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ニューヨーク埠頭でハドソン川上の艀にコーンシロップの樽を積み込む沖仲仕(ルイス・ハイン撮影。1912年頃)
沖仲仕︵おきなかせ/おきなかし/ステベドア/ステベ、英語: Stevedore︶は、狭義には船から陸への荷揚げ荷下ろしを、広義には陸から船への積み込みを含む荷役を行う港湾労働者の旧称。
概要
1960年代以前の貨物船のほとんどは在来型貨物船であり、荷揚げ荷下ろしの作業は本船から艀、艀から桟橋と荷物を移動させるために、多くの作業員を要する仕事であった。港湾荷役事業は元請けの下に複数の下請けがあり第三次、第四次の下請けが現場作業を担当した。体力のない下請けは作業員の雇用維持が出来ず、手配師と呼ばれるコーディネーターに人集めを依頼する形態が常態化した。高賃金で体力勝負となる労働現場は荒くれ者が集まることから荒廃しやすく、1915年頃の神戸港の例では、沖仲仕の人夫供給業から山口組が立ち上がる例も見られた[1]。アメリカ合衆国においても、アルバートとアンソニーのアナスタシア兄弟に代表されるマフィアやギャングが沖仲仕を取り仕切っていた。
1970年代以降、各地の港湾が整備され大型コンテナ船の利用が主流になると、艀を使った労働集約型の作業は瞬く間に減少し、沖仲仕は港湾労働者として括られるようになった。現在、船の荷揚げ荷下ろしの作業を行う港湾労働者の仕事は、ガントリークレーンに代表される大型機械の操作などオペレーター的な作業が中心となり、かつて沖仲仕が活躍していた時代とは作業内容が大きく異なっている[2]。
沖仲仕を父に持つ火野葦平の自伝的小説﹃青春の岐路﹄には昭和初期の沖仲仕の姿が活写されており、﹁請負師も、小頭も、仲仕も、ほとんどが、酒とバクチと女と喧嘩とによって、仁義や任侠を売りものにする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている﹂との記載もある。
また学生時代に自らも沖仲仕を経験した生島治郎は﹁この人夫がいわゆるプー太郎というヤツで、横浜のドヤ街にいくらもごろごろしていた。プー太郎はニコヨンとも言い、これは当時の日給が二百四十円だったことからきている。/手配師が集めてきたプー太郎を会社が日給制でやとうのだが、手配師は会社から払われた日当︵デズラと言ったが︶のピンをはね、プー太郎には二百四十円だけ払う﹂と、当時の沖仲仕を取り巻く状況を伝えている[3]。
今日、日本においては、﹁沖仲仕﹂という言葉は差別的であるとされ、一般の報道などに際しては自主的に﹁港湾労働者﹂などに置き換えられて表現される。
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