畿内
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畿内(きない、きだい、うちつくに)では、日本と古代中国での用法について記述する。
日本の畿内[編集]
日本では、畿内とは以下の5国である。近現代の行政区分では奈良県の全域、京都府の南部、大阪府の大部分、兵庫県の南東部に当たる。なお畿内という地域概念は現在でも存在し地方分権などの行政区分や観光などの産業分野でしばし取り上げられる。
●大和国︵奈良県全域︶
●山城国︵京都府京都市以南。ただし左京区広河原、右京区京北は山陰道丹波国︶
●河内国︵大阪府東部︶
●和泉国︵大阪府南西部︶
●摂津国︵大阪府北中部および兵庫県神戸市須磨区以東。ただし高槻市樫田と豊能町牧・寺田は丹波国、神戸市須磨区須磨ニュータウン西部と北区淡河町は山陽道播磨国︶
五畿・五畿内とも呼ばれる。ただし、757年に和泉国が河内国より分離される前は、四畿・四畿内といった。中国とも称される[1]。
1869年︵明治2年︶の東京奠都まで、歴代の都︵首都︶は、主にこの地方に置かれた。
畿内国[編集]
646年︵大化2年︶に発せられた改新の詔には、﹁およそ畿内とは、東は名墾︵名張︶の横河より以来︵こちら側︶、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石︵明石︶の櫛淵[2]より以来、北は近江の狭狭波︵さざなみ︶の合坂山︵逢坂山︶より以来を、畿内国とす﹂[3]という畿内の範囲に関する記述がある。ここにいう﹁畿内﹂はのちの4、5国をさす畿内ではなく、大和を中心に四囲を示した﹁畿内国﹂として定めたと考えられる[独自研究?]。このように、畿内の範囲は646年︵大化2年︶当時皇居が置かれていた難波宮︵現在の大阪市︶、また、それ以前に難波高津宮、より古くから大王の宮殿の多くが置かれた奈良盆地を基準に決められたと考えられる。 中央集権制の下で、貴族が朝廷の許可もなく、畿内の外に出る事は律令法によって禁じられていたが、794年に山城国の畿内北東端にあたる平安京に遷都されて以後は、平安京から山一つ越えただけの近江国や丹波国へ出る事が禁じられ、平安京から数日かかる和泉や大和南部の方が規制が緩いという矛盾が生じていたという。更に奈良時代の一時期、近江国の紫香楽宮に都が置かれていた時期があるが、その時期に畿内の概念が変更された形跡が確認できないため︵前述の法規との矛盾をどう解決していたかは不明︶、早い時期より畿内の根拠として大和朝廷︵ヤマト王権︶を構成する豪族層の居住地域あるいは朝廷の中核を構成する貴族や官僚の出身地域とする位置づけがなされ、実際の都︵京︶の所在地との関係性は考慮されなくなったとする見方もある[4]。 なお、江戸幕府の法令で重追放を受けた場合の立入禁止地域には近江・丹波は含まれていなかったが、京都で事件を起こした者に対してのみは例外的にこの両国と河内国も含むこととされている。変遷[編集]
畿内令制国の変遷
- 名称の変更に限るもので、令制国間の郡・郷の移動に関しては記載していない。
古代国 (令制国前身) |
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| 大宝律令制定 (701年) |
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| 824年-明治 |
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| 明治時代 |
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| 現在の都道府県 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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倭国 |
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| 大倭国 |
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| 大養徳国 (738年-747年) |
| 大倭国 (747年-757年) |
| 大和国 (757年-) |
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| 大和国 |
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| 大和国 |
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| 奈良県(全域) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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闘鶏国 |
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葛城国 |
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| 芳野監 (716年-738年) |
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山背国 (山代国) |
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| 山背国 (7世紀-) |
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| 山城国 (794年-) |
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| 山城国 |
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| 山城国 |
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| 京都府(南部) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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凡河内国 |
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| 河内国 (7世紀-) |
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| 河内職 (769年-770年) |
| 河内国 (770年-) |
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| 河内国 |
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| 河内国 |
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| 大阪府(東部) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 和泉監 (716年-740年) |
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| 和泉国 (757年-) |
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| 和泉国 |
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| 和泉国 |
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| 大阪府(南西部) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 摂津職 |
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| 摂津国 (793年-) |
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| 摂津国 |
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| 摂津国 |
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| 大阪府(北中部)、兵庫県(南東部) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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類似の地域名[編集]
天下 古代から[5]、中世~近世にかけての呼称[6]。 上方 江戸時代以降の呼称。本来京都︵あるいは京都の方向︶を指すが、大阪を含む広い範囲をも指す。 上方舞や上方落語など、近世以降の上方文化に関わってよく用いられる。 京阪神 京都市・大阪市・神戸市およびその周辺。 近畿 畿内を含む府県とその隣接県。通常、大阪府・兵庫県・京都府・奈良県・三重県・和歌山県・滋賀県の2府5県を指す。 畿央 近畿の中央部。首都機能移転候補地である三重・畿央地域などと用いられる。 関西 中世以降に使用が確認できる呼称。 ﹁関西﹂の呼称が史料上最初に確認できるのは中世前期の史書﹃吾妻鏡﹄で[7]、古代の三関︵鈴鹿関・不破関・愛発関、のち鈴鹿関・不破関・逢坂関︶より西側の地域を表す表現として使用される[8]。その後、時代が下って明治維新による東京奠都が行われた近代以降、メディアによる地域区分として使用され、定着していった[9]。﹁近畿﹂と違い行政区分ではないためその範囲は曖昧であり、中国・四国・九州地方を含む場合もある[10]。 ﹁近畿﹂または﹁京阪神﹂と同じ範囲を指して用いられることが多いが、西日本を広く指す場合もある。
﹁京阪神﹂は経済用語や俗称としての色が濃いのに対して、﹁畿内﹂は歴史地理学用語としての色が濃い。
邪馬台国の所在地について、九州説に対峙する説は、﹁畿内説﹂と呼ばれる。この説で実際に所在地とされているのは、主に大和の奈良盆地である。
中国の畿内[編集]
古代中国では、天子の居城︵都︶から500里︵約202キロメートル。周代の1里 = 約405メートル︶以内の範囲。天子が直轄した。畿甸︵きでん︶とも。脚注[編集]
(一)^ Yahoo!辞書 - 大辞林
(二)^ 現在の神戸市須磨区一の谷から垂水区塩屋町付近と考えられている。この辺の海岸が櫛目のように出入りしていることから付けられたと推測できる。福島好和﹁大和王権の進出と展開 3内なる国と外なる国﹂ 今井修平・小林基伸・鈴木正幸・野田泰三・福島好和・三浦俊明・元木泰雄﹃兵庫県の歴史﹄山川出版社 2004年8月 65ページ
(三)^ ﹃日本書紀﹄孝徳天皇2年正月の甲子︵きのえね︶の朔︵ついたちのひ︶の条にあることから、一般に甲子の詔といい、﹁其の一︵はじめに︶に曰︵のたま︶はく、…﹂で始まり、﹁其の四に曰はく、…﹂まであり、﹁畿内国﹂については其の二の後段にある。校注者坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋﹃日本書紀﹄︵四︶[全5冊] 岩波書店 2002年9版 256-260ページ
(四)^ 市川理恵﹃王朝時代の実像2京職と支配 平安京の行政と住民﹄︵臨川書店、2021年︶ ISBN 978-4-653-04702-5 P120.
(五)^ 河上麻由子﹁日本古代の﹁天下﹂と都城﹂﹃都城制研究﹄第14巻、奈良女子大学 大和・紀伊半島学研究所 古代学・聖地学研究センター、2020年、101頁、NAID 120007153296。
(六)^ 神田千里、﹁織田信長﹂(ちくま新書1093)、p.117、筑摩書房、2014年。
(七)^ 松尾理也 ﹁<研究ノート>﹃大阪時事新報﹄の頒布領域からみる﹁関西﹂ --占領期GHQ資料から﹂ ﹃京都メディア史研究年報﹄5 京都大学大学院教育学研究科メディア文化論研究室、2019年4月、68頁。
(八)^ 松尾、2019年、68‐69頁。
(九)^ 松尾理也 ﹁<研究ノート>全国紙発祥の地・大阪のメディア出身議員 --京都・神戸地区との比較から--﹂ ﹃京都メディア史研究年報﹄3 京都大学大学院教育学研究科メディア文化論研究室、2017年4月、119‐120頁。
(十)^ 松尾、2019年、69頁。