柏木義円
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柏木 義円︵かしわぎ ぎえん、万延元年3月9日︵1860年3月30日︶ - 昭和13年︵1938年︶1月8日︶は、日本の牧師・キリスト教思想家。山川均に影響を与えた。日本組合基督教会牧師。
生涯[編集]
1860年、越後国与板藩の真宗大谷派西光寺の住職の家に生まれる。1878年東京師範学校︵東京教育大学、筑波大学の前身︶を卒業した[1]。その後、群馬県碓氷郡土塩村︵現・安中市︶で小学校教員を務めていたときに新島襄の安中伝道に接し、同志社英学校に入学するも学費が続かず1年で中退した[2]。小学校教員に復職後、安中教会で海老名弾正に影響を受けて入信、海老名より洗礼を受ける。 1884年1月、同志社普通学校に再入学する。浮田和民とともに﹃同志社文学雑誌﹄の編集に携わり、井上円了の﹃仏教新論﹄を批判した[3]。1889年に卒業した後、同志社予備校、熊本英学校、熊本英語女学校の教職を務めた。1892年に熊本英学校事件が起こると10名の教師と共に熊本英学校を辞職し、同志社予備校に復職する。帝大教授井上哲次郎が﹃教育時論﹄でキリスト教を批判すると﹃同志社文学﹄第59号に﹁勅語と基督教﹂を掲載して反論した[4]。 1897年に日本組合基督教会安中教会牧師になる。大久保貞次郎とともに1898年11月より﹃上毛教界月報﹄を創刊し︵1936年12月まで。459号︶、安中で地域伝道と政治・社会批判運動を活発に展開した。 足尾鉱毒事件、廃娼運動、未解放部落問題、朝鮮人虐殺問題など時代批判を幅広く行った。さらに日露戦争や第一次世界大戦、満州事変、日本の国際連盟脱退をも強く批判し、﹁無戦世界の実現﹂を訴え続けた[5]。 ﹃上毛教界月報﹄1906年9月に﹁西園寺侯と教育勅語﹂を発表し、教育勅語の改正を主張した[6]。 1910年の日韓併合後の、日本組合基督教会による渡瀬常吉らの植民地伝道を批判した。1912年の内務省による三教会同を内村鑑三らと共に批判した。満州事変の際には軍部批判を行ったため月報が発禁処分になる。 1914年4月15日、﹃上毛教界月報﹄で、組合教会の同化主義的朝鮮人伝道方針を非難した。 1935年、安中教会牧師を引退する。晩年には新島襄の伝記執筆に取り組んだが未完成に終わった[7]。墓所は安中市西廣寺(安中市指定史跡)参考文献[編集]
- 飯沼二郎, 片野真佐子編・解説 『柏木義円日記』 行路社、1998年 ISBN 4-87534-308-6
- 片野真佐子 編・解説『柏木義円日記補遺』行路社、2001年 ISBN 4-87534-333-7
- 片野真佐子編・解説 『柏木義円書簡集』 行路社、2011年 ISBN 978-4875344285
- 片野真佐子編・解説 『柏木義円史料集』 行路社、2014年 ISBN 978-4875344476
- 中村敏 『日本キリスト教宣教史』 いのちのことば社、2009年 ISBN 978-4264027430
- 沖田行司編 『新編 同志社の思想家たち 下』 晃洋書房、2019年 ISBN 9784771031333
伝記[編集]
- 片野真佐子『柏木義円 徹底して弱さの上に立つ』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2023年 ISBN 978-4-623-09451-6