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[[1933年]]︵[[昭和]]8年︶竣工。[[第二次世界大戦|戦時中]]の[[東京大空襲|空襲]]による被災や、終戦後の[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]]による接収も免れ、半世紀近くにわたって日本[[興行]]界を代表する[[象徴]]のひとつとして存在した。
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[[1933年]]︵[[昭和]]8年︶竣工。[[第二次世界大戦|戦時中]]の[[東京大空襲|空襲]]による被災や、終戦後の[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]]による接収も免れ、半世紀近くにわたって日本[[興行]]界を代表する[[象徴]]のひとつとして存在した。
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[[1981年]](昭和56年)隣接する[[朝日新聞東京本社]]と共に解体され、跡地に[[有楽町センタービル|有楽町センタービル(有楽町マリオン)]]が建てられた。「日劇」の名称はマリオン内に設けられた映画館に引き継がれたが、2018年2月4日をもって営業を終了した。 |
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{{main|TOHOシネマズ日劇}} |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[ファイル:Nichigeki-1952.jpg|thumb|300px|right|1952年当時の日本劇場]] |
[[ファイル:Nichigeki-1952.jpg|thumb|300px|right|1952年当時の日本劇場]] |
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日劇は当初、「陸の龍宮」「シネマパレス」といった構想のもと、収容客数4000人の大劇場、ならびに |
日劇は当初、「陸の龍宮」「シネマパレス」といった構想のもと、収容客数4000人の大劇場、ならびに日本初の高級映画劇場として計画された。屈曲した外壁、広大な舞台、[[アール・デコ|アールデコ調]]の内装など、当時としては斬新かつ画期的な建築要素をふんだんに取り入れ、[[渡辺仁]]設計、[[大林組]]施工により、1933年に竣工、同年12月24日に開場披露式が盛大に挙行された。 |
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[[File:Nichigeki Nippon Theater 1964.jpg|thumb|300px|right|「夏のおどり」上演時の日劇(1964年撮影)]] |
[[File:Nichigeki Nippon Theater 1964.jpg|thumb|300px|right|「夏のおどり」上演時の日劇(1964年撮影)]] |
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東宝への経営移管後は、東宝系の基幹劇場(チェーンマスター)の一つとして機能し、終戦後も占領軍へは[[東京宝塚劇場]]を提供することで接収を免れる。 |
東宝への経営移管後は、東宝系の基幹劇場(チェーンマスター)の一つとして機能し、終戦後も占領軍へは[[東京宝塚劇場]]を提供することで接収を免れる。 |
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戦後は東宝映画と実演の二本立て興行を行い、特に実演は[[日劇ダンシングチーム]] |
戦後は東宝映画と実演の二本立て興行を行い、特に実演は[[日劇ダンシングチーム]]の[[レヴュー]]と人気歌手のショーが注目を浴びた。昭和30年代は[[ロカビリー]]旋風に乗り、「[[日劇ウエスタンカーニバル|ウエスタン・カーニバル]]」は大盛況となった。 |
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[[1953年]][[12月]]と[[1960年]]には |
[[1953年]][[12月]]と[[1960年]]には﹃[[NHK紅白歌合戦]]﹄も開催された。また1970年代には[[テレビ朝日|NETテレビ]]﹃[[全日本歌謡音楽祭|あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭輝け!ゴールデングランプリ]]﹄発表会の会場としても使用された。さらに[[1978年]]・[[1979年]]の﹁年末ジャンボ宝くじ﹂の抽せん会の会場としても使用された。
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しかし戦前建築のため老朽化が進み、音響設備や舞台装置も時代にそぐわないものとなっていったため、[[1981年]]2月15日を最後に閉鎖、隣接する[[朝日新聞東京本社]]と共に解体され、跡地に[[有楽町センタービル|有楽町センタービル︵有楽町マリオン︶]]が建てられた。﹁日劇﹂の名称および劇場としての歴史は[[TOHOシネマズ日劇]]などへ受け継がれていたが、こちらも2018年2月4日をもって営業を終了した。
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== 日劇ダンシングチーム== |
== 日劇ダンシングチーム== |
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== 歌謡ショー == |
== 歌謡ショー == |
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*[[1960年代]]後半頃までは、日劇の舞台に立つことが、一流芸能人の証となる憧れの地でもあった。 |
*[[1960年代]]後半頃までは、日劇の舞台に立つことが、一流芸能人の証となる憧れの地でもあった。 |
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*基本的には一日3回公演を数日~一週間程度行うというものであり、必ずと言っていいほど |
*基本的には一日3回公演を数日~一週間程度行うというものであり、必ずと言っていいほど日劇ダンシングチームのダンサーが出演し、それ以外のダンサーは出演を禁じられていた。 |
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*しかし世間が騒ぐほど舞台の質は決して高くなく、あくまでも |
*しかし世間が騒ぐほど舞台の質は決して高くなく、あくまでもダンシングチーム公演の合間を埋めるための役割であったため、違う曲なのに同じ振り付けを使い廻ししたりと、ずさんな面が目立った。 |
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*[[1980年]]3月以降は歌謡ショーを打ち切り、 |
*[[1980年]]3月以降は歌謡ショーを打ち切り、映画上映専門となった。 |
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== 沿革 == |
== 沿革 == |
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*1962年4月20日 - 日劇ニュース劇場が日劇文化劇場と名称を変更する。 |
*1962年4月20日 - 日劇ニュース劇場が日劇文化劇場と名称を変更する。 |
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*1977年2月12日 - 地下中一階のサロン﹁あるびよん﹂から出火。床を焼いただけで済んだが3000人が避難する騒ぎとなった<ref>冷静な誘導、惨事防ぐ 三千人が無事脱出﹃朝日新聞﹄1977年︵昭和52年︶2月13日、13版、23面</ref>。
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*1977年2月12日 - 地下中一階のサロン﹁あるびよん﹂から出火。床を焼いただけで済んだが3000人が避難する騒ぎとなった<ref>冷静な誘導、惨事防ぐ 三千人が無事脱出﹃朝日新聞﹄1977年︵昭和52年︶2月13日、13版、23面</ref>。
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*1978年6月24日 - 映画『 |
*1978年6月24日 - 映画『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]]』が封切。 |
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*1981年2月15日 - 施設の老朽化と東京都の再開発事業により閉館。この日に合わせ、「サヨナラ日劇フェスティバル」が同年1月28日から開催される。 |
*1981年2月15日 - 施設の老朽化と東京都の再開発事業により閉館。この日に合わせ、「サヨナラ日劇フェスティバル」が同年1月28日から開催される。 |
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*1984年10月6日 - 有楽町センタービル(有楽町マリオン)オープン。<!-- |
*1984年10月6日 - 有楽町センタービル(有楽町マリオン)オープン。<!-- |
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* 地階は劇場内部からも行けたが、1階正面玄関の外側にも地階へ行く階段があった。 |
* 地階は劇場内部からも行けたが、1階正面玄関の外側にも地階へ行く階段があった。 |
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* 客席は3階席まであり、1階1060席、2階540席、3階463席の計2063席。両壁際にはロイヤルボックスと呼ばれたボックス席が10個︵2階6個、3階4個︶あり、2階席前3列とともに日劇唯一の指定席となっていた。立ち見の客を最大限入れた状態で﹁4000人劇場﹂と呼んだ。
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* 客席は3階席まであり、1階1060席、2階540席、3階463席の計2063席。両壁際にはロイヤルボックスと呼ばれたボックス席が10個︵2階6個、3階4個︶あり、2階席前3列とともに日劇唯一の指定席となっていた。立ち見の客を最大限入れた状態で﹁4000人劇場﹂と呼んだ。
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* もともと映画館として建設されたため、舞台の奥行きは狭く、 |
* もともと映画館として建設されたため、舞台の奥行きは狭く、回り舞台も無く、使用していた大階段もかなり急なものとなっていた。設備としては、わずかな[[迫り]]と{{仮リンク|オーケストラピット|en|Orchestra pit}}があった。 |
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* 開場当時、劇場内外部は[[ステンドグラス]]、[[大理石]]、さまざまなデザインの[[レリーフ]]などで豪華絢爛に彩られて人々の目を驚かせたが、1960年︵昭和35年︶に大改装。しかし、解体時に長年の改装で覆われた[[ベニヤ板]]を剥がしたところ、正面ホールの壁から[[ギリシャ神話]]をモチーフとした陶器モザイクの壁画が現れた。これは[[川島理一郎]]による作品で﹁ |
* 開場当時、劇場内外部は[[ステンドグラス]]、[[大理石]]、さまざまなデザインの[[レリーフ]]などで豪華絢爛に彩られて人々の目を驚かせたが、1960年︵昭和35年︶に大改装。しかし、解体時に長年の改装で覆われた[[ベニヤ板]]を剥がしたところ、正面ホールの壁から[[ギリシャ神話]]をモチーフとした陶器モザイクの壁画が現れた。これは[[川島理一郎]]による作品で﹁平和﹂﹁戦争﹂﹁舞踊﹂﹁音楽﹂の4テーマに分かれていた。この壁画がベニヤ板で覆われてしまったのは、1958年︵昭和33年︶のこと。理由はタイアップ商品をホールで販売する計画があり、背景としてはこの壁画はあまりにも芸術的過ぎて、そぐわないというものであった。こうして23年ぶりに発見され新聞などでも話題となった。記念として有楽町マリオンに残そうという話があったが、壁画は[[モルタル]]で固められているうえに、背後は上層階を支える大柱があったため、難工事になると考えられた。そのため保存されることは叶わず、そのまま建物の廃材とともに廃棄されてしまった。
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* 古い[[設備]]であったこと、あとから無理やり付け足した[[スピーカー]]であったため、[[音響]][[効果]]はあまりよくなかった。 |
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== 丸の内東宝劇場 == |
== 丸の内東宝劇場 == |
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| [[1978年の日本公開映画|1978年]] || 「[[ルパン三世 ルパンVS複製人間]]」 |
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2021年6月15日 (火) 10:27時点における版
日本劇場 Nihon Gekijo | |
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開業当時の日劇(昭和8年) | |
情報 | |
通称 | 日劇 |
正式名称 | 日本劇場 |
完成 | 1933年 |
開館 | 1933年12月24日 |
閉館 | 1981年2月15日 |
最終公演 | サヨナラ日劇フェスティバル |
収容人員 | 約4,000人 |
客席数 |
1階:1,060 2階:540 3階:463 |
用途 | ミュージカル、演劇、映画上映 |
運営 | 東宝株式会社 |
所在地 |
〒100 東京都千代田区有楽町二丁目5番1号 |
概要
日劇ダンシングチーム
歌謡ショー
●1960年代後半頃までは、日劇の舞台に立つことが、一流芸能人の証となる憧れの地でもあった。 ●基本的には一日3回公演を数日~一週間程度行うというものであり、必ずと言っていいほど日劇ダンシングチームのダンサーが出演し、それ以外のダンサーは出演を禁じられていた。 ●しかし世間が騒ぐほど舞台の質は決して高くなく、あくまでもダンシングチーム公演の合間を埋めるための役割であったため、違う曲なのに同じ振り付けを使い廻ししたりと、ずさんな面が目立った。 ●1980年3月以降は歌謡ショーを打ち切り、映画上映専門となった。沿革
構造
●設計は渡辺仁、施工は大林組、解体は竹中工務店。地上7階、地下3階建。地下2階は一般客が入ることのできなかったNDTダンサー専用のレストラン、地下1階は当初東京會舘のランチルームや、理髪店が入居していた。戦後は映画館﹁丸の内東宝劇場﹂﹁日劇ニュース劇場︵後にATG専門館﹁日劇文化劇場﹂に改称︶﹂と居酒屋などが入居。1階は正面玄関と4階までの大劇場、2階有楽町側には内外どちらからも入れた喫茶﹁らせん﹂。4階は稽古場、2台の映写機が置かれた映写室、照明室、パブレストラン﹁チボリ﹂、明治の喫茶店。5階は日劇ミュージックホールがあった小劇場。屋上は取材の場所としてよく使われた。 ●地階は劇場内部からも行けたが、1階正面玄関の外側にも地階へ行く階段があった。 ●客席は3階席まであり、1階1060席、2階540席、3階463席の計2063席。両壁際にはロイヤルボックスと呼ばれたボックス席が10個︵2階6個、3階4個︶あり、2階席前3列とともに日劇唯一の指定席となっていた。立ち見の客を最大限入れた状態で﹁4000人劇場﹂と呼んだ。 ●もともと映画館として建設されたため、舞台の奥行きは狭く、回り舞台も無く、使用していた大階段もかなり急なものとなっていた。設備としては、わずかな迫りとオーケストラピットがあった。 ●開場当時、劇場内外部はステンドグラス、大理石、さまざまなデザインのレリーフなどで豪華絢爛に彩られて人々の目を驚かせたが、1960年︵昭和35年︶に大改装。しかし、解体時に長年の改装で覆われたベニヤ板を剥がしたところ、正面ホールの壁からギリシャ神話をモチーフとした陶器モザイクの壁画が現れた。これは川島理一郎による作品で﹁平和﹂﹁戦争﹂﹁舞踊﹂﹁音楽﹂の4テーマに分かれていた。この壁画がベニヤ板で覆われてしまったのは、1958年︵昭和33年︶のこと。理由はタイアップ商品をホールで販売する計画があり、背景としてはこの壁画はあまりにも芸術的過ぎて、そぐわないというものであった。こうして23年ぶりに発見され新聞などでも話題となった。記念として有楽町マリオンに残そうという話があったが、壁画はモルタルで固められているうえに、背後は上層階を支える大柱があったため、難工事になると考えられた。そのため保存されることは叶わず、そのまま建物の廃材とともに廃棄されてしまった。 ●完成当初から最盛期はファサードも華麗に発光されていたが、閉館間際になると取り止め、あちこちの壁に広告が掲げられ、完成当初の美しさは失われつつあった︵前述の改装時には、前面最上部を取り囲むように東芝のネオンサインが取り付けられ、閉館時まで作り替えられながら存在した︶。また1960年代以降は観客動員数が減少傾向にあったため、その補填としてファーストフード店やディスカウントショップ、喫茶店、雀荘など40近くのテナントが入居するなど、著しく雑居ビル化が進んでいた。丸の内東宝劇場
公開年 | タイトル |
1976年 | 「グリズリー」 |
1978年 | 「ルパン三世 ルパンVS複製人間」 |
1980年 | 「がんばれ!! タブチくん!! ああツッパリ人生」 |
日劇文化劇場
脚注
注釈・出典
参考文献
- 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行