「大御食神社」の版間の差分
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[File:Haidenn.jpg|thumb|大御食神社 拝殿]] |
[[File:Haidenn.jpg|thumb|大御食神社 拝殿]] |
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大御食神社の創建は、神社蔵の「美しの杜 |
大御食神社の創建は、神社蔵の「[[美しの杜物語]]」によると、 |
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大足彦忍代別天皇の御代四十八年(よそじまりやとせ)、御食彦御蔭の杉の木の下(もと)御安楽居(みやすらい)しその仮宮を神の御殿(みあらか)に見立て、日本武尊を祝い祀りて大御食ノ社(おおみけのやしろ)と御名を附け奉りき。}} |
大足彦忍代別天皇の御代四十八年(よそじまりやとせ)、御食彦御蔭の杉の木の下(もと)御安楽居(みやすらい)しその仮宮を神の御殿(みあらか)に見立て、日本武尊を祝い祀りて大御食ノ社(おおみけのやしろ)と御名を附け奉りき。}} |
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旧社格は [[郷社]]で、現在の本殿建物は元治元年(1864年)に建替えられたものである。 |
旧社格は [[郷社]]で、現在の本殿建物は元治元年(1864年)に建替えられたものである。 |
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別名の「美しの杜」の名は |
別名の「美しの杜」の名は上記の「美しの杜物語」に「宮簀姫またの名は厳郎姫を迎えまつりて、所の名を美しの杜と御名負はせまつる」とあることによる。 |
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現在氏子らは「美女ヶ森(びじょうがもり)」と呼んでいる。 |
現在氏子らは「美女ヶ森(びじょうがもり)」と呼んでいる。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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[[ファイル:阿智氏族 系図.jpg|代替文=|サムネイル|阿智氏族系図]] |
[[ファイル:阿智氏族 系図.jpg|代替文=|サムネイル|阿智氏族系図]] |
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* 代々[[宮司]]を務める[[社家]]の阿智祝部(阿智氏)は、[[八意思兼神]]に始まる神の系譜に繋がるとされる<ref>[[宝賀寿男]]編著『古代氏族系譜集成 |
* 代々[[宮司]]を務める[[社家]]の阿智祝部︵阿智氏︶は、[[八意思兼神]]に始まる神の系譜に繋がるとされる<ref>[[宝賀寿男]]編著﹃古代氏族系譜集成﹄中巻、[[古代氏族研究会]]、1986年。</ref>。
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=== 神社創建まで === |
=== 神社創建まで === |
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[[景行天皇]]朝に東国征伐を終えた[[倭建命]]︵日本武尊︶が、その帰路に[[信濃国|科野国]]赤須の里へ滞在した。そのとき赤須の里の長・赤津比古命︵赤須彦︶は御影の杉のもとに仮宮を立て日本武尊を饗した。それにより赤津比古命は日本武尊より'''御食津彦'''の名を賜った。また日本武尊は赤津比古命の娘・押媛命を愛で、赤須の里に三夜滞在した。以来、赤津比古命の子孫である神官宅を[[采女]]邸︵うねめやしき︶と呼んだ。
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[[景行天皇]]朝に東国征伐を終えた[[倭建命]]︵日本武尊︶が、その帰路に[[信濃国|科野国]]赤須の里へ滞在した。そのとき赤須の里の長・赤津比古命︵赤須彦︶は御影の杉のもとに仮宮を立て日本武尊を饗した。それにより赤津比古命は日本武尊より'''御食津彦'''の名を賜った。また日本武尊は赤津比古命の娘・押媛命を愛で、赤須の里に三夜滞在した。以来、赤津比古命の子孫である神官宅を[[采女]]邸︵うねめやしき︶と呼んだ。日本武尊による赤須滞在の記事は他の史書に見えないが、﹃[[古事記]]﹄には坂の神を服従させたと伝わり、﹃[[日本書紀]]﹄では白い鹿の神を蒜で殺し、次に現れた白い犬に導かれて[[美濃国]]へ出たとされる。またこの白い犬について、﹃諏訪史料叢書﹄巻28掲載の﹁神長守矢氏系譜﹂には、守矢実久が[[建御名方命]]の神功か[[守矢氏]]の祖である小須美君の使いではないかとしている<ref>﹁神長守矢氏系譜﹂﹃諏訪史料叢書.巻28﹄諏訪教育会、昭和11年、36頁。</ref>。景行天皇48年︵118年︶、赤須彦は日本武尊を祀り、大御食ノ社を創建した。
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* [[久安]]5年([[1149年]])社殿を建て替え、御遷宮があった。「美女森記録」 |
* [[久安]]5年([[1149年]])社殿を建て替え、御遷宮があった。「美女森記録」 |
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* 大御食神社と赤須彦の館があった場所との間に、現在﹁湯奉︵ゆぶ︶の沢﹂という地名︵[[小字]]︶が残っている。[[慶安]]二年︵1649年︶の[[検地帳|御検地帳]]にもあり、日本武尊が湯浴みをしたと伝わる。
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* 大御食神社と赤須彦の館があった場所との間に、現在﹁湯奉︵ゆぶ︶の沢﹂という地名︵[[小字]]︶が残っている。[[慶安]]二年︵1649年︶の[[検地帳|御検地帳]]にもあり、日本武尊が湯浴みをしたと伝わる。
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* [[西行]]が社家に立ち寄り、書を残している。[[江戸時代]]後期の旅行家[[菅江真澄]]の随筆『すわの海』に この書についての記述がある。 |
* [[西行]]が社家に立ち寄り、書を残している。[[江戸時代]]後期の旅行家[[菅江真澄]]の随筆『すわの海』に この書についての記述がある。 |
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[[File:Sugisyadenki.jpg|thumb|桐板に書かれた「美しの杜社伝記」]] |
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当社に伝わる書物。詳細は「[[美しの杜物語]]」を参照。 |
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=== 神代文字で書かれた社伝記 === |
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神社には、[[神代文字]]([[阿比留草文字]])で書かれた社伝記が伝えられている。 |
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[[天明]]年間に、当時十一棟あった邸宅が焼失、ほとんどの文献は焼失したが、社伝記の写しは火災から免れた。 |
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[[景行天皇]]から[[村上天皇]] [[天暦]]5年(951年)までの およそ840年間が桐板に記されている。 |
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明治7年、松本博覧会に出品された。 |
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[[File:Syadennki1.jpg|thumb|美しの杜社伝記 解読書]] |
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[[File:大御食神社御宝.jpg|thumb|解読書 大御食神社の御宝]] |
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[[File:日本古代文字考.jpg|thumb|落合直澄:日本古代文字考部分]] |
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=== 伝承と解読 === |
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社伝記は、代々の神主が代替わりの際に神道家[[吉田家]]から裁許状を受け、37日間潔斎して開いて見るが 異形の文字で読めなかった。 |
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明治2年正月[[伊那県]]庁より管下の諸社に、社の由緒を書き上げ提出せよとの令があり、社伝記を持参した。 |
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当時、伊那県庁を訪れていた落合直澄(通称一平、伊那県判事・[[落合直亮]]の弟)が解読した。 |
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「美しの杜社伝記」の奥書に以上の経緯と謝意が記されている。 |
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落合は著書「日本古代文字考」において、『神官小町谷氏を責めて古記録を出させ 意を解釈することができた。是より「美女神字世ニ現レタリ」』と記している。 |
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=== 社伝記の名称 === |
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* 落合は、社伝記を「美社神字録」、それを解読した自稿を「美社神字解」と名付けた。 |
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* 昭和11年(1936年)、[[赤穂町 (長野県)|赤穂村]](現駒ヶ根市)金子金作が『美社神字解』を出版した。 |
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* 宮崎小八郎は、著書『神代の文字』(昭和17年発行)の中で「美社神字」と記している。 |
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* [[吾郷清彦]]は「日本神学」誌上で解読文を紹介し、改めて「[[美しの杜物語]]」と名付けた。また著書『日本超古代秘史資料』(昭和51年)の中で『美社神字解』を古代和字文献として紹介している。 |
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* 駒ヶ根市誌(現代編下巻)では、「神代文字社伝記」と記す。 |
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* '''本縞では「美しの杜社伝記」(うつくしのもりしゃでんき)と表す。''' |
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[[File:御影の杉.jpg|thumb|御影の杉(三代目)]] |
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「美しの杜社伝記」では以下のように伝えている。 |
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* 建御名方命は国の巡りの時﹁奇(くしき)杉なり﹂とこの杉を愛で、日本武尊はこの木の元で饗応を受け大いに悦び﹁この杉はや、弥栄えて丈高し、奇び杉なりや。﹂と誉めた。以来この杉を﹁御蔭の杉﹂というようになった。
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* [[神功皇后]]4年(204年)、御影杉が枯れたので 翌5年春、中枝の大虚に育った実生の杉の植継を行った。 |
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* 斉衡3年(856年)5月 二代目御蔭杉が枯れたため 天安2年(858年)春 植継ぎが行われた。現在の御蔭杉はこの三代目であるという。 |
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ただし駒ヶ根市誌自然編では、樹齢300年としている。 |
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[[File:獅子練り.JPG|thumb|獅子練り]] |
[[File:獅子練り.JPG|thumb|獅子練り]] |
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[[9月21日]]の[[例祭]](平成17年から直近の休日)は、氏子が獅子練りを行う。祭典の中心祭事とされ、毎年、年番耕地の若衆が取り組む。 |
[[9月21日]]の[[例祭]](平成17年から直近の休日)は、氏子が獅子練りを行う。祭典の中心祭事とされ、毎年、年番耕地の若衆が取り組む。 |
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お練りは、氏子が [[おかめ]]・[[ひょっとこ]] などと[[悪魔払い]]の獅子の機嫌を取りながら神社にお詣りをし、最後に獅子の頭を切り取り奉納する。 |
お練りは、氏子が [[おかめ]]・[[ひょっとこ]] などと[[悪魔払い]]の獅子の機嫌を取りながら神社にお詣りをし、最後に獅子の頭を切り取り奉納する。 |
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この行列に神主は同行せず、祭神三種の名を書いた[[幣束]]を捧げた少年三人(現在は大人)が裃を着用し、陣笠を頂いて加わっている。 |
この行列に神主は同行せず、祭神三種の名を書いた[[幣束]]を捧げた少年三人(現在は大人)が裃を着用し、陣笠を頂いて加わっている。 |
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[[File:大御食神社景.jpg|thumb|大御食神社景]] |
[[File:大御食神社景.jpg|thumb|大御食神社景]] |
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* 御渡社 [[建御名方命]]・[[弟橘媛|橘姫命]]・[[地主神|上古地主神]]([[産土神]]) |
* 御渡社 [[建御名方命]]・[[弟橘媛|橘姫命]]・[[地主神|上古地主神]]([[産土神]]) |
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* 御継社 [[伊弉諾命]]・[[伊弉冉]]・[[天之御中主神]]・[[高皇産霊神]]・[[神皇産霊神]] |
* 御継社 [[伊弉諾命]]・[[伊弉冉]]・[[天之御中主神]]・[[高皇産霊神]]・[[神皇産霊神]] |
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* 真澄神社 大山祇神 |
* 真澄神社 大山祇神 |
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[[File:本堂高画質.jpg|thumb|大御食神社本殿]] |
[[File:本堂高画質.jpg|thumb|大御食神社本殿]] |
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* 本殿 [[元治]]元年(1864年)建替え(棟梁・斉藤常吉、彫工・立木音四郎)、[[流造|三間社流造]]。 |
* 本殿 [[元治]]元年(1864年)建替え(棟梁・斉藤常吉、彫工・立木音四郎)、[[流造|三間社流造]]。 |
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* 神代文字伝記 2巻 「美しの杜 |
* 神代文字伝記 2巻 「美しの杜物語」上下 |
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* 石棒 2本 |
* 石棒 2本 |
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[[File:西行法師真筆(大御食神社伝).jpg|thumb|社宝:西行法師書]] |
[[File:西行法師真筆(大御食神社伝).jpg|thumb|社宝:西行法師書]] |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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<references /> |
<references /> |
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== 参考文献 == |
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*[[谷川健一]] 編『日本の神々 -神社と聖地- 9 美濃・飛騨・信濃』2000年 [[白水社]] |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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*[[日本武尊]] |
*[[日本武尊]] |
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*[[神代文字]] |
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*[[阿比留草文字]] |
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*[[古史古伝]] |
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*[[史料]] |
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*[[年代記]] |
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*[[偽書]] |
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== 外部リンク == |
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*[http://atinomiya.life.coocan.jp/binran5-kaisetu.html 大御食神社 社伝記 解読書] |
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*[http://atinomiya.life.coocan.jp/newpage7.html 大御食神社 社伝記 読み下し文] |
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{{デフォルトソート:おおみけしんしや}} |
2020年7月16日 (木) 14:13時点における版
![]() |
大御食神社 | |
---|---|
![]() 大御食神社正面 | |
所在地 | 長野県駒ヶ根市赤穂11475番地 |
位置 | 北緯35度43分24.8秒 東経137度56分53.9秒 / 北緯35.723556度 東経137.948306度 |
主祭神 |
日本武尊 宮簀媛(五郎姫) 八幡大神 |
社格等 | 旧郷社 |
創建 | 118年(景行天皇48年) |
本殿の様式 | 三間社流造 |
別名 | 美しの杜(通称:美女ヶ森) |
例祭 |
祈年祭:4月15日 例大祭:9月21日/22日(平成17年から直近の休日) |
概要
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/49/Haidenn.jpg/220px-Haidenn.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/60/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%AE%E6%9D%9C%EF%BC%88%E7%8F%BE%E5%9C%A8%EF%BC%89.jpg/220px-%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%AE%E6%9D%9C%EF%BC%88%E7%8F%BE%E5%9C%A8%EF%BC%89.jpg)
祭神
●日本武尊 景行天皇48年︵118年︶創祀。 ●宮簀姫 応神天皇38年︵307年︶尾張国造・日本武尊の妻:簀媛姫の父:乎止与(おとよ) の館︵現:氷上姉子神社︶より、熱田ノ宮の草薙ノ剱の御霊代とともに迎えられた。 ●八幡大神 相殿に祀られている。 元慶三年︵879︶石清水八幡ノ宮より迎えられた。歴史
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/63/%E9%98%BF%E6%99%BA%E6%B0%8F%E6%97%8F_%E7%B3%BB%E5%9B%B3.jpg/220px-%E9%98%BF%E6%99%BA%E6%B0%8F%E6%97%8F_%E7%B3%BB%E5%9B%B3.jpg)
神社創建まで
景行天皇朝に東国征伐を終えた倭建命︵日本武尊︶が、その帰路に科野国赤須の里へ滞在した。そのとき赤須の里の長・赤津比古命︵赤須彦︶は御影の杉のもとに仮宮を立て日本武尊を饗した。それにより赤津比古命は日本武尊より御食津彦の名を賜った。また日本武尊は赤津比古命の娘・押媛命を愛で、赤須の里に三夜滞在した。以来、赤津比古命の子孫である神官宅を采女邸︵うねめやしき︶と呼んだ。日本武尊による赤須滞在の記事は他の史書に見えないが、﹃古事記﹄には坂の神を服従させたと伝わり、﹃日本書紀﹄では白い鹿の神を蒜で殺し、次に現れた白い犬に導かれて美濃国へ出たとされる。またこの白い犬について、﹃諏訪史料叢書﹄巻28掲載の﹁神長守矢氏系譜﹂には、守矢実久が建御名方命の神功か守矢氏の祖である小須美君の使いではないかとしている[2]。景行天皇48年︵118年︶、赤須彦は日本武尊を祀り、大御食ノ社を創建した。その後
●久安5年︵1149年︶社殿を建て替え、御遷宮があった。﹁美女森記録﹂ ●大御食神社と赤須彦の館があった場所との間に、現在﹁湯奉︵ゆぶ︶の沢﹂という地名︵小字︶が残っている。慶安二年︵1649年︶の御検地帳にもあり、日本武尊が湯浴みをしたと伝わる。 ●宮田村誌によると、﹁日本武尊が大田切川まで来たとき、大水で渡ることが出来なかったが、一頭の馬が馳せ来たのでその馬に乗って無事川を渡った。古老はその馬を、秋冬はこの原に住み、春夏は西山に住む神馬だと申し上げた。﹂という伝説がある。︵駒ヶ嶽御尋書-天保3年︵1832年︶︶ そのとき日本武尊が腰をかけ休んだという﹁御座石﹂が、宮田村駒ヶ原に文化財として残っている。 ●西行が社家に立ち寄り、書を残している。江戸時代後期の旅行家菅江真澄の随筆﹃すわの海﹄に この書についての記述がある。美しの杜物語
当社に伝わる書物。詳細は﹁美しの杜物語﹂を参照。祭事
境内社
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/45/%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E9%A3%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%99%AF.jpg/220px-%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E9%A3%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%99%AF.jpg)
文化財
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f8/%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E9%A3%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%9C%AC%E5%A0%82.jpg/220px-%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E9%A3%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%9C%AC%E5%A0%82.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a2/%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E6%B3%95%E5%B8%AB%E7%9C%9F%E7%AD%86%EF%BC%88%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E9%A3%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E4%BC%9D%EF%BC%89.jpg)