「橘曙覧」の版間の差分
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たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時 |
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<br/>たのしみはまれに魚煮て兒等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時 |
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<br/>たのしみは空暖(あたた)かにうち晴(はれ)し春秋の日に出(い)でありく時 |
<br/>たのしみは空暖(あたた)かにうち晴(はれ)し春秋の日に出(い)でありく時<br/>たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙草(たばこ)すふとき<br/>たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來(きた)りて錢くれし時 |
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</BLOCKQUOTE>どれも「たのしみは」で始まる一連の歌を集めたものである。[[1994年]]、[[上皇明仁|明仁天皇]]、[[上皇后美智子|皇后美智子]](いずれも当時)がアメリカを訪問した折、[[ビル・クリントン]]大統領が歓迎の挨拶の中で、この中の歌の一首「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」を引用してスピーチをしたことで、その名と歌は再び脚光を浴びることになった。 |
</BLOCKQUOTE>どれも「たのしみは」で始まる一連の歌を集めたものである。[[1994年]]、[[上皇明仁|明仁天皇]]、[[上皇后美智子|皇后美智子]](いずれも当時)がアメリカを訪問した折、[[ビル・クリントン]]大統領が歓迎の挨拶の中で、この中の歌の一首「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」を引用してスピーチをしたことで、その名と歌は再び脚光を浴びることになった。 |
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[[画像:Fukui City Akemi Tachibana Literature Memorial Museum01bs4592.jpg|thumb|220px|橘曙覧記念文学館]] |
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2019年10月4日 (金) 23:13時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7b/Akemi_Tachibana_portrait.jpg/220px-Akemi_Tachibana_portrait.jpg)
略歴
越前国石場町︵現・福井県福井市つくも町︶に生まれる。生家は、紙、筆、墨などや家伝薬を扱う商家で[2]、父親は、正玄︵正源とも表記︶五郎右衛門[3]。曙覧は正玄家(木田橘家七屋敷のひとつ︶[4]の第六代目で、名は五三郎、諱は茂時[5]。後に、尚事︵なおこと︶、さらに1855年安政元年、43歳の時曙覧と改名する[6]。橘諸兄の血筋を引く橘氏の家柄と称し[7]、そこから国学の師である田中大秀から号として橘の名を与えられた。 2歳で母に死別、15歳で父が死去。叔父の後見を受け、家業を継ごうとするが、嫌気をさし、28歳で家督を弟の宣に譲り、隠遁。京都の頼山陽の弟子、児玉三郎の家塾に学ぶなどする。その後、飛騨高山の田中大秀に入門し、歌を詠むようになる。田中大秀は、本居宣長の国学の弟子でもあり、曙覧は、宣長の諡号﹁秋津彦美豆桜根大人之霊位﹂を書いてもらい、それを床の間に奉って、独学で歌人としての精進を続ける。門弟からの援助、寺子屋の月謝などで妻子を養い、清貧な生活に甘んじた。当初足羽山で隠遁していたが、37歳の時、三ツ橋に住居を移し、﹁藁屋﹂︵わらのや︶と自称した。43歳の時、大病をし、名を曙覧と改めた。 1858年、安政の大獄で謹慎中の松平春嶽の命を受け、万葉集の秀歌を選んだ。曙覧の学を慕った春嶽は、1865年、家老の中根雪江を案内に﹁藁屋﹂を訪れ、出仕を求めたが、曙覧は辞退した[8]。 1868年︵慶応4年︶8月死去。享年57。明治に改元される10日前であった。年譜
特に注記のない場合﹃橘曙覧入門﹄[9]による。 ●1812年文化9年 ●5月 越前国石場町︵現・福井県福井市つくも町︶に生まれる ●1813年文化10年 ●母・鶴子他界(享年23歳) ●1832年天保3年 ●曙覧21歳、妻・直子17歳で、結婚 ●1839年天保10年 ●28歳、黄金舎(こがねのや)で隠遁 ●1844年弘化元年 ●2月 三女・健子(たけこ)逝去 ●8月 本居宣長の門徒田中大秀に入門 ●1848年嘉永元年 ●福井市三ツ橋(現在の照手二丁目)に転居し、その住居を﹁藁屋﹂と称す ●1855年安政元年 ●それまで尚事と名乗っていたものを曙覧と改名 ●1861年文久元年 ●9-11月 伊勢神宮参拝、元居宣長の墓参などの旅に出る評価
橘曙覧の長男、井手今滋︵いましげ︶は父の残した歌をまとめ、1878年︵明治11年︶﹃橘曙覧遺稿志濃夫廼舎歌集﹄︵しのぶのやかしゅう︶を編纂した。正岡子規はこれに注目して1899年︵明治32年︶、﹁日本﹂紙上に発表した﹁曙覧の歌﹂で、源実朝以後、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人と絶賛し、﹁墨汁一滴﹂において﹁万葉以後において歌人四人を得たり﹂として、源実朝・田安宗武・平賀元義とともに曙覧を挙げている。以後、子規およびアララギの影響下にある和歌史観において重要な存在となる。 ﹃志濃夫廼舎歌集﹄に﹁独楽吟﹂︵どくらくぎん︶がある。清貧の中で、家族の暖かさを描き、次のような歌がある。 たのしみは妻子︵めこ︶むつまじくうちつどひ頭︵かしら︶ならべて物をくふ時 たのしみはまれに魚煮て兒等︵こら︶皆がうましうましといひて食ふ時 たのしみは空暖︵あたた︶かにうち晴︵はれ︶し春秋の日に出︵い︶でありく時 たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙草︵たばこ︶すふとき たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來︵きた︶りて錢くれし時 どれも﹁たのしみは﹂で始まる一連の歌を集めたものである。1994年、明仁天皇、皇后美智子︵いずれも当時︶がアメリカを訪問した折、ビル・クリントン大統領が歓迎の挨拶の中で、この中の歌の一首﹁たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時﹂を引用してスピーチをしたことで、その名と歌は再び脚光を浴びることになった。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/Fukui_City_Akemi_Tachibana_Literature_Memorial_Museum01bs4592.jpg/220px-Fukui_City_Akemi_Tachibana_Literature_Memorial_Museum01bs4592.jpg)