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2014年4月10日 (木) 12:43時点における版
山田 秀典︵やまだ ひでのり、1836年︵天保7年︶[1] - 1882年︵明治15年︶1月6日[2]︶は、幕末の熊本藩士、明治期の内務官僚。青森県令。幼名・平太[2]、平兵衛[3]。
経歴
熊本藩士の家に生まれた[3]。 維新政府の十三等出仕となる[3]。明治4年8月︵1871年︶、内務省土木寮・土木権頭に就任[4]。1873年11月、新川県権令に転じ、同県令に昇進。 1876年8月、青森県令に就任[3]。産業振興に尽力し、国内各地から馬耕教師︵熊本県︶、養蚕教師︵福島県︶、藍教師︵高知県︶、麻教師︵栃木県︶、製紙教師︵長野県︶などを招いて実際の指導を行わせた[5]。また、自由民権派と保守派の一致協力を推進しようとするが、保守派の反発を招き郡長辞任などで抵抗を受けた[3][5]。1882年1月、県政報告のため滞在していた東京で死去した[5]。親族
- 二女 金子弥寿子(金子堅太郎の妻)