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[[東京府]][[北豊島郡]][[滝野川区|滝野川町]]︵現・[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[滝野川 (東京都北区)|滝野川]]︶に生まれる。旧姓和田。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]卒業、東京大学国文学科から[[東京大学#研究科|大学院]]へ進学。1956年、稲岡良子と結婚、稲岡姓となる。高校教師を経て、1963年、[[武庫川女子大学]][[講師 (教育)#高等教育|専任講師]]、1965年4月1日助教授。同15日退職し、翌日から[[山口大学]]専任講師。これは辞表が受理されず、[[五味智英]]の指示により内容証明つきで送付したため。1966年、助教授。1967年、[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東京大学教養学部]]助教授、1975年、教授。1985年、[[博士︵文学︶|文学博士]]、[[論文#学位請求論文|論文]]の題は﹁萬葉表記論 ﹂<ref>博士論文書誌データベース</ref>。 1990年、定年退官。[[上智大学]]教授、2000年退職。
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『[[万葉集]]』が専門。主に『万葉表記論』などの著作において、いわゆる「柿本人麻呂歌集」に見られる特殊な用字法を、[[国語]]表記史上の問題として論じた学説などによって知られる。 |
『[[万葉集]]』が専門。主に『万葉表記論』などの著作において、いわゆる「柿本人麻呂歌集」に見られる特殊な用字法を、[[国語]]表記史上の問題として論じた学説などによって知られる。 |
2021年11月3日 (水) 20:29時点における版
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稲岡 耕二︵いなおか こうじ、1929年4月12日 - 2021年5月30日︶は、日本文学者︵万葉学者︶。古代文学専攻。東京大学名誉教授。
来歴・人物
東京府北豊島郡滝野川町︵現・東京都北区滝野川︶に生まれる。旧姓和田。第一高等学校卒業、東京大学国文学科から大学院へ進学。1956年、稲岡良子と結婚、稲岡姓となる。高校教師を経て、1963年、武庫川女子大学専任講師、1965年4月1日助教授。同15日退職し、翌日から山口大学専任講師。これは辞表が受理されず、五味智英の指示により内容証明つきで送付したため。1966年、助教授。1967年、東京大学教養学部助教授、1975年、教授。1985年、文学博士、論文の題は﹁萬葉表記論 ﹂[1]。 1990年、定年退官。上智大学教授、2000年退職。 ﹃万葉集﹄が専門。主に﹃万葉表記論﹄などの著作において、いわゆる﹁柿本人麻呂歌集﹂に見られる特殊な用字法を、国語表記史上の問題として論じた学説などによって知られる。著書
単著
- 萬葉表記論 塙書房、1976
- 鑑賞日本の古典 万葉集 尚学図書、1980
- 万葉集の作品と方法 岩波書店、1985
- 王朝の歌人 柿本人麻呂 集英社、1985
- 人麻呂の表現世界 岩波書店、1991
- 山上憶良(人物叢書) 吉川弘文館、2010
- 人麻呂の工房 塙書房、2011
校注
- 萬葉集全注 巻第2 有斐閣、1985
- 萬葉集(校注古典叢書)1 明治書院、1986
- 続日本紀(新日本古典文学大系)1〜5 岩波書店、1989~1998(共編)
- 萬葉集全注 巻第11 有斐閣、1998
- 萬葉集(和歌文学大系)1〜4 明治書院、1997~2015
脚注
- ^ 博士論文書誌データベース