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津軽三味線における[[家元制度]]の名取芸名制は、[[1960年]]︵昭和35年︶に初代小山貢︵現‥小山貢翁︶が導入したとも、[[1970年]]︵昭和45年︶に木田林松栄が導入したとも言われるが定かではない。現在は、全国各地に大小様々な流派が興り、それぞれが[[家元]]を名乗っている。
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[[歌舞伎]]や[[能]]、あるいは[[日本舞踊]]に比較すると扱いは軽い。これは、そもそも即興を基本とする音楽のため、芸の同一性を保持するという側面が薄いためである。また、歴史の浅さや︵家元三代目はまだ出ていない︶、津軽三味線の流派を統一する組織が不在なのも一因であると言える。
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現在、津軽三味線に関する超流派的組織として「21津軽三味線ネットワークジャパン」「全国津軽三味線協議会」「全日本津軽三味線友の会」などが併存しているが、いずれも所属者の利益が乏しいこともあり、加入する者は多いとは言えない。また、それぞれが別個にコンクールを主催し、互いの提携や交流がきわめて少ない状況にある。[[民謡]]における全国的な組織としては、[[日本民謡協会]]や[[郷土民謡協会]]が挙げられるが、これらの団体に所属しない津軽三味線奏者も多い。 |
現在、津軽三味線に関する超流派的組織として「21津軽三味線ネットワークジャパン」「全国津軽三味線協議会」「全日本津軽三味線友の会」などが併存しているが、いずれも所属者の利益が乏しいこともあり、加入する者は多いとは言えない。また、それぞれが別個にコンクールを主催し、互いの提携や交流がきわめて少ない状況にある。[[民謡]]における全国的な組織としては、[[日本民謡協会]]や[[郷土民謡協会]]が挙げられるが、これらの団体に所属しない津軽三味線奏者も多い。 |
2009年2月20日 (金) 02:20時点における版
津軽三味線︵つがるしゃみせん︵一般にはつがるじゃみせんと発音されることが多い︶︶は、津軽地方︵現在の青森県西部︶で誕生した三味線。本来は津軽地方の民謡伴奏に用いられるが、現代においては特に独奏を指して﹁津軽三味線﹂と呼ぶ場合が多い。撥を叩きつけるように弾く打楽器的奏法と、テンポが速く音数が多い楽曲に特徴がある。
歴史
楽器そのものの歴史は三味線も参照のこと。 弦楽器そのものの発祥は中東とされる。その後構造的に変化しながら、インドを経て中国に入り、中国南部において﹁三絃﹂が成立。この﹁三絃﹂が沖縄を経て畿内に持ち込まれ︵異説あり︶、江戸時代中期に日本独特の三味線となった。以降、三味線は日本各地の土着芸能と融合して様々に発達し、当時日本最北端であった津軽地方において津軽三味線となる。 津軽三味線の楽曲の原型は、新潟地方の瞽女︵ごぜ︶の三味線と言われる。その他、北前船によって日本海側各地の音楽が津軽に伝わり、津軽民謡は独特の発達をみる。しかし、津軽地方においてはボサマと言われる男性視覚障害者の門付け芸として長く蔑まれていた。 安政4年7月7日に津軽三味線の元祖といわれる﹃仁太坊︵にたぼう︶﹄︻本名‥秋元仁太郎。仁太坊は、生まれた地名から﹁神原の仁太坊﹂で通る。8歳のとき疱瘡がもとで失明。12、3歳のころ上方から流れてきた女三味線弾きから手ほどきを受けたと伝えられており、﹁俺は乞食ではない、芸人だ。﹂というのが口癖だった︼ が現れて革新的な奏法を生み出したとされる。黒川桃太郎︻通称‥嘉瀬のもも。本名‥黒川桃太郎は、仁太坊の芸に魅せられ24歳のとき、弟子入りした。大正時代、唄会の人気者で中でも﹁調子変わりのよされ節﹂は桃の独壇上だった。今日歌われる津軽の三つ物、よされ節・小原節・じょんから節の型を作ったことから、津軽民謡中興の祖と言われている︼、梅田豊月︻本名‥鈴木豊五郎︵1886〜1952︶ 五所川原市梅田出身。生まれは、北津軽郡梅田村。手や足の指が極端に短いため太棹を握ることが出来なかった。津軽最初の名人となる。後に、浪曲の曲師に転向した︼、らは、仁太坊と並んで、その基礎を作り上げた。高橋竹山、白川軍八郎︵仁太坊の最後の弟子︶、木田林松栄らの演奏家が出るに及んで、津軽地方の三味線は他の三味線音楽とは異なる発達を遂げた。三味線も細棹ないし中棹から太棹に変化し、奏法も﹁叩き﹂を主流とする打楽器的な奏法となる。しかし、一般的には、﹁叩き﹂﹁弾き﹂といわれるが、﹁叩き﹂は、叩きだけではなく、弾く奏法も当然の事ながら奏法に入る。呼称とすれば、面白いかもしれないが、三味線は通常弾くものと認識される。 昭和40年代の民謡ブームで一世を風靡、三橋美智也らがこの三味線を﹁津軽三味線﹂と称し、以後定着をみる。本来は単なる伴奏楽器として舞台袖で演奏するものだったが、時代が下るにつれ、三味線のみで演奏する前奏部分︵前弾き︶が独奏として独立してゆく。現代では独奏楽器としての側面が強調され、吉田兄弟、木乃下真市︵木下伸市︶、上妻宏光らの若手奏者が独奏主体の演奏スタイルを確立している。しかし、津軽三味線の特徴のひとつである、即興での伴奏︵唄づけ︶が出来ない奏者も多くなってきており、これを憂う声も多く聞かれる。楽器
三味線は太棹を用い、特に﹁津軽三味線﹂として独立した楽器と見なされている。他のジャンルに比べ、積極的にエレキ三味線が開発されている。棹と胴
三味線本体の寸法は義太夫の三味線とほぼ同じで、棹材には稽古用として花梨、舞台用で高級なものになると紅木を用いる。後者の方が材質が固い為音質が良く、棹の摩耗︵勘減り︶が少ない。通常三分割できる構造になっており、継ぎ目に﹁金ホゾ﹂と呼ばれる金細工を施してある場合がある。 胴材には花梨を用いる。大きさは五分を標準とし、四分大、六分大のものもあるが、明確な規格はない。内部に﹁綾杉﹂という綾目模様が彫り込んであるものが高級品で、この綾杉を施していない胴を﹁丸胴﹂と呼ぶ。 金ホゾと綾杉のいずれも、音響工学的には無根拠だが、音質が違うと感じる奏者が多い。市場価格は一概に言えないが、紅木・丸胴・金ホゾなしでおよそ20万円から40万円ほどである。高級なものでは500万円を超えることもあるが、音質よりも工芸品的価値が優越するものも多い。また、一般に運指による棹の摩耗や皮の張り替えによる胴の摩耗が激しいため、ヴァイオリンにおけるストラディバリウスのようなヴィンテージは存在しない。 専業の演奏家では特に消耗が激しく、数年おきに買い換えることが多い。このため、演奏家が舞台で現実に使用する三味線は、おおむね300万円程度が上限であるとされる。糸巻き
糸を巻き取る棒状の部分︵ギターで言うところのペグ︶を、﹁糸巻き﹂または﹁かんざし﹂と呼ぶ。材質には象牙または黒檀を用いるが、最近ではプラスチックやアクリル製半透明のものも多い。皮
皮に用いるのは犬の皮で、背の部分を用いる。胴との貼り付けは澱粉糊を使用するため、きわめて湿度変化に弱い。材質は秋田犬の雌が最高級とされるが、現在は大半がアジア全域からの輸入品。近年合成品も出回っているが、音質に劣る上、価格がさほど変わらないため好まれない。撥
撥は先端が鼈甲製の小ぶりのものを使用する。昨今の鼈甲不足のため、代替品も出回っているが音質に劣るとしてあまり好まれない。柄の部分はプラスチック、象牙、水牛の角など様々な材質が用いられる。糸
糸は太い順から一の糸、二の糸、三の糸と呼ぶ。本来絹糸を用いるが、奏法上非常に切れやすいため、音色は劣るが、二の糸および三の糸にはナイロンまたはテトロンを用いる場合が多い。色は黄色で、これはかつて防虫効果のあるウコンを絹糸に染め込んだ名残、または音に艶を出すために卵黄を染め込んだ名残とされている。調弦
津軽三味線の調弦は三種類ある。唄い手の声の高さに合わせて一の糸の調弦を変えるのが特徴である。 ●二上がり 一の糸を基準に、二の糸を5度上、三の糸を8度上に取り、相対音で﹁ド・ソ・ド﹂となる。津軽じょんから節および津軽よされ節等で使用される。 ●本調子 一の糸を基準に、二の糸を4度上、三の糸を8度上に取り、相対音で﹁ド・ファ・ド﹂となる。津軽小原節等で使用される。 ●三下り 一の糸を基準に、二の糸を4度上、三の糸を短7度上に取り、相対音で﹁ド・ファ・シ♭﹂となる。津軽三下がり等で使用される。 絶対音は尺八または篠笛を基準とする。東日本においては、主に尺八の長さを示す﹁尺﹂と﹁寸﹂が用いられることが多い。﹁2尺﹂がほぼ絶対音Cに該当し、以降半音上がるごとに1寸減じ、下がるごとに1寸増す。﹁1尺9寸﹂がC#、﹁2尺1寸﹂がBにほぼ該当する。 一方、西日本においては主に、長唄囃子などで使われる篠笛の音程を表す﹁本﹂が使われる。4本がほぼ絶対音Cに該当し、以降半音上がるごとに1本増し、下がるごとに1本減ずる。﹁5本﹂がC#、﹁3本﹂がBにほぼ該当する。演奏曲目
演奏楽曲は、主として津軽三大民謡︵津軽三ツ物︶、および五大民謡︵五ツ物︶。三大民謡とは、﹁津軽じょんから節﹂﹁津軽よされ節﹂﹁津軽小原節﹂を指し、五大民謡とはこれに﹁津軽あいや節﹂﹁津軽三下がり﹂を加えたもの。これらの演奏は、基本的にすべて即興で行う。独奏や前奏に限らず、唄の伴奏︵唄づけ︶においても唄い手の即興に応じた演奏をしなければならないため、唄づけの際には高度な知識と技術が要求される。近年ではこの唄づけができない奏者が増えており、これを嘆く声も多い。唄づけが廃れゆく原因には、奏者個人の嗜好のみならず、唄い手の不足や三味線界の閉鎖的環境が指摘されることもある。流派
津軽三味線における家元制度の名取芸名制は、1960年︵昭和35年︶に初代小山貢︵現‥小山貢翁︶が導入したとも、1970年︵昭和45年︶に木田林松栄が導入したとも言われるが定かではない。現在は、全国各地に大小様々な流派が興り、それぞれが家元を名乗っている。 歌舞伎や能、あるいは日本舞踊に比較すると扱いは軽い。これは、そもそも即興を基本とする音楽のため、芸の同一性を保持するという側面が薄いためである。また、歴史の浅さや︵家元三代目はまだ出ていない︶、津軽三味線の流派を統一する組織が不在なのも一因であると言える。 現在、津軽三味線に関する超流派的組織として﹁21津軽三味線ネットワークジャパン﹂﹁全国津軽三味線協議会﹂﹁全日本津軽三味線友の会﹂などが併存しているが、いずれも所属者の利益が乏しいこともあり、加入する者は多いとは言えない。また、それぞれが別個にコンクールを主催し、互いの提携や交流がきわめて少ない状況にある。民謡における全国的な組織としては、日本民謡協会や郷土民謡協会が挙げられるが、これらの団体に所属しない津軽三味線奏者も多い。 このような状況もあり、津軽三味線奏者が独立して新たな流派を立ち上げるに当たっての障害は小さい。独立して教室を開く際には、自らの名を冠して︵あるいは流派名を考案して︶流派を興すのが一般的である。演奏法および楽曲についても流派間の差異は小さく、同一流派間であっても個人差が占めるところの方が大きい。流派・制度に対する批判
従って、津軽三味線においては、流派はさして強い拘束力を持つものではないと言える。技術的な部分で流派ごとに大きな違いを見いだすことも難しい︵後述のように、叩きと弾きの違いはある︶。 このため、津軽三味線における家元制度は、伝統保持を目的としたものではなく、単なる集金システムであるという批判もある。しかしながら、徒弟制度としての家元制度に有用性を見いだす者が多いこともまた事実である。流派の系統
演奏法に関しては、豪快に叩くように弾く叩き三味線と、高橋竹山の流れを汲む繊細な弾き三味線とに大分される。現代の多くの津軽三味線は、昔の名人といわれる白川軍八郎、木田林松栄 、福士政勝など、叩き系の流れを汲むものがほとんどで、弾き系の流れを汲むものはごく僅かである。 叩き三味線の流派としては、小山流︵宗家‥小山貢翁、家元‥小山貢︶、澤田流︵家元‥澤田勝秋︶、高橋流︵家元‥高橋祐次郎︶などが有名かつ組織も大きい。弾き三味線の流派として全国的に認知されているのは、竹山流︵家元‥高橋竹山︶のみである。現代の有名奏者︵五十音順︶
民謡ブーム以降、多くの一流奏者が津軽や函館から東京に移り住んでおり、現在では本場青森よりも東京の方が層が厚い。 二代目小山貢・五錦竜二・澤田勝秋・高橋祐次郎・福居典大・福士豊秋︵東京︶、工藤まんじ・長谷川裕二・福士豊勝︵青森︶、長谷川一義︵大阪︶、木田林松次︵新潟︶らが有名。 若手では、上妻宏光、木乃下真市、高橋竹童、吉田兄弟︵吉田良一郎、吉田健一︶︶、踊正太郎など。 男性奏者に比べると女性奏者は数が少ないが、二代目高橋竹山、工藤菊江のほか、野崎竹勇雅、市川竹女︵故人︶、などがいる。関連文献
- 『津軽三味線の系譜』(木村弦三)「東奥日報」1974年10月16日~12月14日連載
- 『津軽三味線 : 高橋竹山・その人と芸の底を流れるもの』(倉光俊夫) 立風書房,1976年,ASIN B000J920WS
- 『The Spirit of Tsugaru: Blind Musicians, Tsugaru-jamisen, and the Folk Music of Northern Japan』(Gerald GROEMER) Harmonie Park Press,1999年,ISBN 0899900852
- 『弦魂津軽三味線』(大條和雄) 合同出版,1984年,ASIN B000J75FAE
- 『津軽三味線の誕生 : 民俗芸能の生成と隆盛』(大條和雄) 新曜社,1995年,ISBN 4788505029
- 『津軽三味線ひとり旅』(高橋竹山) 新書館,1976年,ASIN B000J93QZI
- 『津軽民謡の流れ』(山田千里) 青森県芸能文化研究会,1978年,ASIN B000J8L516