天道
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b1/Sun.svg/70px-Sun.svg.png)
天道︵てんとう︶は太陽または日輪である。太陽が空を通過する経路をいう。
日本の天道
日本では、一般的にお天道様︵おてんとさま︶とも言うように、太陽神としても知られる。太陽は神として祀られたのである。信仰心が伴わなくても太陽を﹁お日様﹂と呼び、お月様、お星様と同様に自然崇拝の対象であった。 天照大神は天道の神格化であり、仏教の大日如来とも習合した。また対馬の天道信仰においては日の神の子として、天童︵てんどう︶という言葉もある。 日本人はてんとうむし︵天道虫と書く︶を太陽に見立てた。 千葉県では、旧千葉郡を中心として、天道念仏と称し、春2月・3月に祭壇を作り、踊り念仏で作物の豊作を祈るなど、農耕儀礼に展開した[1][2]。 修験道も関わり、祭壇には出羽三山を祀った。中央に湯殿山を拝していたのは太陽崇拝であり、湯殿山は、胎蔵界大日如来を本地、天照大神を垂迹とした[3]。 地名では、名古屋市天白区天道、福岡県飯塚市天道、鹿児島県出水郡長島町の天道山、山形県天童市などがある。 戦国末期の仏教・神道・儒教の統一思想に広がれた説がある。[4]これで、太田牛一は、﹃信長公記﹄で、人の行為、戦争や生死は、﹁天道﹂がすべて定めている、幸運な時は﹁天道照覧﹂、主君などを反逆などで殺すと因果は巡り復讐され悪逆後の死は﹁天道恐ろしき事﹂と、各所にあり、運命論者として天道思想が基底にある[5]。対馬の天道信仰
対馬では独自の天道信仰が残る。太陽の光が女性の陰部に差し込んで孕み、子供を産むという太陽感精神話が伝えられ、母神と子神として祀るようになったという。母神を山麓に子神を山上に祀り、天神たる太陽を拝むことが多く、山は天道山として禁忌の聖地とされる。子神は天童や天童法師とも言われる[6]。石塔を作って山と太陽を拝む信仰があり、対馬の南岸に位置する豆酘の東の浅藻︵あざも︶にあるオソロシドコロ、八丁角が名高い。多久魂︵たくつたま︶神社に奉仕していた供僧は天道を祀り、赤米の赤に託して豊穣を祈願した。供僧は観音堂に奉仕し天道を祀る神仏習合の行事を続けてきた。天道は母子神のうちの子神で、母神は観音と習合したのである。旧暦正月10日の﹁頭受け神事﹂は一年間神仏に奉仕して赤米の栽培を行ってきた頭屋が、次の年の頭屋に受け渡す行事で厳格に行われてきた[7]。北部の佐護湊の天神多久魂神社も天道信仰である。天道の祭りは、太陽を拝むと共に、山を崇拝し、米や麦の収穫感謝を願った。対馬の中部では、旧6月のヤクマの祭りで石塔を立てて拝む習俗が天道信仰の名残りで、麦の収穫祭でもあった。木坂や青海では現在もおこなわれている[8]。天道信仰は母子神が基盤にあったので、八幡信仰と習合した。太陽によって孕んだ子供を天神として祀る天道信仰の上に、母神︵神功皇后︶と子神︵応神天皇︶を祀る八幡信仰が重なった。母子神信仰は、日本神話と結び付けられて、豊玉姫命と鵜茅草葺不合命とも解釈された。しかし、母子神信仰の基層には、海神や山神の祭祀があり、太陽を祀る天道信仰が融合していた。元々は自然崇拝に発した祭祀が、歴史上の人物に仮託され、社人による神話の再解釈が導入され、明治時代以降は国家神道の展開によって、祭神が日本神話の神々に読みかえられ、式内社に比定されて祭神も天皇につながる神統譜に再編成された。参考文献
(一)^ 斎藤月岑﹃江戸名所図会﹄ちくま学芸文庫版では6巻に収録 (二)^ 現代では海神念仏堂で奇跡的に風習が復活した。本来の中心地からすると船橋市街を挟んで反対側になる (三)^ 鈴木正崇﹁念仏と修験ー千葉県船橋市の天道念仏の事例から﹂福田晃・山下欣一編﹃巫覡・盲僧の伝承世界﹄第3集、三弥井書店、2006年、86-135頁 (四)^ 伊藤聡﹃神道とは何かー神と仏の日本史﹄中央公論新社︵中公新書)2012年、246頁 (五)^ 藤本正行﹃信長の戦国軍事学ー戦術家・織田信長の実像﹄JICC出版局、1993年、65ー66頁。 (六)^ 鈴木棠三﹃対馬の神道﹄三一書房、1972年 (七)^ 鈴木正崇﹁豆酘の祭祀と村落空間﹂﹃祭祀と空間のコスモロジーー対馬と沖縄﹄春秋社、2004年、263-358頁 (八)^ 鈴木正崇﹁木坂の祭祀と村落空間﹂﹁青海の祭祀と村落空間﹂﹃祭祀と空間のコスモロジーー対馬と沖縄﹄春秋社、2004年、25-115頁その他の天道
●デウス。キリスト教ではDeus︵デウス︶の日本語訳のひとつに天道が当てられた。 ●天 (仏教)。六道の1つで、神々や天人が住む世界。 ●天道 (新宗教)。および同宗教における理念。関連項目