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「柏木如亭」の版間の差分

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[[江戸]]に生まれる。生家は幕府小普請方の大工の棟梁であった。[[市河寛斎]]の江湖詩社に参加し、1793年(寛政5年)、最初の詩集『木工集』を刊行し、性霊派の新進詩人として知られるようになった。翌年、家督を一族のものに譲り、棟梁職を辞し、専業詩人として生きることになった。

[[江戸]]に生まれる。生家は幕府小普請方の大工の棟梁であった。[[市河寛斎]]の江湖詩社に参加し、1793年(寛政5年)、最初の詩集『木工集』を刊行し、性霊派の新進詩人として知られるようになった。翌年、家督を一族のものに譲り、棟梁職を辞し、専業詩人として生きることになった。



遊歴の詩人として生きる如亭は、まず[[信濃国]]中野([[長野県]][[中野市]])に居を定め「晩晴堂」と名づけ、晩晴吟社をひらき、近隣の人びとと詩作に励んだ。この間、[[越後国|越後]]を遊歴もしていた。

遊歴の詩人として生きる如亭は、まず[[信濃国]]中野([[長野県]][[中野市]])に居を定め「晩晴堂」と名づけ、晩晴吟社をひらき、近隣の人びとと詩作に励んだ。この間、[[越後国|越後]]を遊歴もしていた。晩晴吟社の門人には木百年、高梨聖誕らがいる



1801年([[享和]]元年)、江戸にもどり、[[芝 (東京都港区)|芝]]に住む。その後、1807年([[文化 (元号)|文化]]4年)、西に向かい、京都をはじめ、備中庭瀬([[岡山市]])に滞在もした。京都では[[頼山陽]]や[[浦上春琴]]、[[小石元瑞]]らとの交友があり、また豊後竹田の[[田能村竹田]]とも交わった。

1801年([[享和]]元年)、江戸にもどり、[[芝 (東京都港区)|芝]]に住む。その後、1807年([[文化 (元号)|文化]]4年)、西に向かい、京都をはじめ、備中庭瀬([[岡山市]])に滞在もした。京都では[[頼山陽]]や[[浦上春琴]]、[[小石元瑞]]らとの交友があり、また豊後竹田の[[田能村竹田]]とも交わった。


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文献[編集]

  • 『日本漢詩人選集8 柏木如亭』 入谷仙介訳著、研文出版、1999年 
  • 『遊人の抒情 柏木如亭』 揖斐高岩波書店、2000年
  • 『詩本草』 揖斐高校注・解説、岩波文庫、2006年
  • 『訳注 聯珠詩格』 揖斐高校注・解説、岩波文庫、2008年
  • 『柏木如亭詩集』 揖斐高訳注・解説、平凡社東洋文庫(全2巻)、2017年