「稲むらの火」の版間の差分
濱口梧陵手記 |
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== 史実との異同 == |
== 史実との異同 == |
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﹁稲むらの火﹂は濱口儀兵衛︵梧陵︶の史実に基づいてはいるものの、実際とは異なる部分がある。これは小泉八雲の誤解にもとづくものであるが、翻訳・再話をおこなった地元出身の中井常蔵もあえて踏襲した。史実と物語の違いは国定教科書採用時にも認識されていたが、五兵衛の犠牲的精神という主題と、小泉・中井による文章表現の美しさから、安政南海地震津波の記録としての正確性よりも教材としての感銘が優先された<ref name="Imamura1940" />。
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﹁稲むらの火﹂は濱口儀兵衛︵梧陵︶の史実に基づいてはいるものの、実際とは異なる部分がある。これは小泉八雲の誤解にもとづくものであるが、翻訳・再話をおこなった地元出身の中井常蔵もあえて踏襲した。史実と物語の違いは国定教科書採用時にも認識されていたが、五兵衛の犠牲的精神という主題と、小泉・中井による文章表現の美しさから、安政南海地震津波の記録としての正確性よりも教材としての感銘が優先された<ref name="Imamura1940" />。
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物語では地震動について﹁今の地震は別に烈しいといふ程のものではなかった﹂と書かれているが、濱口梧陵は地震の様子を手記の中で﹁其激烈なる事前日の比に非ず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵烟空を蓋ふ﹂と記しており<ref name="Musha1951">﹃濱口梧陵傳﹄﹃濱口梧陵手記﹄, 武者金吉﹃日本地震史料﹄毎日新聞社、1951年, p1576.</ref>、宇佐美龍夫は広村の震度を5-6程度と推定している<ref>宇佐美龍夫﹃わが国の歴史地震の震度分布・等震度線図﹄日本電気協会、1994年</ref>。
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物語では地震動について﹁今の地震は別に烈しいといふ程のものではなかった﹂と書かれているが、濱口梧陵は地震の様子を手記の中で﹁其激烈なる事前日の比に非ず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵烟空を蓋ふ﹂と記しており<ref name="Musha1951">﹃濱口梧陵傳﹄﹃濱口梧陵手記﹄, 武者金吉﹃日本地震史料﹄毎日新聞社、1951年, p1576.</ref>、宇佐美龍夫は広村の震度を5-6程度と推定している<ref>宇佐美龍夫﹃わが国の歴史地震の震度分布・等震度線図﹄日本電気協会、1994年</ref>。地震の揺れ方や、津波襲来前に潮が大きく引いたという描写は、出版直前に起った明治三陸津波から小泉八雲がその示唆を得た可能性が考えられている<ref name="Imamura1940" />。
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農村の高台に住む年老いた村長とされている五兵衛に対して、史実の儀兵衛は指導的な商人であったがまだ35歳で、その家は町中にあった。また、儀兵衛が燃やしたのは稲穂のついた稲の束ではなく、[[脱穀]]を終えた[[藁]]の山︵これも﹁稲むら﹂と呼ぶことがある︶であった︵津波の発生日が[[12月24日]]︿新暦換算﹀で、真冬であることに注意︶。また、儀兵衛が火を付けたのは津波を予知してではなく、津波が来襲してからであり、暗闇の中で村人に安全な避難路を示すためであった。
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農村の高台に住む年老いた村長とされている五兵衛に対して、史実の儀兵衛は指導的な商人であったがまだ35歳で、その家は町中にあった。また、儀兵衛が燃やしたのは稲穂のついた稲の束ではなく、[[脱穀]]を終えた[[藁]]の山︵これも﹁稲むら﹂と呼ぶことがある︶であった︵津波の発生日が[[12月24日]]︿新暦換算﹀で、真冬であることに注意︶。また、儀兵衛が火を付けたのは津波を予知してではなく、津波が来襲してからであり、暗闇の中で村人に安全な避難路を示すためであった。
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﹁稲むらの火﹂には描かれていないが、儀兵衛の偉業は災害に際して迅速な避難に貢献したことばかりではなく、被災後も'''将来再び同様の災害が起こることを慮り、私財を投じて防潮堤を築造した'''点にもある。これにより広川町の中心部では、昭和の[[東南海地震]]・[[南海地震]]による津波に際して被害を免れた。
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﹁稲むらの火﹂には描かれていないが、儀兵衛の偉業は災害に際して迅速な避難に貢献したことばかりではなく、被災後も'''将来再び同様の災害が起こることを慮り、私財を投じて防潮堤を築造した'''点にもある。これにより広川町の中心部では、昭和の[[東南海地震]]・[[昭和南海地震|南海地震]]による津波に際して被害を免れた。
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=== 濱口梧陵手記 === |
=== 濱口梧陵手記 === |
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[[11月5日 (旧暦)|五日]](1854年[[12月24日]])になり、海面が穏やかとなったため村民らは家に戻った。午後に村民2名が井戸の異常な水位低下を訴え出、何か地異が起るのではと恐れていた処に夕方七つ時頃(16時半頃)大震動があり暫くして静まった。村内を巡視する際、西南方向から巨砲を連発するような響きが数回あり、海岸に行った処未だ異変が認められなかったが、心を休める遑もなく、怒涛早くも民屋を襲うと叫びがあり、疾走するなか激浪が広川を遡り人家が崩れ流れていくのが見えた。自らも瞬時に潮流に半身を没し辛うじて丘陵に漂着すると、背後には押流される者、流材に身を寄せる者と悲惨な光景が広がっていた。 |
[[11月5日 (旧暦)|五日]](1854年[[12月24日]])になり、海面が穏やかとなったため村民らは家に戻った。午後に村民2名が井戸の異常な水位低下を訴え出、何か地異が起るのではと恐れていた処に夕方七つ時頃(16時半頃)大震動があり暫くして静まった。村内を巡視する際、西南方向から巨砲を連発するような響きが数回あり、海岸に行った処未だ異変が認められなかったが、心を休める遑もなく、怒涛早くも民屋を襲うと叫びがあり、疾走するなか激浪が広川を遡り人家が崩れ流れていくのが見えた。自らも瞬時に潮流に半身を没し辛うじて丘陵に漂着すると、背後には押流される者、流材に身を寄せる者と悲惨な光景が広がっていた。 |
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一旦八幡宮に行くと悲鳴を揚げて親、子、兄弟を捜す声が溢れ、日が暮れ壮者十余名と共に松明を焚いて救助に向かうも流材が道を塞ぎ歩行を妨げていたが、十余の稲むらに点火して安全な地を表示した処、これを頼りに万死に一生を得た者が少なくなかった。暫くして八幡神社近くの一本松に |
一旦八幡宮に行くと悲鳴を揚げて親、子、兄弟を捜す声が溢れ、日が暮れ壮者十余名と共に松明を焚いて救助に向かうも流材が道を塞ぎ歩行を妨げていたが、十余の稲むらに点火して安全な地を表示した処、これを頼りに万死に一生を得た者が少なくなかった。暫くして八幡神社近くの一本松に引き上げた頃に最大の激浪が襲来し、火のついた稲むらが漂い流されていく様子を見て天災の恐るべきを感じさせられた。 |
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== 防災の教材として == |
== 防災の教材として == |
2014年1月24日 (金) 08:44時点における版
物語の概要
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/01/Inagi2005-9.jpg/200px-Inagi2005-9.jpg)