「薄田泣菫」の版間の差分
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*白玉姫(1905年6月、金尾文淵堂) |
*白玉姫(1905年6月、金尾文淵堂) |
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*[[白羊宮]](1906年5月、金尾文淵堂) |
*[[白羊宮]](1906年5月、金尾文淵堂) |
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===随筆集=== |
===随筆集=== |
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*象牙の塔(1914年8月、春陽堂) |
*象牙の塔(1914年8月、春陽堂) |
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*太陽は草の香がする(1926年12月、[[アルス (出版社)|アルス]]) |
*太陽は草の香がする(1926年12月、[[アルス (出版社)|アルス]]) |
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*猫の微笑(1927年5月、[[創元社]]) |
*猫の微笑(1927年5月、[[創元社]]) |
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*艸木虫魚(1929年1月、創元社) |
*艸木虫魚(1929年1月、創元社、1940年、創元選書) |
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*大地讃頌(1929年6月、創元社) |
*大地讃頌(1929年6月、創元社) |
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*樹下石上(1931年10月、創元社) |
*樹下石上(1931年10月、創元社) |
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*独楽園(1934年4月、創元社) |
*独楽園(1934年4月、創元社) |
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*人と鳥虫(1943年3月、[[桜井書店]]) |
*人と鳥虫(1943年3月、[[桜井書店]]) |
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=== 没後刊 === |
=== 没後刊 === |
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;選集 |
;選集 |
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*『泣菫随筆』([[冨山房]]百科文庫、[[谷沢永一]]・[[山野博史]]編、1993年) |
*『泣菫随筆』([[冨山房]]百科文庫、[[谷沢永一]]・[[山野博史]]編、1993年) |
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*『[[蒲原有明]]・薄田泣菫 近代浪漫派文庫15』([[新学社]]、2007年) |
*『[[蒲原有明]]・薄田泣菫 近代浪漫派文庫15』([[新学社]]、2007年) |
2018年11月24日 (土) 07:35時点における版
薄田 泣菫︵すすきだ きゅうきん、1877年︵明治10年︶5月19日 - 1945年︵昭和20年︶10月9日︶は、日本の詩人・随筆家。本名、淳介︵じゅんすけ︶。
﹃暮笛集﹄﹃白羊宮﹄などで島崎藤村、土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人として登場。また、象徴派詩人として蒲原有明と併称された。大正以後は詩作を離れ、﹃茶話﹄﹃艸木虫魚﹄などの随筆集を書いた。
薄田 泣菫 | |
---|---|
誕生 |
薄田 淳介 1877年5月19日 岡山県浅口郡大江連島村 |
死没 |
1945年10月9日(68歳没) 日本 岡山県 |
職業 | 詩人、随筆家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 岡山県尋常中学校中退 |
代表作 |
『暮笛集』(1899年) 『二十五絃』(1905年) 『白羊宮』(1906年) 『茶話』(1915-30年) 『艸木虫魚』(1929年) |
ウィキポータル 文学 |
生涯
1877年5月13日、岡山県浅口郡大江連島村︵現在の倉敷市連島町連島字大江︶に、父・篤太郎、母・里津の長男として生まれた。父は村役場の書記で、俳諧を嗜んでいた。玉島高等小学校を経て、岡山県尋常中学校︵後に第一岡山中学校。現在の県立岡山朝日高校︶を中退[1]。
1894年上京し、上野書籍館に通いながら漢学塾二松學舍︵現在の二松學舍大学︶で学ぶ[2]。
1897年、帰郷すると、いくつか詩を作り﹃新著月刊﹄に投稿、後藤宙外、島村抱月らに絶賛され掲載された。翌年第一詩集﹃暮笛集﹄を刊行、﹃小天地﹄を編集しながら﹃明星﹄などに詩を載せ、﹃ゆく春﹄﹃白羊宮﹄など、古語や漢語を多用した詩風で、蒲原有明とともに泣菫・有明時代を築き、島崎藤村、土井晩翠後の明治後期の詩壇を背負って立った。
明治の終わりごろから一時小説に興味を移したが、結局随筆に転じ、詩作を離れた。国民新聞社、帝国新聞社に勤めた後、大阪毎日新聞社に勤め、1915年、﹃茶話﹄の連載開始。これは﹁茶を飲みながら喋る気楽な世間話﹂と言う意味で、古今東西の噂話、失敗談、面白おかしい話を幅広く紹介している。﹃大阪毎日新聞﹄、﹃東京日日新聞﹄、﹃サンデー毎日﹄、﹃苦楽﹄、﹃文藝春秋﹄他に執筆され、異本が多い。
1917年、パーキンソン病に罹患。
1919年、大阪毎日新聞社学芸部部長に就任し西宮市に在住、自邸を﹁雑草園﹂と名づけた。芥川龍之介を社員として招聘して多くの文章の発表場所を与えた。
1923年、病気が悪化したため、休職。晩年は口述したものを夫人が筆記していた。
1945年10月4日、意識不明となり疎開先の井原町から連島に戻ったが、10月9日に尿毒症で死去した。68歳没。戒名は至誠泣菫居士[3]。