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{{三国志の人物 |
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|名前 = 夏侯尚 |
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|王朝 = [[魏 (三国)|魏]] |
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|称号・役職 = 征南大将軍・荊州牧・仮節・昌陵郷侯 |
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|出生 = 不詳 |
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|出身地 = |
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|死去 = [[226年]] |
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|死没地 = [[洛陽]] |
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|ピン音 = Xiàhóu Shàng |
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|字 = 伯仁 |
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|諡号 = 悼侯 |
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|主君 = [[曹操]]→[[曹丕]] |
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|特記事項 = |
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'''夏侯 尚'''︵かこう しょう、生年不詳 - [[226年]]<ref name="kakoushou">﹃[[晋書]]﹄巻13﹁天文志下﹂︵黃初七年︶四月征南大將軍夏侯尚薨</ref>︶は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の武将・政治家。[[字]]は'''伯仁'''。[[魏 (三国)|魏]]の[[宗族]]の一人。父の名は不詳。妻は徳陽郷主︵[[曹真]]の妹︶。子は[[夏侯玄]]。伯父︵叔父︶は[[夏侯淵]]。従父は[[夏侯惇]]。﹃[[三国志 (歴史書)|三国志]]﹄魏志﹁諸夏侯曹伝﹂に伝がある。
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'''夏侯 尚'''︵かこう しょう、生年不詳 - [[226年]]<ref name="kakoushou">﹃[[晋書]]﹄巻13﹁天文志下﹂︵黃初七年︶四月征南大將軍夏侯尚薨</ref>︶は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の武将・政治家。[[字]]は'''伯仁'''。[[魏 (三国)|魏]]の[[宗族]]の一人。父の名は不詳。妻は徳陽郷主︵[[曹真]]の妹︶。子は[[夏侯玄]]。伯父︵叔父︶は[[夏侯淵]]。従父は[[夏侯惇]]。﹃[[三国志 (歴史書)|三国志]]﹄魏志﹁諸夏侯曹伝﹂に伝がある。
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2018年1月12日 (金) 03:41時点における版
夏侯尚 | |
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魏 征南大将軍・荊州牧・仮節・昌陵郷侯 | |
出生 | 不詳 |
死去 |
226年 洛陽 |
拼音 | Xiàhóu Shàng |
字 | 伯仁 |
諡号 | 悼侯 |
主君 | 曹操→曹丕 |
夏侯 尚︵かこう しょう、生年不詳 - 226年[1]︶は、中国後漢末期から三国時代の武将・政治家。字は伯仁。魏の宗族の一人。父の名は不詳。妻は徳陽郷主︵曹真の妹︶。子は夏侯玄。伯父︵叔父︶は夏侯淵。従父は夏侯惇。﹃三国志﹄魏志﹁諸夏侯曹伝﹂に伝がある。
生涯
若いころから計略・智謀に優れていたため、曹丕から評価を受け、親友として身分を越えた付き合いをしたという︵﹃魏書﹄︶。 曹操の冀州平定に際して、軍司馬として騎兵を率いて従った。 曹丕が五官中郎将になると、その文学となった。杜襲が﹁夏侯尚は人を益しない友人である﹂と評し、曹操に訴えて夏侯尚を遠ざけようとさせたが、曹丕からの寵愛が衰えることはなかった。 魏国成立時に黄門侍郎となった。代郡で烏桓が反乱を起こすと、曹彰の軍事に参じてこれを征討した。曹操が洛陽で死去すると、夏侯尚は節を手にし柩を守って鄴に帰還した。前後の功績を評価されて、平陵亭侯に封じられ、中領軍に任命された。 曹丕︵文帝︶即位後は平陵郷侯に昇格し、征南将軍・荊州刺史・仮節・都督南方諸軍事となった。この頃、劉備軍の別働隊が上庸を占拠していたが、宜都太守の孟達が劉封と対立し、孟達が魏に降伏するという事件が発生していた。夏侯尚は上庸を奇襲することを提案し、孟達・徐晃と共に劉封と太守申耽らを撃破。上庸・西城・房陵の3郡9県を魏の版図に収め、征南大将軍に昇進した︵蜀志﹁劉封伝﹂︶。 呉の孫権が曹丕に臣従を申し込んで来た時、夏侯尚はこれを信用せず、呉に対する軍備を怠らなかった。 222年、曹丕が自ら宛に行幸し、呉を三方面から攻めようとすると、夏侯尚は諸軍を統括し曹真・張郃[2]と共に江陵を包囲した。夏侯尚は呉の諸葛瑾と対峙した。長江の中州を中心に水陸両軍を展開させた呉軍に対し、夏侯尚は歩騎兵1万を率いて、下流から秘かに長江を渡り夜襲をかけ、併せて敵の水軍を火攻めし、大いにこれを破った。その後、一本の浮橋を頼みとして中州に侵入したが、敵の攻撃を受けると上手く脱出できなかったという︵﹃魏志﹄﹁董昭伝﹂︶。呉の潘璋がその浮橋を焼き落とそうとしたが、夏侯尚はそれを察知し速やかに退却した︵呉志﹁潘璋伝﹂︶。江陵城の朱然の守備も堅く︵呉志﹁朱然伝﹂︶、結局魏軍は江陵城の攻略寸前に疫病が流行したため、詔勅により退却せざるを得なかった。 帰国後、夏侯尚は鉞を仮されて仮節鉞となり、荊州牧に昇進し、600戸を加増され領邑が1900戸となった。当時、荊州が荒廃しており、漢水を挟んで呉と国境を接していた上に、異民族も多かったため、ほとんどの住民が江南へ逃げていたが、夏侯尚は上庸から新たに道を通して開発を進め、軍を率いて西方を鎮撫した。このため、山岳や平地の異民族で降る者が多く、僅かな年数で数千戸の住民が帰順した。また孟達と親交を結んだため、夏侯尚の存命時は孟達が魏に叛くこともなかった。 224年、昌陵郷侯に改封された。 夏侯尚は愛妾がいたため、正妻に目をかけなかった。正妻が宗室の出身であったため、不快に思った曹丕は人をやって妾を殺させた。すると夏侯尚は悲嘆のあまり精神を病み、埋葬した愛妾を懐かしがって墓を掘り起こすことまでした。これを聞いた曹丕は腹を立て﹁杜襲の言葉はもっともであった﹂と言ったが、やがて後悔して元通り夏侯尚を厚遇した。 225年、病が重くなり洛陽に帰還した。 226年、曹丕[3]は夏侯尚の病床を何度か見舞って、手を握り流涕した。しかし間もなく没し[1]、悼侯と諡された。子が後を嗣いだ。曹丕は詔勅を出して夏侯尚の死を惜しみ、征南大将軍・昌陵郷侯の印綬を送ったという︵﹃魏書﹄︶。 正始4年︵243年︶秋7月、曹芳︵斉王︶は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には夏候尚も含まれている︵﹁斉王紀﹂︶。三国志演義
小説﹃三国志演義﹄では、曹操と劉備の漢中を巡る戦いにおいて、夏侯淵の武将の一人として登場する。劉備軍の黄忠と戦って敗れ捕らえられ、敵将の陳式との捕虜交換時に、背後から黄忠に弓で射撃され重傷を負う。また兄として夏侯徳が登場している。その後、上庸の孟達が謀反を起こすと史実通りそれを救援し、劉封を追いやっている。宗族
妻妾
- 徳陽郷主(曹真の妹)
子女
- 夏侯玄(太初)
従弟
- 夏侯儒(字「俊林」)
甥
- 夏侯奉(弟の子)
従孫
- 夏侯本(弟の孫で、昌陵亭侯を継ぐ)