後藤末雄
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後藤 末雄︵ごとう すえお、1886年10月25日 - 1967年11月10日︶は、作家、フランス文学者、比較文学・比較思想史研究者。
東京にて後藤五郎の六男に生まれる[1]。﹁金座の後藤﹂と称された工芸の旧家に生まれ、幼くして母を失う。浅草橋の小学校に通い、同級生には木村荘太や桜間弓川がいた[2]。府立三中、一高を経て、東京帝国大学英文科在学中、和辻哲郎、谷崎潤一郎、木村荘太らと第2次﹃新思潮﹄の創刊に参加し、小説家として出発する。1913年、東大仏文科を卒業し、陸軍士官学校の教師となる[1]。華々しくデビューした谷崎に対し、他の同人が創作から脱落していく中で、森鷗外らの愛顧を得て創作を続けるが、大正5年︵1916年︶、﹁女の哀話﹂もの小説を﹁遊蕩文学﹂として赤木桁平に攻撃され、なおも創作を続けた。
大正6-7年︵1917-18年︶には、ロマン・ロランの代表作﹃ジャン・クリストフ﹄を初訳刊行した、だが同時期に創作の筆を絶ち、1920年、永井荷風の世話で慶應義塾の教員となり、のち慶應義塾大学教授。立教大学教授も兼任[1]。昭和8年︵1933年︶、博士論文﹃支那思想のフランス西漸﹄を刊行し、儒教のフランス近代思想への影響を解明して、比較思想史の先駆的研究となった。
妻の芳子︵1900年生︶は東京女子高等師範学校附属高女出身、子に後藤剏︵1923年生︶[1]。