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| 本名 = 川上 貞(かわかみ さだ)<br />旧姓:小山 |
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| 別名義 = 小山 貞 |
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| 出生地 = [[東京府]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]] |
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== 生涯 == |
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[[東京都|東京]]・[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の[[両替商]]・越後屋の12番目の子供として誕生。生家の没落により、7歳の時に[[芳町 (花街)|芳町]]の[[芸妓]][[置屋]]﹁ |
[[東京都|東京]]・[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の[[両替商]]・越後屋の12番目の子供として誕生。生家の没落により、7歳の時に[[芳町 (花街)|芳町]]の[[芸妓]][[置屋]]﹁濱田屋﹂の女将、可免吉の養女となる<ref name="ダウナー"/>。伝統ある﹁奴﹂名をもらい﹁貞奴﹂を襲名。芸妓としてお座敷にあがる。[[日本舞踊|日舞]]の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった貞奴は﹁時の総理[[伊藤博文]]や[[西園寺公望]]など名立たる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となった﹂と当人や周囲は自慢していたようだが、西園寺公望は若い頃から知っているとした上で、福澤桃介と一緒に貞奴がついてきた話をして、貞奴を酷評している。﹁皺だらけの顔に白粉を塗って、まるで生湯葉にパン粉を振りかけたようだった。それでいつぞや皺を伸ばす薬は無いかと誰かに言ったそうだ。あんな鉄面皮は普通の工場ではダメだ、よほど高い熱で無ければ鍛え直すことも出来まい﹂と﹃園公秘話﹄でとても贔屓にしていたとは思えない言葉を残している。
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[[画像:Sadayakko Kawakami stage dress.jpg|thumb|left|200px|舞台衣装を身にまとった貞奴]] |
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1899年、川上音二郎一座の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]巡演に同行した。一座の巡演に関する報道にはこれまで誤りが多く、現在分かっている限りの真相は、井上理恵著『川上音二郎と貞奴 世界を巡演する』(社会評論社2015)に明らかにされている。巡演中は[[日本舞踊|日舞]]を披露していた。[[サンフランシスコ]]公演で、公演資金を[[興行]]師に全額持ち逃げされるという事件が発生。一座は異国の地で無一文の状態を余儀無くされたが、在留邦人の支援などで苦境を乗り越える。シアトル公演で後々有名になった『芸者と武士』を川上が生み出し、エキゾチックな貞奴の美貌と写実的な演技が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得た。 |
1899年、川上音二郎一座の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]巡演に同行した。一座の巡演に関する報道にはこれまで誤りが多く、現在分かっている限りの真相は、井上理恵著『川上音二郎と貞奴 世界を巡演する』(社会評論社2015)に明らかにされている。巡演中は[[日本舞踊|日舞]]を披露していた。[[サンフランシスコ]]公演で、公演資金を[[興行]]師に全額持ち逃げされるという事件が発生。一座は異国の地で無一文の状態を余儀無くされたが、在留邦人の支援などで苦境を乗り越える。シアトル公演で後々有名になった『芸者と武士』を川上が生み出し、エキゾチックな貞奴の美貌と写実的な演技が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得た。 |
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[[1900年]]、音二郎一座は[[ロンドン]]で興行を行った後、その同年に[[パリ]]で行われていた[[パリ万国博覧会 (1900年)|万国博覧会]]に招かれ、会場の一角にあった[[ロイ・フラー]]劇場において公演を行った。[[7月4日]]の初日の公演には、彫刻家[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]も招待されていた。ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を |
[[1900年]]、音二郎一座は[[ロンドン]]で興行を行った後、その同年に[[パリ]]で行われていた[[パリ万国博覧会 (1900年)|万国博覧会]]に招かれ、会場の一角にあった[[ロイ・フラー]]劇場において公演を行った。[[7月4日]]の初日の公演には、彫刻家[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]も招待されていた。ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を彫りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話がある。8月には、当時の大統領[[エミール・ルーベ]]が官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで『[[道成寺]]』を踊った。 |
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なお、当時フランスにいた西園寺公望の話によると「フランスの女優が日本芝居の死ぬ方を見せてもらいたいと言って貞奴が見せたところ、その批評は日本の死ぬ型は猿芝居よりも悪いと散々だった」そうである。 |
なお、当時フランスにいた西園寺公望の話によると「フランスの女優が日本芝居の死ぬ方を見せてもらいたいと言って貞奴が見せたところ、その批評は日本の死ぬ型は猿芝居よりも悪いと散々だった」そうである。 |
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[[福澤諭吉]]の娘婿で「電力王」の異名をとった実業家・[[福澤桃介]](旧姓 岩崎)との関係も話題を呼んだ。桃介との馴れ初めは1885年頃にさかのぼる。[[馬術]]をしていた貞が[[野犬]]に襲われるのを、学生だった桃介が制したことで2人は恋に落ちる。1年後、桃介は諭吉の二女・房と[[政略結婚|結婚]]。この後、貞奴と桃介は長い別離を挟む。しかし、女優を引退した後の貞奴は、悲恋の相手だった桃介と再び結ばれる。事業面でも実生活でも桃介を支え、仲睦まじく一生を添い遂げた。2人並んで公の場に姿を現し、桃介が手掛けた[[水力発電]]用の[[大井ダム]]([[木曽川]])工事の際も貞奴は赤い[[オートバイ|バイク]]を乗り回し、現場を訪れ、他の社員が尻込みする中を1人桃介について谷底まで向かったという。 |
[[福澤諭吉]]の娘婿で「電力王」の異名をとった実業家・[[福澤桃介]](旧姓 岩崎)との関係も話題を呼んだ。桃介との馴れ初めは1885年頃にさかのぼる。[[馬術]]をしていた貞が[[野犬]]に襲われるのを、学生だった桃介が制したことで2人は恋に落ちる。1年後、桃介は諭吉の二女・房と[[政略結婚|結婚]]。この後、貞奴と桃介は長い別離を挟む。しかし、女優を引退した後の貞奴は、悲恋の相手だった桃介と再び結ばれる。事業面でも実生活でも桃介を支え、仲睦まじく一生を添い遂げた。2人並んで公の場に姿を現し、桃介が手掛けた[[水力発電]]用の[[大井ダム]]([[木曽川]])工事の際も貞奴は赤い[[オートバイ|バイク]]を乗り回し、現場を訪れ、他の社員が尻込みする中を1人桃介について谷底まで向かったという。 |
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1920年頃、2人は同居を始めた。2人が[[名古屋市]]内で住んだ邸宅は「二葉御殿」と呼ばれ、政財界など各方面の著名人が集う[[サロン]]となった。現在は復元・移築され、「[[文化のみち二葉館]]」として再生している。このほか、貞奴の[[別荘]]だった「[[萬松園]]」が、木曽川を臨む岐阜県[[各務原市]]に現存している<ref>[http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20180519/CK2018051902000048.html 26部屋に貞奴の意匠 各務原・萬松園を重文指定へ]『[[中日新聞]]』2018年5月19日(2018年5月21日閲覧)。</ref>。 |
1920年頃、2人は同居を始めた。2人が[[名古屋市]]内で住んだ邸宅は﹁二葉御殿﹂と呼ばれ、政財界など各方面の著名人が集う[[サロン]]となった。現在は復元・移築され、﹁[[文化のみち二葉館]]﹂として再生している。このほか、貞奴の[[別荘]]だった﹁[[萬松園]]﹂が、木曽川を臨む岐阜県[[各務原市]]に現存している<ref>[https://web.archive.org/web/20180522041336/http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20180519/CK2018051902000048.html 26部屋に貞奴の意匠 各務原・萬松園を重文指定へ]﹃[[中日新聞]]﹄2018年5月19日︵2018年5月21日閲覧︶。</ref>。
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作家の[[長谷川時雨]]は、初老にさしかかった桃介と貞奴を見かけた折に「まだ夢のやうな恋を楽しんでいる恋人同士のやう」だと驚き、記している。 |
作家の[[長谷川時雨]]は、初老にさしかかった桃介と貞奴を見かけた折に「まだ夢のやうな恋を楽しんでいる恋人同士のやう」だと驚き、記している。 |
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*[[1911年]](明治44年) 夫・音二郎死去。 |
*[[1911年]](明治44年) 夫・音二郎死去。 |
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*[[1917年]](大正6年) 女優引退を宣言。 |
*[[1917年]](大正6年) 女優引退を宣言。 |
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*[[1918年]](大正7年) [[名古屋市]][[北区 (名古屋市)|北区]][[大曽根]]に「川上絹布株式会社」を設立。 |
*[[1918年]](大正7年) [[名古屋市]][[北区 (名古屋市)|北区]][[大曽根 (名古屋市)|大曽根]]に「川上絹布株式会社」を設立。 |
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*[[1924年]](大正13年) 川上児童劇団を結成( - [[1932年]])。 |
*[[1924年]](大正13年) 川上児童劇団を結成( - [[1932年]])。 |
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*[[1933年]](昭和8年) [[岐阜県]][[各務原市]][[鵜沼町|鵜沼]]に[[貞照寺]]を建立し、入山。門前に別荘「[[萬松園]]」を建築。 |
*[[1933年]](昭和8年) [[岐阜県]][[各務原市]][[鵜沼町|鵜沼]]に[[貞照寺]]を建立し、入山。門前に別荘「[[萬松園]]」を建築。 |
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==生誕150年・没後75年== |
==生誕150年・没後75年== |
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川上貞奴の出身地[[日本橋]]では、日本橋オペラの歌劇「貞奴姫」が2021年12月10日日本橋劇場に於いて、[[文化庁]]「文化芸術活動の継続支援事業」の助成を受けて記念上演された<ref>[https://www.music-tel.com/NihonbashiOpera/archive/2021Sadayacco/2021_Sadayacco_program.pdf]日本橋オペラ2021歌劇「貞奴姫」プログラム</ref>。舞台設定は史実に基づき、第1幕:1885年 |
川上貞奴の出身地[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]では、[[日本橋オペラ]]の歌劇「貞奴姫」が2021年12月10日日本橋劇場に於いて、[[文化庁]]「文化芸術活動の継続支援事業」の助成を受けて記念上演された<ref>[https://www.music-tel.com/NihonbashiOpera/archive/2021Sadayacco/2021_Sadayacco_program.pdf]日本橋オペラ2021歌劇「貞奴姫」プログラム</ref>。舞台設定は史実に基づき、第1幕:1885年11月3日[[天長節]]の[[鹿鳴館]]の夜会。第2幕:[[福沢諭吉]]が[[福澤桃介|岩崎桃介]]の将来のために貞奴に別れてくれと嘆願。第3幕:1900年パリ万博[[ロイ・フラー]]の館のパーティー。第3幕:1908年帝国女優養成所開所式。発起人代表の[[渋沢栄一]]の祝辞<ref>[https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK270125k_text]デジタル版『渋沢栄一伝記資料』</ref>と、貞奴の訪米の経験に基づく日本人女性の地位向上を願うご挨拶<ref>[https://www.futabakan.jp/newsletter/vol.32-1.pdf]ボストン・グローブ新聞(ゆたば便りvol.32)</ref>を再現。[[落語家]]の[[ヨネスケ]](桂米助)が貞奴の人生を語り、ヴェルディ作曲歌劇「[[椿姫 (オペラ)|椿姫]]」の名場面を融合させた斬新な構成であった。主催:日本橋オペラ研究会、指揮・構成:[[佐々木修 (指揮者)|佐々木 修]]、演出・貞奴役:福田祥子。 |
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==脚注== |
==脚注== |
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*井上理恵『川上音二郎と貞奴Ⅱ 世界を巡演する』社会評論社、2016年、ISBN 9784784511389 |
*井上理恵『川上音二郎と貞奴Ⅱ 世界を巡演する』社会評論社、2016年、ISBN 9784784511389 |
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*井上理恵『川上音二郎と貞奴Ⅲ ストレートプレイ登場する』社会評論社、2018年、ISBN 9784784511402 |
*井上理恵『川上音二郎と貞奴Ⅲ ストレートプレイ登場する』社会評論社、2018年、ISBN 9784784511402 |
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*森銑三著『明治人物夜話』332ページ、岩波文庫、2001年、 |
*森銑三著『明治人物夜話』332ページ、岩波文庫、2001年、ISBN 4-00-311533-3 |
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==外部リンク== |
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*[http://www.futabakan.jp/ 文化のみち二葉館 名古屋市旧川上貞奴邸] |
*[http://www.futabakan.jp/ 文化のみち二葉館 名古屋市旧川上貞奴邸] |
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*[http://www.inuyama-naritasan.or.jp/teisyouji/teisyouji-mein.html 成田山貞照寺(川上貞奴が建立した寺院)] |
*[http://www.inuyama-naritasan.or.jp/teisyouji/teisyouji-mein.html 成田山貞照寺(川上貞奴が建立した寺院)] |
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2024年6月6日 (木) 16:04時点における最新版
かわかみ さだやっこ 川上 貞奴 | |||||
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本名 |
川上 貞(かわかみ さだ) 旧姓:小山 | ||||
別名義 | 小山 貞 | ||||
生年月日 | 1871年9月2日 | ||||
没年月日 | 1946年12月7日(75歳没) | ||||
出生地 | 東京府日本橋 | ||||
死没地 | 静岡県熱海市 | ||||
国籍 |
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民族 | 日本人 | ||||
職業 | 女優 | ||||
ジャンル | 舞台 | ||||
活動期間 | 1899年 - 1917年 | ||||
配偶者 | 川上音二郎 | ||||
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備考 | |||||
日本初の女優 |
生涯[編集]
東京・日本橋の両替商・越後屋の12番目の子供として誕生。生家の没落により、7歳の時に芳町の芸妓置屋﹁濱田屋﹂の女将、可免吉の養女となる[1]。伝統ある﹁奴﹂名をもらい﹁貞奴﹂を襲名。芸妓としてお座敷にあがる。日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった貞奴は﹁時の総理伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となった﹂と当人や周囲は自慢していたようだが、西園寺公望は若い頃から知っているとした上で、福澤桃介と一緒に貞奴がついてきた話をして、貞奴を酷評している。﹁皺だらけの顔に白粉を塗って、まるで生湯葉にパン粉を振りかけたようだった。それでいつぞや皺を伸ばす薬は無いかと誰かに言ったそうだ。あんな鉄面皮は普通の工場ではダメだ、よほど高い熱で無ければ鍛え直すことも出来まい﹂と﹃園公秘話﹄でとても贔屓にしていたとは思えない言葉を残している。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/32/Sadayakko_Kawakami_stage_dress.jpg/200px-Sadayakko_Kawakami_stage_dress.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/dd/Sadayakko.jpg/200px-Sadayakko.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/71/1901_Max_Slevogt_Sada_Yakko.jpg/160px-1901_Max_Slevogt_Sada_Yakko.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/20/Sadayakko_Kawakami_and_Tosuke_Fukuzawa.jpg/200px-Sadayakko_Kawakami_and_Tosuke_Fukuzawa.jpg)
年表[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/69/Sadayakko_and_Otojiro_Kawakami.jpg/200px-Sadayakko_and_Otojiro_Kawakami.jpg)
生誕150年・没後75年[編集]
川上貞奴の出身地日本橋では、日本橋オペラの歌劇﹁貞奴姫﹂が2021年12月10日日本橋劇場に於いて、文化庁﹁文化芸術活動の継続支援事業﹂の助成を受けて記念上演された[6]。舞台設定は史実に基づき、第1幕‥1885年11月3日天長節の鹿鳴館の夜会。第2幕‥福沢諭吉が岩崎桃介の将来のために貞奴に別れてくれと嘆願。第3幕‥1900年パリ万博ロイ・フラーの館のパーティー。第3幕‥1908年帝国女優養成所開所式。発起人代表の渋沢栄一の祝辞[7]と、貞奴の訪米の経験に基づく日本人女性の地位向上を願うご挨拶[8]を再現。落語家のヨネスケ︵桂米助︶が貞奴の人生を語り、ヴェルディ作曲歌劇﹁椿姫﹂の名場面を融合させた斬新な構成であった。主催‥日本橋オペラ研究会、指揮・構成‥佐々木 修、演出・貞奴役‥福田祥子。脚注[編集]
(一)^ レズリー・ダウナー︵木村英明訳︶ ﹃マダム貞奴―世界に舞った芸者﹄ 集英社、2007年、ISBN 4087734587 (二)^ 帝国女優養成所︵読み︶ていこくじょゆうようせいじょコトバンク (三)^ 26部屋に貞奴の意匠 各務原・萬松園を重文指定へ﹃中日新聞﹄2018年5月19日︵2018年5月21日閲覧︶。 (四)^ 清水晴風著﹃東京名物百人一首﹄明治40年8月﹁新派女優の川上貞奴 ﹂国立国会図書館蔵書、2018年2月19日閲覧 (五)^ レズリー・ダウナー︵木村英明訳︶ ﹃マダム貞奴―世界に舞った芸者﹄P.279 集英社、2007年、ISBN 4087734587 (六)^ [1]日本橋オペラ2021歌劇﹁貞奴姫﹂プログラム (七)^ [2]デジタル版﹃渋沢栄一伝記資料﹄ (八)^ [3]ボストン・グローブ新聞︵ゆたば便りvol.32︶関連書籍[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3b/Hutabahouse.jpg/200px-Hutabahouse.jpg)
関連項目[編集]
●貞照寺 ●萬松園 ●玄冶店 濱田家 元、貞奴のいた置屋。現在は料亭。 ●夜明けの序曲 ●春の波涛 ●恐れを知らぬ川上音二郎一座外部リンク[編集]
- 文化のみち二葉館 名古屋市旧川上貞奴邸
- 成田山貞照寺(川上貞奴が建立した寺院)
- 貞照寺 - 各務原市観光協会
- 日本現代舞踊の原点(3) 村上裕徳
- 川上 貞奴 - 劇団新派 歴代の名優