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本多 康慶︵ほんだ やすよし︶は、近江膳所藩の第4代藩主。康俊系本多家宗家4代。
生涯
正保4年︵1647年︶、伊勢亀山藩主・本多俊次の長男・本多康長の子として亀山で生まれる。父の康長は嫡子だったが、万治元年︵1658年︶に早世した。このため、万治2年︵1659年︶12月、父に代わって嫡子となった叔父︵後の第3代藩主︶・本多康将の婿養子となる。寛文4年︵1664年︶12月28日、従五位下・隠岐守に叙位・任官する。延宝7年︵1679年︶6月18日に康将の隠居により、家督を継いで第4代藩主となる。このとき、康将の次男である忠恒に1万石を分与し、支藩として河内西代藩を立藩させた。
正徳4年︵1714年︶3月4日、長男の康命に家督を譲って隠居する。享保3年︵1718年︶11月10日、大津で死去した。享年72。
﹃土芥寇讎記﹄の養子の康慶の項目に拠れば、﹁養父︵康将︶は美女を集めて酒宴・乱舞・三味線・琴を催し、淫乱に溺れ昼夜を分けず、弊をなし奢り極め﹂ているとされ、またその費用を領民に課した為﹁下の困窮を知らず﹂と述されている。その養父と比較し﹁養父よりはマシ﹂とされているが決して高評価はされていない。一方また同書では﹁三代︵俊次か?-康将-康慶︶並びて愚将たる事、前代未聞なり﹂と記述されている。
系譜
父母
●本多康長︵実父︶
●本多康将︵養父︶
正室
●本多康将の娘
子女
●本多康命︵長男︶生母は正室
●本多康敏︵五男︶
●牧野忠寿︵六男︶生母は清涼院︵側室︶[要出典]
●本多康文︵七男︶
●相馬尊胤正室
●青山幸秀正室
●本多康文正室
本多氏 膳所藩4代藩主 (1679年 - 1714年) |
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