「正親町公和」の版間の差分
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伯爵[[正親町実正]]の長男として[[東京府|東京]]に生まれた。弟の[[正親町実慶|実慶]]も﹃白樺﹄の作家で、'''日下諗'''︵くさか しん︶の筆名を持った。[[学習院初等科]]に入り、[[学習院高等科 (旧制)|高等科]]の時に[[志賀直哉]]、[[武者小路実篤]]、[[木下利玄]]と知り合う。﹃[[学習院輔仁会雑誌]]﹄の編輯委員となり小品を発表。[[1906年]]に高等科を卒業して[[東京大学|東京帝国大学]]英文科に入るが中退。[[1908年]]、志賀らと回覧雑誌﹃ |
伯爵[[正親町実正]]の長男として[[東京府|東京]]に生まれた。弟の[[正親町実慶|実慶]]も﹃白樺﹄の作家で、'''日下諗'''︵くさか しん︶の筆名を持った。[[学習院初等科]]に入り、[[学習院高等科 (旧制)|高等科]]の時に[[志賀直哉]]、[[武者小路実篤]]、[[木下利玄]]と知り合う。﹃[[学習院輔仁会雑誌]]﹄の編輯委員となり小品を発表。[[1906年]]に高等科を卒業して[[東京大学|東京帝国大学]]英文科に入るが中退。[[1908年]]、志賀らと回覧雑誌﹃望野﹄を始め、[[1910年]]には﹃白樺﹄創刊に参画、ほかに[[里見弴]]・[[園池公致]]・[[児島喜久雄]]らと交わる。始めの一年編集兼発行人となり﹁萬屋﹂などを発表。[[1913年]]、筆を折って[[八千代生命保険|八千代生命]]に入社、以後、[[東京電工]]などに勤務。
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父の死去に伴い、[[1923年]]12月20日、伯爵を襲爵した<ref>『官報』第3401号、大正12年12月22日。</ref>。鎌倉にて死去した。 |
父の死去に伴い、[[1923年]]12月20日、伯爵を襲爵した<ref>『官報』第3401号、大正12年12月22日。</ref>。鎌倉にて死去した。 |
2017年1月23日 (月) 07:19時点における版
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c5/Kinkazu_Ogimachi.jpg/200px-Kinkazu_Ogimachi.jpg)
正親町 公和︵おおぎまち きんかず、1881年︵明治14年︶10月14日 - 1960年︵昭和35年︶12月7日︶は、華族、実業家、﹃白樺﹄初期の文学者。その文業は﹃明治文学全集 初期白樺派文学集﹄に収められている。
生涯
伯爵正親町実正の長男として東京に生まれた。弟の実慶も﹃白樺﹄の作家で、日下諗︵くさか しん︶の筆名を持った。学習院初等科に入り、高等科の時に志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄と知り合う。﹃学習院輔仁会雑誌﹄の編輯委員となり小品を発表。1906年に高等科を卒業して東京帝国大学英文科に入るが中退。1908年、志賀らと回覧雑誌﹃望野﹄を始め、1910年には﹃白樺﹄創刊に参画、ほかに里見弴・園池公致・児島喜久雄らと交わる。始めの一年編集兼発行人となり﹁萬屋﹂などを発表。1913年、筆を折って八千代生命に入社、以後、東京電工などに勤務。 父の死去に伴い、1923年12月20日、伯爵を襲爵した[1]。鎌倉にて死去した。脚注
- ^ 『官報』第3401号、大正12年12月22日。
日本の爵位 | ||
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先代 正親町実正 |
伯爵 正親町家第2代 1923年 - 1947年 |
次代 (華族制度廃止) |