京都台東区の谷中霊園にある。出典[編集]
参考文献[編集]
- 『海軍兵学校出身者(生徒)』発行者:海軍兵学校出身者(生徒)名簿作成委員会、1987年10月20日 第三版(改訂版)Pg132
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』(第10巻)、第一法規出版
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』、芙蓉書房出版