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[[江戸]]に生まれる。生家は幕府小普請方の大工の棟梁であった。[[市河寛斎]]の江湖詩社に参加し、1793年(寛政5年)、最初の詩集『木工集』を刊行し、性霊派の新進詩人として知られるようになった。翌年、家督を一族のものに譲り、棟梁職を辞し、専業詩人として生きることになった。 |
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[[江戸]]に生まれる。生家は幕府小普請方の大工の棟梁であった。[[市河寛斎]]の江湖詩社に参加し、1793年(寛政5年)、最初の詩集『木工集』を刊行し、性霊派の新進詩人として知られるようになった。翌年、家督を一族のものに譲り、棟梁職を辞し、専業詩人として生きることになった。 |
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遊歴の詩人として生きる如亭は、まず[[信濃国]]中野([[長野県]][[中野市]])に居を定め「晩晴堂」と名づけ、晩晴吟社をひらき、近隣の人びとと詩作に励んだ。この間、[[越後国|越後]]を遊歴もしていた。 |
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遊歴の詩人として生きる如亭は、まず[[信濃国]]中野([[長野県]][[中野市]])に居を定め「晩晴堂」と名づけ、晩晴吟社をひらき、近隣の人びとと詩作に励んだ。この間、[[越後国|越後]]を遊歴もしていた。晩晴吟社の門人には木百年、高梨聖誕らがいる。 |
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1801年([[享和]]元年)、江戸にもどり、[[芝 (東京都港区)|芝]]に住む。その後、1807年([[文化 (元号)|文化]]4年)、西に向かい、京都をはじめ、備中庭瀬([[岡山市]])に滞在もした。京都では[[頼山陽]]や[[浦上春琴]]、[[小石元瑞]]らとの交友があり、また豊後竹田の[[田能村竹田]]とも交わった。 |
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1801年([[享和]]元年)、江戸にもどり、[[芝 (東京都港区)|芝]]に住む。その後、1807年([[文化 (元号)|文化]]4年)、西に向かい、京都をはじめ、備中庭瀬([[岡山市]])に滞在もした。京都では[[頼山陽]]や[[浦上春琴]]、[[小石元瑞]]らとの交友があり、また豊後竹田の[[田能村竹田]]とも交わった。 |
2020年7月11日 (土) 07:51時点における最新版
柏木 如亭︵かしわぎ じょてい、宝暦13年︵1763年︶ - 文政2年7月10日︵1819年8月30日︶︶は、江戸時代の漢詩人である。
はじめ、名は謙、字は益夫、通称は門作といった。のち、名は昶、字は永日とあらためる。号ははじめ舒亭と名乗り、後に如亭とする。
江戸に生まれる。生家は幕府小普請方の大工の棟梁であった。市河寛斎の江湖詩社に参加し、1793年︵寛政5年︶、最初の詩集﹃木工集﹄を刊行し、性霊派の新進詩人として知られるようになった。翌年、家督を一族のものに譲り、棟梁職を辞し、専業詩人として生きることになった。
遊歴の詩人として生きる如亭は、まず信濃国中野︵長野県中野市︶に居を定め﹁晩晴堂﹂と名づけ、晩晴吟社をひらき、近隣の人びとと詩作に励んだ。この間、越後を遊歴もしていた。晩晴吟社の門人には木百年、高梨聖誕らがいる。
1801年︵享和元年︶、江戸にもどり、芝に住む。その後、1807年︵文化4年︶、西に向かい、京都をはじめ、備中庭瀬︵岡山市︶に滞在もした。京都では頼山陽や浦上春琴、小石元瑞らとの交友があり、また豊後竹田の田能村竹田とも交わった。
1814年︵文化11年︶ふたたび江戸にもどり、大窪詩仏のところに寄寓する。しかし、江戸の詩風は如亭にあわず、ふたたび遊歴の旅に出ることになる。信越各地をまわり、1818年︵文化15年︶、京都に帰ってきたのであった。東山黒谷に紫雲山居を構え、いちおうの根拠地としたが、生活のためには、各地を巡歴し、潤筆料をかせぐこととなった。その間、年少の梁川星巌と交流をし、みずからの死後には遺稿の出版も頼んでいる。
持病の水腫が悪化し、文政2年︵1819年︶7月10日に京都で没した。
没後、星巌は、約束を果たし、﹃如亭山人遺稿﹄、﹃詩本草﹄を刊行し、如亭の業績を後世に伝えるために尽力した。
- 『日本漢詩人選集8 柏木如亭』 入谷仙介訳著、研文出版、1999年
- 『遊人の抒情 柏木如亭』 揖斐高、岩波書店、2000年
- 『詩本草』 揖斐高校注・解説、岩波文庫、2006年
- 『訳注 聯珠詩格』 揖斐高校注・解説、岩波文庫、2008年
- 『柏木如亭詩集』 揖斐高訳注・解説、平凡社東洋文庫(全2巻)、2017年