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'''鈴鹿王'''︵すずかのおおきみ、生年不詳 - [[天平]]17年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]︵[[745年]][[10月17日]]︶︶は、[[奈良時代]]の[[皇族]]。[[天武天皇]]皇子の[[高市皇子]]の次男。官位は[[従二位]]・[[知太政官事]]。
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'''鈴鹿王'''︵すずかのおおきみ、生年不詳 - [[天平]]17年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]︵[[745年]][[10月17日]]︶︶は、[[奈良時代]]の[[皇族]]。[[天武天皇]][[皇子]]の[[高市皇子]]の次男。[[官位]]は[[従二位]]・[[知太政官事]]。
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[[和銅]]3年([[710年]])無位から[[従四位|従四位下]]に、[[神亀]]3年([[726年]])[[従四位上]]に叙せられる。 |
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天平元年︵[[729年]]︶に勃発した[[長屋王の変]]により兄[[長屋王]]は自殺するが、鈴鹿王は連座を免れその後も昇進を続け、同年[[正四位|正四位上]]に叙せられ、天平3年︵[[731年]]︶8月11日には[[参議]]に任ぜられた。天平4年︵[[732年]]︶[[従三位]]。天平9年︵[[737年]]︶[[藤原四兄弟]]︵[[藤原武智麻呂|武智麻呂]]・[[藤原房前|房前]]・[[藤原宇合|宇合]]・[[藤原麻呂|麻呂]]︶の相次ぐ死去を受け、[[太政大臣|知太政官事]]に任ぜられ、[[大納言]][[橘諸兄]]と共に政権を運営する。一説に、こうした鈴鹿王の立身の背景には、無念の思いを抱いて死んだ長屋王の霊を鎮めたいという朝廷の意図が込められていたといわれているが、その一方で天平9年の疫病によって[[議政官]]級の皇族・貴族のほとんどが死去してしまい、[[大臣]]に就任できる要件を満たした人材がいなくなってしまったために、大臣と同格で皇族であることが唯一の条件であった知太政官事を急遽立てなければならないという切迫した事情も介在していた。
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天平元年︵[[729年]]︶に勃発した[[長屋王の変]]により兄[[長屋王]]は自殺するが、鈴鹿王は[[連座]]を免れその後も昇進を続け、同年[[正四位|正四位上]]に叙せられ、天平3年︵[[731年]]︶8月11日には[[参議]]に任ぜられた。天平4年︵[[732年]]︶[[従三位]]。天平9年︵[[737年]]︶[[藤原四兄弟]]︵[[藤原武智麻呂|武智麻呂]]・[[藤原房前|房前]]・[[藤原宇合|宇合]]・[[藤原麻呂|麻呂]]︶の相次ぐ死去を受け、[[太政大臣|知太政官事]]に[[任官|任ぜられ]]、[[大納言]][[橘諸兄]]と共に政権を運営する。一説に、こうした鈴鹿王の立身の背景には、無念の思いを抱いて死んだ[[長屋王]]の霊を鎮めたいという[[朝廷]]の意図が込められていたといわれているが、その一方で天平9年の疫病によって[[議政官]]級の[[皇族]]・[[貴族]]のほとんどが死去してしまい、[[大臣]]に就任できる要件を満たした人材がいなくなってしまったために、大臣と同格で[[皇族]]であることが唯一の条件であった[[知太政官事]]を急遽立てなければならないという切迫した事情も介在していた。
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天平10年([[738年]])[[正三位]]、天平15年([[743年]])従二位に昇叙、天平16年([[744年]])には[[藤原仲麻呂]]と共に[[恭仁宮]][[留守官]]に任命されるが、翌年に薨去。 |
天平10年([[738年]])[[正三位]]、天平15年([[743年]])[[従二位]]に昇叙、天平16年([[744年]])には[[藤原仲麻呂]]と共に[[恭仁宮]][[留守官]]に任命されるが、翌年に薨去。 |
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『[[続日本紀]]』によると佐紀にあった鈴鹿王邸に、[[宝亀]]元年([[770年]])[[孝謙天皇#称徳天皇|称徳天皇]]の御陵が造営されたという。[[高塚古墳]]が比定されているが異論も多い。 |
『[[続日本紀]]』によると佐紀にあった鈴鹿王邸に、[[宝亀]]元年([[770年]])[[孝謙天皇#称徳天皇|称徳天皇]]の御陵が造営されたという。[[高塚古墳]]が比定されているが異論も多い。 |
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== 系譜 == |
== 系譜 == |
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*父:[[高市皇子]] |
* 父:[[高市皇子]] |
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*母:不詳 |
* 母:不詳 |
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*妻:不詳 |
* 妻:不詳 |
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**男子:豊野出雲(?-777) |
** 男子:[[豊野出雲]](?-777) |
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**男子:豊野篠原 |
** 男子:[[豊野篠原]] |
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**男子:豊野奄智(?-784) |
** 男子:[[豊野奄智]](?-784) |
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**男子:豊野五十戸 |
** 男子:[[豊野五十戸]] |
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2011年3月16日 (水) 19:58時点における版
鈴鹿王︵すずかのおおきみ、生年不詳 - 天平17年9月4日︵745年10月17日︶︶は、奈良時代の皇族。天武天皇皇子の高市皇子の次男。官位は従二位・知太政官事。
和銅3年︵710年︶無位から従四位下に、神亀3年︵726年︶従四位上に叙せられる。
天平元年︵729年︶に勃発した長屋王の変により兄長屋王は自殺するが、鈴鹿王は連座を免れその後も昇進を続け、同年正四位上に叙せられ、天平3年︵731年︶8月11日には参議に任ぜられた。天平4年︵732年︶従三位。天平9年︵737年︶藤原四兄弟︵武智麻呂・房前・宇合・麻呂︶の相次ぐ死去を受け、知太政官事に任ぜられ、大納言橘諸兄と共に政権を運営する。一説に、こうした鈴鹿王の立身の背景には、無念の思いを抱いて死んだ長屋王の霊を鎮めたいという朝廷の意図が込められていたといわれているが、その一方で天平9年の疫病によって議政官級の皇族・貴族のほとんどが死去してしまい、大臣に就任できる要件を満たした人材がいなくなってしまったために、大臣と同格で皇族であることが唯一の条件であった知太政官事を急遽立てなければならないという切迫した事情も介在していた。
天平10年︵738年︶正三位、天平15年︵743年︶従二位に昇叙、天平16年︵744年︶には藤原仲麻呂と共に恭仁宮留守官に任命されるが、翌年に薨去。
﹃続日本紀﹄によると佐紀にあった鈴鹿王邸に、宝亀元年︵770年︶称徳天皇の御陵が造営されたという。高塚古墳が比定されているが異論も多い。