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== 各宗派の解釈 == |
2011年6月6日 (月) 15:41時点における版
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この項目では、仏教用語について説明しています。
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無我︵むが、パーリ‥anattā、サンスクリット‥अनात्मन् anātman, नैरात्म्य nairātmya, निरात्मन् nirātman︶は、仏教用語で、﹁我﹂に対する否定を表し、﹁我が無い﹂と﹁我ではない﹂︵非我︶との両方の解釈がなされる。
各宗派の解釈
初期仏教
﹃スッタニパータ﹄などの最初期の韻文経典では、無我はさかんに説かれる。それらによれば、﹁無我﹂は我執の否定ないし超越を意味し、そのような無我を実践し続けてはじめて、清浄︵しょうじょう︶で平安な涅槃の理想に到達できるとする。
初期の散文経典では、我︵自我、aatman, आत्मन्︶を
●﹁私のもの﹂︵パーリ語‥mama मम︶
●﹁私﹂︵パーリ語‥ahaM अहं︶
●﹁私の自我﹂︵パーリ語‥me attaa मे अत्ता︶
の3種に分かち、いっさいの具体的なもの、具体的なことのひとつひとつについて、﹁これは私のものではない﹂﹁これは私ではない﹂﹁これは私の自我ではない﹂と反復して説く。これらをまとめて、諸法無我︵パーリ語‥sabbe-dhammaa-anattaa सब्बे धम्मा अनत्ता︶という。
部派仏教
部派仏教になるとこの定型が形式化し、説一切有部においては、要素である法︵ダルマ︶の分析にともない、その法の有︵う︶が考えられるようになる。元来の初期仏教以来の無我説はなお底流として継承されていたので、人無我︵にんむが︶・法有我︵ほううが︶という一種の折衷説が生まれた。
この﹁法有我﹂は、法がそれ自身で独立に存在する実体であることを示し、それを自性︵じしょう、サンスクリット‥svabhaava स्वभाव︶と呼ぶ。こうして説一切有部を中心とする部派仏教には法の体系︵一種の物理学的体系︶が確立されて、阿毘達磨教学として現在にいたるまで熱心に学習されている。
大乗仏教
このような﹁法有我﹂もしくは﹁自性﹂に対して、これを根底から否定していったのが大乗仏教とくに龍樹である。
彼らは自性に反対の無自性を鮮明にし、空であることを徹底した。その論究の根拠は、従来の縁起(えんぎ)説の根本的転換であり、それまでのいわば一方的に進行した関係性を、相互依存性へと広く深く展開させ、相互否定や矛盾をも含む、自在な互換と複雑で多元的な関係とを導入した。それはまた縁起関係にある各要素をどこまでも相対化し、実体的な﹁我﹂もしくは﹁自性﹂の成立する余地をことごとく奪い去った。
このような﹁縁起―無自性―空﹂の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、あらゆるとらわれから解放された無我説が完成した。龍樹以降の大乗仏教は、インド・チベット・中国・日本その他のいたるところですべてこの影響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。
釈迦が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒︵してんどう=さかさまな見方︶といい、釈迦はまずこれらを否定し、﹁空﹂を説いたわけである。
しかし、大乗仏教の教えが熟すと、大乗=すべての人々が救われる、という理念から、仏性︵あるいは如来我=真我︶の存在や如来の常住不変という理念が生まれていった。この過渡期に創作された経典が﹃法華経﹄などである。したがって﹃法華経﹄が創作された時点では、壮大な物語風に記されるのみで、なぜ無我と空が転換して﹁常住﹂となるかは詳しく説明しえなかった。そして大乗仏教がまたさらに熟され、その最終形として、﹃大般涅槃経﹄などが創作されると、すでに説かれた﹁無我説﹂や﹁空﹂との関連性をもって、﹃法華経﹄で薄くも示された﹁如来常住﹂や﹁悉有仏性﹂を更に高い視点から再度説明し、それを融和・止揚して論理的に説かれた。
したがって大乗仏教では、釈迦は成道してまず世間の邪見である﹁我﹂を否定し﹁無我﹂を説いて、それが理解されるようになると段階的に説法し﹁如来我﹂を説いたと位置付けている。これを﹁常楽我浄﹂︵涅槃の四徳・四波羅密︶というようになった︵なお、これらのことから仏教は﹁否定の否定﹂の教えであるともいわれる︶。
人無我・法無我の用例
我執に﹁人我執﹂﹁法我執﹂があるように、無我にも﹁人無我﹂﹁法無我﹂が説かれる。
ことに、執着してもすべては無我であり、執着することができないものに執着するために苦が生じるのであるから、頼りにならないものを頼ろうとすることによって﹁苦﹂が生じるのであることを、自分とそれをとり巻く世界に分けて説明する。
親鸞は、
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界、よろずのことみなもてそらごとたわ言、まことある事なきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。
— ﹃歎異抄﹄
と述べているが、ここでいう﹁煩悩具足の凡夫﹂は人無我、﹁火宅無常の世界﹂は法無我のことを指しており、いずれも頼りにならない﹁無我﹂のものであるから﹁そらごとたわ言﹂と説明している。
一般的用例
どの地域・いつの時代でも、この無我説を故意に悪用し、責任回避や主体性喪失の逃げ口上に濫発された例がみられる。
逆に、﹁無我夢中﹂﹁無我の境地﹂﹁無心﹂などのように、ある一点への集中の極限において他の夾雑物の完全な排除が説かれる。この例はむしろ無我説の原型にかなり近いとも考えられる。