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'''梅田 雲浜'''︵うめだ うんぴん、[[文化 (元号)|文化]]12年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]] |
'''梅田 雲浜'''︵うめだ うんぴん、[[文化 (元号)|文化]]12年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]︿[[1815年]][[7月13日]]﹀- [[安政]]6年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]︿[[1859年]][[10月9日]]﹀︶は、[[江戸時代]]末期︵[[幕末]]︶の[[儒教|儒学者]]<ref name="onjoji"/>。通称は源次郎<ref name="nipponica">{{Cite Kotobank|word=梅田雲浜|author=井上勝生|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ) |access-date=2023-12-02}}</ref>。名は義質︵よしただ︶、のちに定明︵さだあきら︶<ref name="nipponica"/>。号は雲浜のほか、湖南、東塢がある<ref>{{Cite Kotobank|word=梅田雲浜|encyclopedia=デジタル版 日本人名大辞典+Plus|access-date=2023-12-02}}</ref>。
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== 生涯 == |
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文化12年6月7日︵1815年7月13日︶、[[小浜藩]]士・矢部義比の次男として誕生。雲浜の号は、[[若狭国]][[小浜市|小浜]]海岸からの由来で名づけたという。
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文化12年6月7日︵1815年7月13日︶、[[小浜藩]]士・矢部義比の次男として誕生<ref name="asahi">{{Cite Kotobank|word=梅田雲浜|author=三井美恵子|encyclopedia=朝日日本歴史人物事典 |access-date=2023-12-02}}</ref>。雲浜の号は、[[若狭国]][[小浜市|小浜]]海岸からの由来で名づけたという<ref name="asahi"/>。
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はじめ藩校・[[順造館]]に学ぶ。{{要出典範囲|[[天保]]元年︵[[1830年]]︶には|date=2023-12}}[[江戸]]に出て藩の儒学者・[[山口菅山]]から[[山崎闇斎|崎門学]]を学んだ<ref name="nipponica"/>。
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はじめ藩校・[[順造館]]、[[天保]]元年︵[[1830年]]︶には藩の儒学者・[[山口菅山]]から山崎[[闇斎学]]を学んだ。その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、[[大津市|大津]]に[[湖南塾]]を開いた。天保14年︵[[1843年]]︶には[[京都]]へ上京して藩の塾である望楠軒の講師となる。ところが、[[嘉永]]5年︵[[1852年]]︶に藩主・[[酒井忠義 (若狭国小浜藩主)|酒井忠義]]に建言したのが怒りに触れて藩籍を剥奪。嘉永6年︵[[1853年]]︶、[[アメリカ合衆国]]の[[マシュー・ペリー]]が来航すると条約反対と外国人排斥による[[攘夷]]運動を訴えて[[尊皇攘夷]]を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。これが時の[[大老]]・[[井伊直弼]]による[[安政の大獄]]で摘発され、2人目の逮捕者となった。
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その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ<ref name="nipponica"/>、[[大津市|大津]]に[[湖南塾]]を開いた<ref>{{Cite Kotobank|word=梅田雲浜|encyclopedia=百科事典マイペディア |access-date=2023-12-02}}</ref>。大津では同じ闇斎学派の[[上原立斎]]にも学び、立斎に見込まれてその娘・信︵[[上原しん|しん]]︶を娶っている<ref name="takashima">[https://www.lics-saas.nexs-service.jp/takashima/monoshiri/01/01_1_8.html ★上原立斎★] - [[高島市立図書館]]︵高島ものしり百科・先人たち︶</ref><ref name="onjoji">[http://www.shiga-miidera.or.jp/about/walk/139.htm 歴史散歩 その(2)神出] - [[園城寺]]︵三井寺、﹁車路。歴史の重みと貴人を乗せた牛車が行く﹂の箇所を参照︶</ref>。
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[[天保]]14年([[1843年]])、[[京都]]へ上り藩の塾となっていた[[若林強斎|望楠軒]]の講主に迎えられる<ref name="asahi"/>。 |
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ところが、[[嘉永]]5年︵[[1852年]]︶海防の強化を建言したことが藩主・[[酒井忠義 (小浜藩主)|酒井忠義]]の怒りに触れ[[武士|藩籍]]を剥奪されてしまう。﹁君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり﹂という和歌は、この時期に詠んだとされる<ref name="asahi"/>。嘉永6年︵[[1853年]]︶、[[アメリカ合衆国]]の[[マシュー・ペリー]]が来航すると条約反対と外国人排斥による[[攘夷]]運動を訴えて[[尊皇攘夷]]を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。やがて安政5年︵[[1858年]]︶、[[日米修好通商条約]]への朝廷の[[勅許]]拒否・その後の[[戊午の密勅]]等一連の事案が発生すると、首謀者と目された雲浜は京中の邸にて、[[大老]]・[[井伊直弼]]による[[安政の大獄]]で最初の捕縛者となった<ref name="nipponica"/>。この間、安政2年に[[梅田千代|千代]]と結婚している<ref>{{Cite Kotobank|word=梅田千代|encyclopedia=デジタル版 日本人名大辞典+Plus|access-date=2024-01-13}}</ref>。
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幕末志士というと身分の低い貧乏侍というイメージがつきまとう。雲浜も上京後、講師の仕事があるといえど赤貧洗うがごとくで、藩籍剥奪の後は同志へあてて﹁大困窮進退是れ谷︵きわ︶まり、一歩も動き候事も出来がたく候﹂と旅費の工面を求める手紙を書いたほどであった。しかし安政3年に始めた長州大和間を始めとする物産交易の仲介によって財をなし、安政の大獄の時期には京都経済の中心地にほど近い烏丸御池に居を構えており﹁暮し向き裕かで、訪客絶えず﹂と評されるほど成功した<ref>[[服部之総]]﹁志士と経済﹂(1934)﹃黒船前後・志士と経済﹄ |
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捕縛後は京都から[[江戸]]に送られる<ref name="asahi"/>。取調べでも[[笞打|箒尻]]︵ほうきじり︶で何度も打たれる[[拷問]]においても何一つ口を割らなかった{{要出典|date=2023-12}}。江戸では[[小笠原忠嘉]]の邸に預けられる<ref>{{Cite Kotobank|word=梅田雲浜|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|access-date=2023-12-02}}</ref>。安政6年9月14日︵1859年10月9日︶に幽閉中に病死した<ref name="asahi"/>。[[享年]]45。流行の[[コレラ]]に罹ったというが、拷問での傷の悪化による死因説もある{{要出典|date=2023-12}}。
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=== 辞世の歌 === |
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* 君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり |
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{{要出典範囲|幕末志士というと身分の低い貧乏侍というイメージがつきまとう。雲浜も上京後、講師の仕事があるといえど赤貧洗うがごとくで、藩籍剥奪の後は同志へあてて﹁大困窮進退是れ谷︵きわ︶まり、一歩も動き候事も出来がたく候﹂と旅費の工面を求める手紙を書いたほどであった。|date=2023-12}}しかし安政3年に始めた[[長門国|長州]][[大和国|大和]]間を始めとする物産交易の仲介によって財をなし、安政の大獄の時期には京都経済の中心地にほど近い[[烏丸御池]]に居を構えており﹁暮し向き裕かで、訪客絶えず﹂と評されるほど成功した<ref>[[服部之総]]﹁志士と経済﹂(1934年)﹃黒船前後・志士と経済﹄[[岩波書店]]︿[[岩波文庫]]﹀1981年、{{要ページ番号|date=2023-12}}</ref>。それほどの転身を果たしつつも最期まで志士達の中心に在り続け、またその経済基盤および長州とのつながりを最大限に活用し、尊皇攘夷の運動を推し進めまた多くの志士を経済的に支援した。
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== 登場する作品 == |
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=== テレビドラマ === |
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* 『[[花の生涯 井伊大老と桜田門]]』(1988年、[[テレビ東京]][[12時間超ワイドドラマ]]、演者:[[和崎俊哉]]) |
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* 『[[花燃ゆ]]』(2015年、NHK大河ドラマ、演者:[[きたろう]]) |
* 『[[花燃ゆ]]』(2015年、NHK大河ドラマ、演者:[[きたろう]]) |
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== 外部リンク == |
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* [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/25/ 梅田雲浜] | [https://www.ndl.go.jp/portrait/index.html 近代日本人の肖像]([[国立国会図書館]]) |
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a9/Unpin_Umeda.jpg/180px-Unpin_Umeda.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a1/Umeda6467.jpg/180px-Umeda6467.jpg)
生涯[編集]
文化12年6月7日︵1815年7月13日︶、小浜藩士・矢部義比の次男として誕生[4]。雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという[4]。 はじめ藩校・順造館に学ぶ。天保元年︵1830年︶には[要出典]江戸に出て藩の儒学者・山口菅山から崎門学を学んだ[2]。 その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ[2]、大津に湖南塾を開いた[5]。大津では同じ闇斎学派の上原立斎にも学び、立斎に見込まれてその娘・信︵しん︶を娶っている[6][1]。 天保14年︵1843年︶、京都へ上り藩の塾となっていた望楠軒の講主に迎えられる[4]。 ところが、嘉永5年︵1852年︶海防の強化を建言したことが藩主・酒井忠義の怒りに触れ藩籍を剥奪されてしまう。﹁君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり﹂という和歌は、この時期に詠んだとされる[4]。嘉永6年︵1853年︶、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。やがて安政5年︵1858年︶、日米修好通商条約への朝廷の勅許拒否・その後の戊午の密勅等一連の事案が発生すると、首謀者と目された雲浜は京中の邸にて、大老・井伊直弼による安政の大獄で最初の捕縛者となった[2]。この間、安政2年に千代と結婚している[7]。 捕縛後は京都から江戸に送られる[4]。取調べでも箒尻︵ほうきじり︶で何度も打たれる拷問においても何一つ口を割らなかった[要出典]。江戸では小笠原忠嘉の邸に預けられる[8]。安政6年9月14日︵1859年10月9日︶に幽閉中に病死した[4]。享年45。流行のコレラに罹ったというが、拷問での傷の悪化による死因説もある[要出典]。 雲浜の墓は、全国にまたがり、海禅寺︵東京都台東区︶・安祥院︵京都市東山区︶・松源寺︵福井県小浜市︶に置かれている。安祥院近くにある京都霊山護国神社には雲浜の碑も建てられている。[要出典]実業家としての側面[編集]
幕末志士というと身分の低い貧乏侍というイメージがつきまとう。雲浜も上京後、講師の仕事があるといえど赤貧洗うがごとくで、藩籍剥奪の後は同志へあてて﹁大困窮進退是れ谷︵きわ︶まり、一歩も動き候事も出来がたく候﹂と旅費の工面を求める手紙を書いたほどであった。[要出典]しかし安政3年に始めた長州大和間を始めとする物産交易の仲介によって財をなし、安政の大獄の時期には京都経済の中心地にほど近い烏丸御池に居を構えており﹁暮し向き裕かで、訪客絶えず﹂と評されるほど成功した[9]。それほどの転身を果たしつつも最期まで志士達の中心に在り続け、またその経済基盤および長州とのつながりを最大限に活用し、尊皇攘夷の運動を推し進めまた多くの志士を経済的に支援した。登場する作品[編集]
テレビドラマ[編集]
- 『花の生涯 井伊大老と桜田門』(1988年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ、演者:和崎俊哉)
- 『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演者:きたろう)