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「薄田泣菫」の版間の差分

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== 逸話 ==


[[File:Keats grave.jpg|thumb|right|土井晩翠が泣菫に贈る菫を摘んだキーツの墓(ローマ)。]]

*東京では一日も休まず上野の帝国図書館に通う傍ら、英語塾にも通い、ヨーロッパの古典を英語で読み知識を身に着けた。帝国図書館では当時新進作家であった[[樋口一葉]]の姿を目にしている。

*二十歳になると[[徴兵検査]]のために帰郷したが、肺病と診断され、そのまま故郷で養生する事となった。


*稿稿稿[[]]

*与謝野晶子は結婚前から泣菫の愛読者であり、「私は二氏(藤村と泣菫)に負う所が多いのである」と後に述懐しているように、泣菫の詩から大きな影響を受けている。

*晶子は泣菫の妹の短歌にも啓発されたと述べているが、実は妹ではなく泣菫の実家の隣に住む教え子で、四歳年下の三宅薫であった。泣菫はこの娘に恋心を抱いていたようだが、「おとどひ」(きょうだいの意)と題する自作の詩集を贈るなど、表向きはあくまで兄妹として接し、世間にも妹として紹介していた。しかし薫が意に染まぬ不幸な結婚をしたことで泣菫は悲嘆に暮れ、第一詩集で名声を得ていたにも関わらず家に閉じこもってしまう。その頃発表された詩『巌頭沈吟』は痛切な失恋の詩で、前書きに「相慕ひける男女ありけり」とあるように、他人事であるように装っている。

*[[1903年]]、ヨーロッパ旅行中の土井晩翠の手紙が[[ローマ]]から届いた。[[ジョン・キーツ|キーツ]]と[[パーシー・ビッシュ・シェリー|シェリー]]の墓所([[:it:Cimetière anglais de Rome|Cimetière anglais de Rome]])を訪れた事を知らせる手紙で、中にはローマの[[絵葉書]]二枚と[[スミレ|菫(すみれ)]]の押し花が同封されていた。晩翠は既に高名な詩人であり、菫はキーツの墓の傍で摘み取ったものであると書き記されていた。泣菫は「私がこの詩人を好いていた事を思い出されて、遥か[[イタリア]]の地から寄越された友誼をしみじみ嬉しく思う」と感慨を述べている。[[オスカー・ワイルド]]の詩『キーツの墓』には「露に濡れてすすり'''泣'''く優しの'''菫'''が…」という一節があり、泣菫の雅号はそこから得たものと推測される。なお、この押し花と手紙は現在も大切に保管されている<ref>黒田えみ『薄田泣菫の世界』p23~p55</ref>。

== 没後 ==

== 没後 ==


[[]]  歿   [[]]<ref>{{Cite book||author=|series=245|title=|publisher=[[ ()|]]|date=2007-02|page=142|isbn=978-4-8212-5245-9}}</ref>

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2019年10月12日 (土) 05:45時点における版


  187710519 - 194520109


薄田 泣菫
誕生 薄田 淳介
1877年5月19日
岡山県浅口郡大江連島村
死没 (1945-10-09) 1945年10月9日(68歳没)
日本の旗 日本 岡山県
職業 詩人随筆家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 岡山県尋常中学校中退
代表作 『暮笛集』(1899年)
『二十五絃』(1905年)
白羊宮』(1906年)
茶話』(1915-30年)
艸木虫魚』(1929年)
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生涯


1877513退[1]

1894[2][3]

1897稿

1915西

1917

1919西

1923

1945104109尿68[4]


姿



稿稿稿





1903Cimetière anglais de Rome[5]


  歿   [6]


189911

190110

19055

19056

19065

192819831999


19148

191610

19184

19196

19244

192612

19275

192911940

19296

193110

19344 

19433



81938391984




1993

 152007




 3西1983-84811

19981541928

1998

2009



(一)^ 2002518 

(二)^  1977295-297 

(三)^ 2008736-37 

(四)^ 2015122 

(五)^ p23p55

(六)^ ︿24520072142ISBN 978-4-8212-5245-9 

関連文献

  • 松村緑『薄田泣菫考』教育出版センター〈研究選書〉、1977年。 
  • 野田宇太郎『公孫樹下にたちて 薄田泣菫評伝』永田書房、1981年。 
  • 松浦澄惠『薄田泣菫 詩の創造と思索の跡』アーツアンドクラフツ、2007年。 
  • 倉敷市・薄田泣菫文庫調査研究プロジェクトチーム 編『薄田泣菫読本』翰林書房、2019年。 

関連項目

外部リンク