川上音二郎
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川上 音二郎 | |
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誕生日 | 1864年2月8日 |
出生地 |
筑前国博多中対馬小路 (現・福岡県福岡市博多区) |
死没年 | 1911年11月11日 |
死没地 | 大阪府大阪市 |
国籍 | 日本 |
運動・動向 | 新派 |
芸術分野 | 芝居・落語家・講談師 |
教育 |
慶應義塾 (現・慶應義塾大学) |
受賞 | オフシェー・ド・アカデミー三等勲章 |
川上 音二郎︵かわかみ おとじろう、1864年2月8日︵文久4年1月1日︶ - 1911年11月11日︶は、筑前黒田藩︵福岡藩︶出身の﹁オッペケペー節﹂で一世を風靡した興行師・芸術家、新派劇の創始者。川上の始めた書生芝居、壮士芝居はやがて新派となり、旧劇︵歌舞伎︶をしのぐ人気を博した。﹁新派劇の父﹂と称される。
幼名は川上 音吉︵かわかみ おときち︶。上方噺家としての名跡は浮世亭 ◯◯︵うきよてい まるまる︶。号は歎水。
川上音二郎︵右︶、妻・貞奴と
経歴
生い立ち
1864年︵文久4年︶、筑前国博多中対馬小路町、現在の福岡市博多区対馬小路に生まれた。福岡藩主黒田氏の郷士及び豪商・川上専蔵の子。論語や孟子を学び、旧制福岡中学校の前身に進学するが、継母と折り合いが悪く、1878年︵明治11年︶、家を飛び出し大阪へ密航。見つかるが出奔し東京へ行った。 無銭飲食で追われつつ江戸にたどり着き、口入れ屋・﹁桂庵﹂の奉公人に転がり込むが長続きせず、吉原遊廓などを転々とする。 増上寺の小僧をしていた時に、毎朝寺に散歩に来る福澤諭吉と出会い、慶應義塾の学僕︵雑用を手伝いながら勉強する生徒︶・書生として慶應義塾に学び[1]、一時は警視庁巡査となる。しかし長続きせず、反政府の自由党の壮士となった。1883年︵明治16年︶には立憲帝政党員となる。また、旧福岡藩士を中心にした玄洋社の結成に参加。オッペケペー節
1883年頃から、﹁自由童子﹂と名乗り、大阪を中心に政府攻撃の演説、新聞発行などの運動を行って度々検挙された。1885年に講談師の鑑札を取得。自由民権運動の弾圧が激しさを増した1887年︵明治20年︶には﹁改良演劇﹂と銘打ち、一座を率いて興行を行った。また、落語家の桂文之助︵後の二代目曽呂利新左衛門︶に入門、浮世亭◯◯︵うきよてい まるまる︶[2]と名乗った。やがて世情を風刺した﹃オッペケペー節﹄︵三代目桂藤兵衛作︶を寄席で歌い、1889年︵明治22年︶から1894・95年︵明治27・28年︶の日清戦争時に最高潮を迎えての大評判となる。 川上一座は書生や壮士ら素人を集めたもので、書生芝居、壮士芝居と呼ばれた。1891年︵明治24年︶2月、書生芝居を堺市の卯の日座で旗揚げ。同年、東京の中村座で﹁板垣君遭難実記﹂などを上演。東京でもオッペケペー節が大流行した。川上は1893年、フランスへ渡り、2か月ほどの短い間だがパリの演劇事情を視察した。 1894年、郷土の先輩である金子堅太郎の媒酌で、人気芸者の貞奴︵本名‥小山 貞︶と結婚した。 伊藤博文が貞奴をひいきにしており、伊藤博文の三羽カラスといわれた金子堅太郎に媒酌の役目が回ってきたとも。戦争劇・新派劇
1894年、日清戦争が始まると、いち早く戦争劇﹁壮絶快絶日清戦争﹂を仕立てた。続いて川上は朝鮮半島に渡って戦地の状況を実見し、それをもとに﹁川上音二郎戦地見聞日記﹂を上演。これらの戦争劇は大評判となった。翌1895年、歌舞伎座の舞台で﹁威海衛陥落﹂を上演した。歌舞伎の殿堂に素人あがりの役者が出るのは異例のことであり、劇通の人々を驚かせた︵市川團十郎は、川上が歌舞伎座の桧舞台を踏んだことに激怒し、舞台を削り直させたと言われる︶。同年末には、泉鏡花の小説を舞台化した﹁滝の白糸﹂を浅草座で上演。この作品は新派劇の代表的な演目になった。1896年︵明治29年︶ 東京市神田区に川上座を開場した。 1898年︵明治31年︶3月と8月、第5回総選挙と第6回総選挙に出馬し、ともに落選。資金繰りの為に川上座を手放し、妻・姪とともに下田市からいかだで当ても無く漂流し、結局は下田へ戻る。海外興行・翻訳劇
1899年︵明治32年︶、渡米して現地で興行を行う。このとき、妻・貞奴が舞台に立つことになった。シカゴ[3]やボストン[4]、サンフランシスコなどで甚五郎や道成寺などを披露し、東洋の珍しい演劇として話題を集めた。ニューヨークでは、アルフォンス・ドーデ原作の﹃サッフォー﹄を日本版に翻案した芝居も演じた。これは、近くの劇場でイギリスの女優オルガ・ネザソール︵Olga Nethersole︶が﹃サッフォー﹄(en)を演じたところ、猥褻を理由にニューヨーク悪徳弾圧協会やニューヨーク母親クラブなどから非難を受け、逮捕されるという事件[5]が起こったことを受け、この騒ぎを利用して話題を集めるために音二郎が急遽一晩で作り上げたもの。ネザソール版と逆に純愛話に仕立てたところ、ネザソールを弾圧した人々から賞賛を受け、それまで3日かかったのと同じ数のチケットが1日で売れた。貞奴は貴婦人協会に招かれ、女優クラブの名誉会員に選ばれた[6]。 1900年︵明治33年︶には、日本通で知られるロンドンのアーサー・ディオシーの歓迎を受け、彼の友人の舞踏家ロイ・フラーや女優サラ・ベルナールに紹介され[7]、フラーの支援を受けて パリ万博で公演し、米国興行に続いて人気を博した。翌年、いったん帰国したあと、再びヨーロッパに渡り、1902年に帰国した。欧米巡業中、1902年︵明治35年︶11月1日に大日本帝国の俳優として初めて勲章を授与される。フランス大統領エミール・ルーベより官邸のエリゼ宮殿にて、オフシェー・ド・アカデミー三等勲章︵現・芸術文化勲章︶を授与。オフシェー叙勲、外国人に贈られる最高章を授章した。 1903年以降、﹃オセロ﹄﹃ハムレット﹄﹃ヴェニスの商人﹄など翻訳劇を積極的に上演し、メロドラマ中心になった他の新派劇と一線を画そうとした。 1908年︵明治41年︶興行師として成功し、現在の大阪市中央区北浜四丁目に洋風の劇場・帝国座を開場する。同時に帝国女優養成所を創設。 1911年︵明治44年︶、急性腹膜炎により11月4日から昏睡状態となり、11月11日に貞奴の願いにより運ばれた帝国座の舞台上で死去[8][9]。享年48。﹁汽車が眺められるところに﹂という音二郎の遺言により、当時博多駅が近くにあった承天寺に葬られる。家族
子供はなかったが、姪のツルを子供のようにかわいがった。アメリカ興行にも連れていったが、金銭困窮から現地の日本人に養女に出す。青木鶴子と改名し、女優になり、早川雪洲と結婚した[10]。弟子
●川上秋月 - 音二郎と同じ元新派の俳優で、川上元次郎と名乗った。後に寄席に出て﹁新講話﹂と名付けた、客から借りた品物をお題にした噺をつとめることを生業にした。 ●梅島昇 - 最後の弟子と伝わる、新派二枚目俳優。死後
脚注
- ^ なにわ人物伝 -光彩を放つ-川上 音二郎 ―かわかみ おとじろう―
- ^ 鑑札はにわか師として取られた事が倉田喜弘の調査で判明している
- ^ JAPANESE ACTORS IN CHICAGO The New York Times October 15, 1899
- ^ JAPANESE PLAYS IN BOSTONThe New York Times December 06, 1899
- ^ The Sapho Affair [リンク切れ]American Experience
- ^ 『自伝・音二郎貞奴』三一書房
- ^ 長岡祥三「日本協会の創立者アーサー・ディオシー」(PDF)『英学史研究』第29号、1996年、2016年3月3日閲覧。
- ^ 川上音二郎没す 明治44年11月12日東京朝日新聞『新聞集成明治編年史. 第十四卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)97頁
- ^ 対談「川上音二郎」地方史研究家・柳猛直 昭和56年3月
- ^ 美術館について 茅ヶ崎市美術館