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「秦佐八郎」の版間の差分

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生前、[[1913年]]に[[ノーベル生理学・医学賞]]の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している<ref name="Nobel">[http://www.nobelprize.org/nomination/medicine/nomination.php?action=show&showid=3132 Nomination Database - Physiology or Medicine]</ref>。

生前、[[1913年]]に[[ノーベル生理学・医学賞]]の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している<ref name="Nobel">[http://www.nobelprize.org/nomination/medicine/nomination.php?action=show&showid=3132 Nomination Database - Physiology or Medicine]</ref>。

[[Image:Elrich and Hata.jpg|right|thumb|研究する[[パウル・エールリヒ|エールリヒ]](左)と秦(右)]]

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== ドイツ留学、特効薬開発への経歴 ==

== 生涯 ==

=== 生い立ち ===


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[[1891]]:[[西]][[ ()|]]:[[]][[]]

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1895(28)822

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=== 伝染病研究所への入所 ===


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=== ペスト研究の開始 ===

この時から秦の[[ペスト]]研究が始まり、ヨーロッパ留学に旅立つ[[1907年]](明治40年)まで続いた。8年間にわたる研究の中、防疫の実務([[1899年]]11月、日本最初のペストが発生)に携わると共に、ペストに関する十数篇の論文を著わし、[[柴山五郎作]]と共に「ペスト予防法」を策定している。後に、エールリッヒが難題の[[梅毒]][[化学療法]]の共同研究者として秦を選んだのも、秦が長年に渡って危険極まりない[[ペスト]]の研究と防疫に当たってきた実績を買ったからだった。エールリッヒは「注意深き精緻正確なる君の輝かしい実験なくしては、この好結果を挙げ得なかったであろう。君の協力に対して私は深く感謝するものである」と深甚の謝意を表している。

この時から秦の[[ペスト]]研究が始まり、ヨーロッパ留学に旅立つ[[1907年]](明治40年)まで続いた。8年間にわたる研究の中、防疫の実務([[1899年]]11月、日本最初のペストが発生)に携わると共に、ペストに関する十数篇の論文を著わし、[[柴山五郎作]]と共に「ペスト予防法」を策定している。後に、エールリッヒが難題の[[梅毒]][[化学療法]]の共同研究者として秦を選んだのも、秦が長年に渡って危険極まりない[[ペスト]]の研究と防疫に当たってきた実績を買ったからだった。エールリッヒは「注意深き精緻正確なる君の輝かしい実験なくしては、この好結果を挙げ得なかったであろう。君の協力に対して私は深く感謝するものである」と深甚の謝意を表している。



=== 軍医として従軍 ===


[[1903]]([[36]])10[[1904]]4[[]][[]][[]][[1905]][[]]1011[[]][[1907]]

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1907年(明治40年)国立[[伝染病研究所]]第三部長となる。

1907年(明治40年)国立[[伝染病研究所]]第三部長となる。



=== ドイツ留学、特効薬開発へ ===

ドイツ留学、[[ベルリン]]の[[ロベルト・コッホ]](Heinrich Hermann Robert Koch)細菌研究所でワッセルマンの下、免疫の研究をして1年を過ごした。その後、モアビット(Moabit)市立病院に移ってヤコビー博士の下で数ヶ月間研究する。ヤコビー博士もエールリッヒの弟子だったので、彼を通じてエールリッヒが所長を務める[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]の国立実験治療研究所へ移れるように頼んでもらった。ヤコビー博士の二度の手紙では芳しい結果が得られなかったため、秦は自ら手紙を書き、[[ベルリン]]を出発。10日間ほど南ドイツの大学を回った後、荷物を駅に預けたままでフランクフルトの研究所へ直行した。エールリッヒのもとに案内されると、彼は次のように語ったという。

ドイツ留学、[[ベルリン]]の[[ロベルト・コッホ]](Heinrich Hermann Robert Koch)細菌研究所でワッセルマンの下、免疫の研究をして1年を過ごした。その後、モアビット(Moabit)市立病院に移ってヤコビー博士の下で数ヶ月間研究する。ヤコビー博士もエールリッヒの弟子だったので、彼を通じてエールリッヒが所長を務める[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]の国立実験治療研究所へ移れるように頼んでもらった。ヤコビー博士の二度の手紙では芳しい結果が得られなかったため、秦は自ら手紙を書き、[[ベルリン]]を出発。10日間ほど南ドイツの大学を回った後、荷物を駅に預けたままでフランクフルトの研究所へ直行した。エールリッヒのもとに案内されると、彼は次のように語ったという。



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[[1910年]]にドイツの製薬会社[[ヘキスト (化学メーカー)|へキスト]](Höchst)は、この薬を[[サルバルサン]]([[ラテン語]]でSalvareは「救う」の意味)と名づけ、製造販売した。同年[[5月27日]]、秦は[[ロベルト・コッホ]](Heinrich Hermann Robert Koch)の臨終に立会い、その後日本に帰国した。当初、日本はこの薬をドイツから輸入していた。

[[1910年]]にドイツの製薬会社[[ヘキスト (化学メーカー)|へキスト]](Höchst)は、この薬を[[サルバルサン]]([[ラテン語]]でSalvareは「救う」の意味)と名づけ、製造販売した。同年[[5月27日]]、秦は[[ロベルト・コッホ]](Heinrich Hermann Robert Koch)の臨終に立会い、その後日本に帰国した。当初、日本はこの薬をドイツから輸入していた。



==日本帰国後の足取り==

=== 日本帰国後の足取り ===

*[[1912年]](明治45年)[[7月12日]]、医学博士の学位を受ける。論文「螺旋菌病のヘモテラピー」

* [[1912年]](明治45年)[[7月12日]]、医学博士の学位を受ける。論文「螺旋菌病のヘモテラピー」

*[[1913年]](大正2年)、国産の[[サルバルサン]]を製造することになり、協力する。

* [[1913年]](大正2年)、国産の[[サルバルサン]]を製造することになり、協力する。

*[[1913年]](大正2年)、日本結核予防協会設立に参画する。

* [[1913年]](大正2年)、日本結核予防協会設立に参画する。


*[[1914]](3)[[115]][[]][[]]

* [[1914]](3)[[115]][[]][[]]

*[[1915年]]([[大正4年]])5月、欧州大戦勃発に伴い ほとんど輸入に頼っていたドイツからの医療品が途絶えたことから、日本の医薬産業の育成と医薬品の国産化を目的とした「染料医薬品製造奨励法案」が第三十六議会を通過、[[10月14日]]施行。

* [[1915年]]([[大正4年]])5月、欧州大戦勃発に伴い ほとんど輸入に頼っていたドイツからの医療品が途絶えたことから、日本の医薬産業の育成と医薬品の国産化を目的とした「染料医薬品製造奨励法案」が第三十六議会を通過、[[10月14日]]施行。

*[[1915年]](大正4年)、国と[[鈴木梅太郎]]と[[三共]]の協力を得て国産化に取り組んでいた[[サルバルサン]]の製造に成功。アルサミノールの名で販売した。

* [[1915年]](大正4年)、国と[[鈴木梅太郎]]と[[三共]]の協力を得て国産化に取り組んでいた[[サルバルサン]]の製造に成功。アルサミノールの名で販売した。

*[[1920年]](大正9年)、[[慶應義塾大学]]医学部教授に就任。[[細菌学]]、[[免疫学]]を講じる。

* [[1920年]](大正9年)、[[慶應義塾大学]]医学部教授に就任。[[細菌学]]、[[免疫学]]を講じる。


:* 

*[[1921年]](大正10年)6月、極東熱帯医学会に出席のため[[インドネシア]]・[[ジャワ]]・[[バタビヤ]]に出張。

*[[1923年]](大正12年)2月、アメリカ・[[ロックフェラー財団]]の招きで同国とカナダの医事衛生視察

* [[1921年]](大正10年)6月、極東熱帯医学会に出席のため[[インドネシ]]・[[ジャワ]]・[[バタビヤ]]に出張

*[[1926年]](大正15年)、ドイツ帝自然科学院会員に推される

* [[1923年]](大正12年)2月アメリカ・[[ロックフェラー財団]]の招きで同とカナダの医事衛生視察

*[[1928年]](昭和3年)、ドイツで開催された[[国際連盟]]主催、[[サルバルサン]]標準国際会議に出席。

* [[1926年]](大正15年)、ドイツ帝国自然科学院会員に推される。

* [[1928年]](昭和3年)、ドイツで開催された[[国際連盟]]主催、[[サルバルサン]]標準国際会議に出席。

*[[1931年]](昭和6年)、恩師[[北里柴三郎]]博士死去。6月、[[北里研究所]]副所長に就任。

* [[1931年]](昭和6年)、恩師[[北里柴三郎]]博士死去。6月、[[北里研究所]]副所長に就任。

*[[1933年]](昭和8年)1月、[[帝国学士院]](のちの[[日本学士院]])会員に勅選され終身勅任官待遇を受ける。

* [[1933年]](昭和8年)1月、[[帝国学士院]](のちの[[日本学士院]])会員に勅選され終身勅任官待遇を受ける。



=== 死去 ===


[[1938]](13)7[[]][[]]112265[[]][[]][[]]

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現在、秦佐八郎博士の業績を称え後世に永くその名を伝える事を目的として、社団法人日本化学療法学会では「志賀 潔・秦 佐八郎記念賞」を設けている。

現在、秦佐八郎博士の業績を称え後世に永くその名を伝える事を目的として、社団法人日本化学療法学会では「志賀 潔・秦 佐八郎記念賞」を設けている。



== こぼれ話 ==

== 脚注 ==

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*22

; 注釈<!--=== 注釈 ===-->


*

{{Reflist|group="注釈"}}

; 出典<!--=== 出典 ===-->

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== 参考文献 ==

== 参考文献 ==

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*「増補北里柴三郎とその一門」著:長木大三 発行:慶應義塾大学出版会)

*「増補北里柴三郎とその一門」著:長木大三 発行:慶應義塾大学出版会)

*「秦佐八郎傳」著:秦八千代 発行:北里研究所)

*「秦佐八郎傳」著:秦八千代 発行:北里研究所)


== 関連項目 ==

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* [[北里柴三郎]]



== 外部リンク ==

== 外部リンク ==

*[http://www.city.masuda.lg.jp/soshiki/57/detail-2657.html 秦佐八郎博士の偉大な人生を紹介益田市美都総合支所) ]

* [http://www.city.masuda.lg.jp/soshiki/57/detail-2657.html 秦佐八郎博士の偉大な人生を紹介」] - [http://www.city.masuda.lg.jp 益田市](美都総合支所)

* [http://www.chemotherapy.or.jp/about/award.html 志賀 潔・秦 佐八郎記念賞] - [http://www.chemotherapy.or.jp/ 日本化学療法学会]



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1926(15)

1928(3)

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1933(8)1


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脚注

注釈
出典

参考文献

  • 「難病に取り組み医学を発展させた人たち」著:竹内均 発行:ニュートンプレス
  • 「医学史ものがたり2 医人の探索」著:井上清恒 発行:内田老鶴圃)
  • 「増補北里柴三郎とその一門」著:長木大三 発行:慶應義塾大学出版会)
  • 「秦佐八郎傳」著:秦八千代 発行:北里研究所)

関連項目

外部リンク