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{{基礎情報 軍人 |
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| 氏名 = 水上 源蔵 |
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| 各国語表記 = |
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| 生年月日 = [[1888年]][[9月26日]] |
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| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1888|9|26|1944|8|4}} |
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| 画像 = Genzo Mizukami.jpg |
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| 画像サイズ = 200px |
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| 画像説明 = |
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| 渾名 = |
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| 生誕地 = {{JPN1889}} [[山梨県]] |
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| 死没地 = [[Image:Flag of Burma 1943.svg|25px|ビルマ国の旗]] [[ビルマ国]] [[ミッチーナー|ミイトキーナ]] |
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| 所属政体 = {{JPN1947}} |
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| 所属組織 = {{IJARMY}} |
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| 軍歴 = 1911 - 1944 |
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| 最終階級 = [[File:Japan-army-1938-1945 16-1-.gif|35px]]陸軍[[中将]] |
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| 指揮 = 第56歩兵団長 |
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| 部隊 = |
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| 戦闘 = |
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| 戦功 = |
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| 賞罰 = |
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| 除隊後 = |
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| 廟 = |
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==経歴== |
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[[山梨県]]出身。水上長光の三男として生れる。[[山梨県立日川高等学校|日川中学校]]を経て[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]に進み、[[1911年]]︵明治44年︶5月、同校︵第23期︶を卒業し、同年12月、[[歩兵]][[少尉]]に任官し[[歩兵第66連隊]]付となる。[[陸軍戸山学校]]で学び、[[1919年]]︵[[大正]]8年︶3月から翌年10月まで[[シベリア出兵]]に従軍。
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[[山梨県]][[東八代郡]][[一宮町 (山梨県)|一宮町]](現[[笛吹市]]一宮町)出身。水上長光の三男として生れる。旧制[[山梨県立日川高等学校|日川中学校]]を経て[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]に進み、[[1911年]]︵明治44年︶5月、同校︵第23期︶を卒業し、同年12月、[[歩兵]][[少尉]]に任官し[[歩兵第66連隊]]付となる。[[陸軍戸山学校]]で学び、[[1919年]]︵[[大正]]8年︶3月から翌年10月まで[[シベリア出兵]]に従軍。
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その後、歩兵第66連隊[[中隊]]長、日川中学校[[配属将校]]、[[第1師団 (日本軍)|第1師団]]司令部付、[[歩兵第49連隊]][[副官]]、[[歩兵第78連隊]][[大隊]]長、[[第8国境守備隊]]第4地区隊長、歩兵第66連隊長、[[津連隊区]]司令官、[[歩兵第110連隊]]長を経て、[[1941年]]︵昭和16年︶10月、陸軍[[少将]]に進級。留守 |
その後、歩兵第66連隊[[中隊]]長、日川中学校[[配属将校]]、[[第1師団 (日本軍)|第1師団]]司令部付、[[歩兵第49連隊]][[副官]]、[[歩兵第78連隊]][[大隊]]長、[[海拉爾要塞|第8国境守備隊]]第4地区隊長、歩兵第66連隊長、[[津連隊区]]司令官、[[歩兵第110連隊]]長を経て、[[1941年]]︵昭和16年︶10月、陸軍[[少将]]に進級。[[留守第54師団]]兵務部長となり、[[1943年]]︵昭和18年︶6月、第56歩兵団長に補任される。
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[[1944年]]︵昭和19年︶5月下旬、[[第33軍 (日本軍)|第33軍]]司令官[[本多政材]]中将から北[[ビルマ]]の要衝[[ミッチーナー|ミイトキーナ]]に援軍として派遣を命じられる。30日、同地に到着。その後、第33軍作戦参謀[[辻政信]]大佐から水上個人宛 |
[[1944年]]︵昭和19年︶5月下旬、[[第33軍 (日本軍)|第33軍]]司令官[[本多政材]]中将から北[[ミャンマー|ビルマ]]の要衝[[ミッチーナー|ミイトキーナ]]に[[歩兵第114連隊]]の援軍として派遣を命じられる。30日、同地に到着。その後、第33軍作戦参謀[[辻政信]]大佐から極めて異例な水上個人宛の死守が発せられて2ヶ月以上に及ぶ米中連合軍との激戦を繰り広げるが、8月3日同地は陥落。水上は死守命令を伏せたまま、第114連隊長丸山房安大佐に対し﹁残余の部隊をバーモに後退すべし﹂と脱出を命じた。また、本多中将宛に以下の決別電報を送った。
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*一.小官の指揮未熟にして遂に「ミイトキーナ」を確保する能はす。最後の段階に達したるを深くお詫ひ申上く |
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*二.負傷者は万難を排し筏により「イラワジ河」を流下せしむるにつき「バーモ」に於いて救助されたし}} |
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そして部下の渡河を見届けた後、一人でその責を負って自決した。死後、陸軍中将に進級し、個人[[感状]]を受けた。
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*二男 水上澄(陸軍[[大尉]]) |
*二男 水上澄(陸軍[[大尉]]) |
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*義弟 [[前嶋信次]] (東洋学者)<ref>{{Cite book|和書|title=東西文化交流の諸相|date=1971-03|year=1971|publisher=東西文化交流の諸相刊行会|page=1178}}</ref> |
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== 逸話 == |
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*北支派遣軍の第110連隊長の頃、兵隊にも「ご両親はご健在か?」と敬語を使い、また厨房を視察すると必ず「兵には旨いものを食わしてやってくれ」と言っていたという<ref>[https://archive.is/skre 新たなる旅立ち 新潟自衛隊おもしろ館]</ref>。 |
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*自決の際は、歩兵第114連隊[[軍旗]]の前に立ち、長い敬礼の後さらに最敬礼を行い、その後皇居に向かって敬礼を行った後拳銃で自決したという<ref name="小林(1999)143">[[#小林(1999)|小林(1999)、p.143]]</ref>。自決の理由は残された部下(約800名)の命を救う為だったとされる。水上は生前同じ軍人の息子に「おまえもやがて部下を持つ立場になるだろうが、その時は部下にも親兄弟がいることを決して忘れるな」と語ったという<ref>[https://web.archive.org/web/20180211071741/https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/4359/1077295/index.html 目撃!にっぽん「家族たちのインパール」]</ref>。 |
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*[[軍医]]として水上少将の配下についていた詩人・[[丸山豊]]は、水上少将について「魂の司令官」「戦場の闇での何ものにもまさる光」とたびたび記している<ref>[http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_2313.html 水上源蔵という名の言霊 かささぎの旗]</ref>。 |
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==伝記== |
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*島田駒男『ビルマの義人水上源蔵』非売品、1983年(改訂増補改題『ビルマ戦場の義人水上源蔵閣下』、1985年)。 |
*島田駒男『ビルマの義人水上源蔵』非売品、1983年(改訂増補改題『ビルマ戦場の義人水上源蔵閣下』、1985年)。 |
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== 脚注 == |
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<references /> |
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== 参考文献 == |
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*[[秦郁彦]]編『日本陸海軍総合事典』第2版、[[東京大学出版会]]、2005年。 |
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*福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。 |
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*外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。 |
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*{{Cite book|和書|author=小林幸男、大西清、水上輝三、西村正人|year=1999|title=歩兵第百十四連隊の将兵たち|publisher=[[葦書房]]|ref=小林(1999)}} |
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== 関連項目 == |
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* [[自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧]] |
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{{DEFAULTSORT:みなかみ けんそう}} |
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[[Category:日本 |
[[Category:大日本帝国陸軍中将]] |
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[[Category: |
[[Category:シベリア出兵の人物]] |
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[[Category:太平洋戦争の人物]] |
[[Category:太平洋戦争の人物]] |
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[[Category:自殺した日本の人物]] |
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[[Category:陸軍士官学校 (日本)出身の人物]] |
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[[Category:山梨県出身の人物]] |
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[[Category:1888年生]] |
[[Category:1888年生]] |
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[[Category:1944年没]] |
[[Category:1944年没]] |
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2024年5月23日 (木) 12:22時点における最新版
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水上 源蔵 | |
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生誕 |
1888年9月26日![]() |
死没 |
1944年8月4日(55歳没)![]() |
所属組織 |
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軍歴 | 1911 - 1944 |
最終階級 |
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指揮 | 第56歩兵団長 |
経歴[編集]
山梨県東八代郡一宮町(現笛吹市一宮町)出身。水上長光の三男として生れる。旧制日川中学校を経て陸軍士官学校に進み、1911年︵明治44年︶5月、同校︵第23期︶を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。陸軍戸山学校で学び、1919年︵大正8年︶3月から翌年10月までシベリア出兵に従軍。 その後、歩兵第66連隊中隊長、日川中学校配属将校、第1師団司令部付、歩兵第49連隊副官、歩兵第78連隊大隊長、第8国境守備隊第4地区隊長、歩兵第66連隊長、津連隊区司令官、歩兵第110連隊長を経て、1941年︵昭和16年︶10月、陸軍少将に進級。留守第54師団兵務部長となり、1943年︵昭和18年︶6月、第56歩兵団長に補任される。 1944年︵昭和19年︶5月下旬、第33軍司令官本多政材中将から北ビルマの要衝ミイトキーナに歩兵第114連隊の援軍として派遣を命じられる。30日、同地に到着。その後、第33軍作戦参謀辻政信大佐から極めて異例な水上個人宛の死守が発せられて2ヶ月以上に及ぶ米中連合軍との激戦を繰り広げるが、8月3日同地は陥落。水上は死守命令を伏せたまま、第114連隊長丸山房安大佐に対し﹁残余の部隊をバーモに後退すべし﹂と脱出を命じた。また、本多中将宛に以下の決別電報を送った。 ●一.小官の指揮未熟にして遂に﹁ミイトキーナ﹂を確保する能はす。最後の段階に達したるを深くお詫ひ申上く ●二.負傷者は万難を排し筏により﹁イラワジ河﹂を流下せしむるにつき﹁バーモ﹂に於いて救助されたし そして部下の渡河を見届けた後、一人でその責を負って自決した。死後、陸軍中将に進級し、個人感状を受けた。親族[編集]
●二男 水上澄︵陸軍大尉︶ ●義弟 前嶋信次 (東洋学者)[1]逸話[編集]
●北支派遣軍の第110連隊長の頃、兵隊にも﹁ご両親はご健在か?﹂と敬語を使い、また厨房を視察すると必ず﹁兵には旨いものを食わしてやってくれ﹂と言っていたという[2]。 ●自決の際は、歩兵第114連隊軍旗の前に立ち、長い敬礼の後さらに最敬礼を行い、その後皇居に向かって敬礼を行った後拳銃で自決したという[3]。自決の理由は残された部下︵約800名︶の命を救う為だったとされる。水上は生前同じ軍人の息子に﹁おまえもやがて部下を持つ立場になるだろうが、その時は部下にも親兄弟がいることを決して忘れるな﹂と語ったという[4]。 ●軍医として水上少将の配下についていた詩人・丸山豊は、水上少将について﹁魂の司令官﹂﹁戦場の闇での何ものにもまさる光﹂とたびたび記している[5]。伝記[編集]
●島田駒男﹃ビルマの義人水上源蔵﹄非売品、1983年︵改訂増補改題﹃ビルマ戦場の義人水上源蔵閣下﹄、1985年︶。脚注[編集]
(一)^ ﹃東西文化交流の諸相﹄東西文化交流の諸相刊行会、1971年3月、1178頁。 (二)^ 新たなる旅立ち 新潟自衛隊おもしろ館 (三)^ 小林(1999)、p.143 (四)^ 目撃!にっぽん﹁家族たちのインパール﹂ (五)^ 水上源蔵という名の言霊 かささぎの旗参考文献[編集]
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