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帝劇洋楽部解散を目前にした1916年(大正5年)3月、[[大田黒元雄]]ら12人の仲間とともに雑誌『[[音楽と文学]]』を創刊した。同人には、のちに[[音楽之友社]]を興す[[堀内敬三]]、『トオキイ音楽論』を著す[[中根宏]]、音楽評論家の重鎮となる[[野村光一]]、[[作曲家]]の[[菅原明朗]]、「丸木砂土」のペンネームで知られる[[三菱商事]]社員[[秦豊吉]]、兄の[[森村市左衛門]]と[[森村組]]を興した[[森村財閥]]の[[森村豊]]、登山家として知られる[[田邊主計]]らがいた。[[1919年]](大正8年)に休刊する<ref>「[http://www.ne.jp/asahi/yasuyuki/koseki/read_2a_0029.htm 大田黒元雄とその仲間たち 雑誌『音楽と文学』(1916-1919)]」にある目次を参照。同小冊子は[[日本近代音楽館]]編、2002年発行。</ref>。 |
帝劇洋楽部解散を目前にした1916年(大正5年)3月、[[大田黒元雄]]ら12人の仲間とともに雑誌『[[音楽と文学]]』を創刊した。同人には、のちに[[音楽之友社]]を興す[[堀内敬三]]、『トオキイ音楽論』を著す[[中根宏]]、音楽評論家の重鎮となる[[野村光一]]、[[作曲家]]の[[菅原明朗]]、「丸木砂土」のペンネームで知られる[[三菱商事]]社員[[秦豊吉]]、兄の[[森村市左衛門]]と[[森村組]]を興した[[森村財閥]]の[[森村豊]]、登山家として知られる[[田邊主計]]らがいた。[[1919年]](大正8年)に休刊する<ref>「[http://www.ne.jp/asahi/yasuyuki/koseki/read_2a_0029.htm 大田黒元雄とその仲間たち 雑誌『音楽と文学』(1916-1919)]」にある目次を参照。同小冊子は[[日本近代音楽館]]編、2002年発行。</ref>。 |
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また、1925年(大正14年)3月「[[日本作歌者協会]]」を設立、1935年(昭和10年)3月文部省から財団法人として認可されるど、多方面で活躍した。 |
また、1925年(大正14年)3月「[[日本作歌者協会]]」を設立、1935年(昭和10年)3月文部省から財団法人として認可されるなど、多方面で活躍した。 |
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教育者としても、[[1939年]](昭和14年)[[2月4日]]、「早稲田実業学校振興ニ関スル意見書」を提出している<ref>[[早稲田大学]]大学史資料センターサイト内の「[http://www.waseda.jp/archives/materials/pub/wjhshs_l.html 早稲田中学・高等学校旧蔵資料目録]」の記述を参照。</ref>。[[1941年]](昭和16年)[[9月1日]]、早稲田実業学校長に就任、翌年3月末で離任(後任は[[浅川栄次郎]])した<ref>早稲田実業学校校友会サイト内の「[http://www.soujitu.ne.jp/summary/index3.html 沿革(校友会の歩み)]」の記述を参照。</ref>。 |
教育者としても、[[1939年]](昭和14年)[[2月4日]]、「早稲田実業学校振興ニ関スル意見書」を提出している<ref>[[早稲田大学]]大学史資料センターサイト内の「[http://www.waseda.jp/archives/materials/pub/wjhshs_l.html 早稲田中学・高等学校旧蔵資料目録]」の記述を参照。</ref>。[[1941年]](昭和16年)[[9月1日]]、早稲田実業学校長に就任、翌年3月末で離任(後任は[[浅川栄次郎]])した<ref>早稲田実業学校校友会サイト内の「[http://www.soujitu.ne.jp/summary/index3.html 沿革(校友会の歩み)]」の記述を参照。</ref>。 |
2018年2月12日 (月) 00:39時点における版
来歴・人物
1881年︵明治14年︶11月30日、東京市に生まれる。 1892年︵明治25年︶に東京高等師範学校附属小学校尋常科︵現・筑波大学附属小学校︶、1899年︵明治32年︶に東京高等師範学校附属中学校︵現・筑波大学附属中学校・高等学校︶を卒業。第六高等学校︵現・岡山大学︶経て東京帝国大学英文科を卒業。日本オペラの夜明け
1906年︵明治39年︶5月、24歳のとき、東西の音楽と歌劇の研究・保存・創作・演奏を目的に小松耕輔、山田源一郎とともに﹁楽苑会﹂を結成、同年6月2日、同会の第1回公演として、神田区美土代町︵現在の千代田区神田美土代町︶のYMCA神田会館で、小松の作詞作曲によるオペラ﹃羽衣﹄の上演を行い、これが﹁日本初の創作オペラ﹂の上演となる。1907年︵明治40年︶4月13日、﹁牛込高等演芸館﹂での第2回公演では、小林作・小松作曲のオペラ﹃霊鐘﹄や、小林作・沢田柳吉作曲のパントマイム﹃影法師﹄、グノーのオペラを小林が訳した﹃ファウスト﹄を上演した。[1]。 1911年︵明治44年︶3月1日にオープンした帝国劇場に招かれ、1913年︵大正2年︶6月1日、小林が訳したモーツァルトのオペラ﹃魔笛﹄を上演した。その後も帝劇上演作品の翻訳をつづけ、1914年︵大正3年︶、日本初の口語訳オペラであるオッフェンバック作のオペレッタ﹃天国と地獄﹄初演を実現した。1915年︵大正4年︶にもオペラ・オペレッタの翻訳を量産し、5月27日、オッフェンバック作の﹃ブン大将﹄︵﹃ジェロルスティン大公妃殿下﹄︶を翻訳し日本初演、9月26日には原信子主演によるフランツ・フォン・スッペ作の﹃ボッカチオ﹄を翻訳し日本初演。[1]。のちに﹁浅草オペラ﹂でヒット、大衆化する﹃恋はやさしい野辺の花よ﹄はここで生まれた。田谷力三の歌唱で知られるが、この時点で田谷はまだ﹁ローヤル館﹂に入団していない。 1916年︵大正5年︶5月の帝劇洋楽部解散にあたり、ローシー夫妻の赤坂﹁ローヤル館﹂に参加、ここでも翻訳をつづけ、1917年︵大正6年︶11月13日、ロッシーニのオペラ﹃セビリアの理髪師﹄を翻訳、日本初演する。また、この年の4月に田谷がローヤル館に入団し、小林訳のプランケット作のオペレッタ﹃コルネヰルレ古城の鐘﹄の田谷の歌声を大阪公演で聴いた新国劇の藤原義江が、上京してオペラを志す決意をする。1918年︵大正7年︶2月、ローヤル館は解散する。 帝劇、ローヤル館での公演は興行的には華々しいものではなかったが、小林が日本語に移し変えた平易なオペラ、オペレッタは、浅草公園六区の大衆のなかで花開いた。帝劇やローヤル館の残党は浅草に流れ、小林訳作品を上演、観客は熱狂し、小林訳の歌を愛唱した。音楽と文学
明治年間、﹃サロメ﹄の戯曲をはじめとして、オスカー・ワイルドの日本語訳を盛んに行った[2]。 帝劇洋楽部解散を目前にした1916年︵大正5年︶3月、大田黒元雄ら12人の仲間とともに雑誌﹃音楽と文学﹄を創刊した。同人には、のちに音楽之友社を興す堀内敬三、﹃トオキイ音楽論﹄を著す中根宏、音楽評論家の重鎮となる野村光一、作曲家の菅原明朗、﹁丸木砂土﹂のペンネームで知られる三菱商事社員秦豊吉、兄の森村市左衛門と森村組を興した森村財閥の森村豊、登山家として知られる田邊主計らがいた。1919年︵大正8年︶に休刊する[3]。 また、1925年︵大正14年︶3月﹁日本作歌者協会﹂を設立、1935年︵昭和10年︶3月文部省から財団法人として認可されるなど、多方面で活躍した。 教育者としても、1939年︵昭和14年︶2月4日、﹁早稲田実業学校振興ニ関スル意見書﹂を提出している[4]。1941年︵昭和16年︶9月1日、早稲田実業学校長に就任、翌年3月末で離任︵後任は浅川栄次郎︶した[5]。 1945年︵昭和20年︶10月1日に死去。63歳。代表曲
- 『ベアトリ姐ちゃん』、作曲フランツ・フォン・スッペ(オペレッタ『ボッカチオ』)
- 『恋はやさしい野辺の花よ』、作曲フランツ・フォン・スッペ、(同)
- 『若紫に水清く』、作曲酒井将軍 ※第六高等学校寮歌
- 『菊の花』、作曲井上武士