オクラホマ (戦艦)
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|
艦歴 | |
---|---|
起工 | 1912年 10月26日 |
進水 | 1914年 3月23日 |
就役 | 1916年 5月2日 |
喪失 | 1941年 12月7日 |
退役 | 1944年 9月1日[1] |
その後 | 1947年 5月17日、沈没[1]。 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:29,000トン、満載:34,000トン |
全長 | 177.70m |
全幅 | 29.03m |
吃水 | 9.04m |
最大速 | 20.5ノット |
乗員 | 士官・兵員:864名 |
兵装 | 45口径35.6cm砲:10門 51口径12.7cm砲:12門 25口径12.7cm砲:8門 90口径12.7mm機関銃:8門 |
オクラホマ (英語: USS Oklahoma, BB-37) は、アメリカ海軍の戦艦[注釈 1]。
ネバダ級戦艦の2番艦[3][注釈 2]。
姉妹艦はネバダ (USS Nevada, BB-36) [5]。本級はアメリカ海軍における標準型戦艦の嚆矢であり、集中防御方式を採用した最初期の戦艦[6]。艦名はオクラホマ州にちなむ。﹁オクラホマ﹂は蒸気タービンの代わりにレシプロエンジンを主機に採用した最後のアメリカ軍艦艇であり、最後まで振動問題に悩まされた。また竣工時のニューヨーク級戦艦およびネバダ級戦艦と改良型のペンシルベニア級戦艦は籠マスト (Lattice mast) を備えていたが[7]、戦間期の改装で三脚檣となった[8][9]。
1941年12月7日[10]︵日本時間12月8日︶朝の真珠湾攻撃時[4]、フォード島の隣に繋留されて僚艦と共に戦艦横丁を形成していた[11]。南雲機動部隊から飛来した艦上攻撃機[12]が投下した魚雷5本以上が命中し[13]、浸水被害により転覆した[14]。
1943年にサルベージされ、同年末に乾ドックで修理を開始する[5][15]。だが損傷が激しく、再就役は断念された[16]。1944年9月1日、除籍[1]。太平洋戦争終結後、スクラップとして売却される[17]。1947年5月、北アメリカ大陸西海岸へ向かうため曳航されてオアフ島を出航後[18]、5月17日に太平洋で沈没した[19]。
籠マスト撤去後の﹁オクラホマ﹂。背景はアルカトラズ島。
真珠湾攻撃開始時のアメリカ軍主要艦艇停泊位置
戦艦﹁メリーランド﹂︵左︶と転覆した﹁オクラホマ﹂︵右︶
﹁オクラホマ﹂は1940年︵昭和15年︶12月6日からハワイ真珠湾を母港としていた。本艦は旧式であったが、乗組員は﹁オクラホマは、綺麗で、活気に満ちた幸運な艦だ﹂と語ったという[23]。
1941年︵昭和16年︶12月7日︵日本時間12月8日︶朝、ネバダ級戦艦2隻ふくめアメリカ太平洋艦隊の主力艦の大部分は真珠湾のフォード島に繋留されていた[24][25]。当時のオクラホマ艦長はハワード・ダグラス・ボード (Howard Douglas. Bode) 大佐だったが[26]、日曜日なので指揮を引き継いで艦を降りていた︵オクラホマの歴代艦長一覧︶。
本艦は戦艦列の南端にいた[27][注釈 3]。
前方には給油艦﹁ネオショー﹂と戦艦﹁カリフォルニア﹂、フォード島側︵オクラホマの右舷側︶に戦艦﹁メリーランド﹂が停泊し、後方には戦艦﹁テネシー﹂と﹁ウェストバージニア﹂が繋留されていた[29][30]。
同日朝、南雲機動部隊から日本軍攻撃隊が飛来する[12][10]。第一次攻撃隊︵総指揮官淵田美津雄中佐︶のうち[31][32]、村田重治少佐が率いる九七式艦上攻撃機︵おもに第一航空戦隊の赤城と加賀所属機︶が戦艦列を雷撃した[33][34]。外側に繋留されていた﹁オクラホマ﹂と﹁ウェストバージニア﹂は雷撃隊の格好の標的となり[35][36]、左舷側に魚雷多数を被雷する[37]。副長は、魚雷8本命中を数えたあと、総員退去を命じた[38]。午前8時10分頃、横倒しとなって転覆した[39]。空襲開始から約10分間の出来事であったという[5]。なお﹁オクラホマ﹂の隣に繋留されていた﹁メリーランド﹂には爆弾2発が命中したのみで、被害は小さかった[40][41]。本艦から脱出した乗組員の多くは他の艦に移乗し、対空戦闘に加わった[5]。
真珠湾攻撃により20名の士官及び395名の兵士が死亡、行方不明となった。戦死者のうちの1人、アロイシウス・シュミット神父は第二次世界大戦で戦死した最初の従軍司祭であった。32名が負傷し、多くが転覆した船体内に閉じこめられた。フリオ・デカストロ (Julio DeCastro) を始めとする多くの港湾作業員達の英雄的な努力により[5]、艦腹の装甲板を切り開くという方式で32名の兵士が救助された[42]。
サルベージ作業中の﹁オクラホマ﹂、1943年3月29日の撮影
戦艦﹁ウィスコンシン﹂と上部構造物を撤去した﹁オクラホマ﹂。
自分の艦︵オクラホマ︶が沈没するのを見ていたボード大佐は、面目を失った[43]。この時は問題視されず、ボード大佐は重巡洋艦﹁シカゴ﹂艦長に任命される[26]。だが8月上旬の第一次ソロモン海戦で失策を犯し、夜戦で大破する[44]。ボード大佐は1943年︵昭和18年︶1月にパナマ運河地帯の基地司令官に転出したあと[45]、4月19日に自殺した[46][注釈 4]。
﹁オクラホマ﹂の方は、最低限の処理が行われたのみで、真珠湾内にて横転着底状態のまま放置されていた。着底した他の戦艦達がサルベージされたあと[14]、﹁オクラホマ﹂も浮揚作業がおこなわれ、1943年12月28日に乾ドック入りした[5]。大修理と大改装による戦列復帰が計画されたが[15]、ドックでの調査の結果損傷が激しく、修理は断念された。1944年︵昭和19年︶9月1日に退役扱いとなる[1]。1945年︵昭和20年︶8月の日本降伏で太平洋戦争が終結した後、翌年になっても真珠湾において繋留されていた[47]。1946年︵昭和21年︶12月初旬、カリフォルニア州オークランドのムーア・ドライドック社に売却された[17]。タグボート2隻︵ヘラクレス、モナーク︶に曳航されてサンフランシスコに向かう途中の1947年︵昭和22年︶5月17日、真珠湾から約540マイルの海域で嵐に遭遇し、浸水が始まって傾斜が始まった。連絡を受けた海軍本部は、真珠湾に引き返すように指令したが、程なく﹁オクラホマ﹂は沈没した。沈没時は無人であった[注釈 5]。沈没場所は特定されていない。
真珠湾攻撃で完全に失われた大型艦艇は、本艦を含めて3隻︵オクラホマ、アリゾナ、ユタ︶であった[1][48]。﹁オクラホマ﹂は第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章している。
艦歴[編集]
建造[編集]
﹁オクラホマ﹂は1912年10月26日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工された。1914年3月23日にロレーナ・J・クルースによって進水した。1916年5月2日に初代艦長ロジャー・ウェルズ大佐の指揮下で就役した。第一次世界大戦から戦間期[編集]
バージニア州ノーフォークを母港とした﹁オクラホマ﹂は、大西洋艦隊に加わり東海岸で訓練航海を行なう。第一次世界大戦たけなわの1917年末、アメリカ海軍はロッドマン提督を司令官とする第9戦艦戦隊 (United States Battleship Division Nine) を編成してイギリスに派遣した。第9戦艦戦隊の各艦︵フロリダ級戦艦、ワイオミング級戦艦、ニューヨーク級戦艦︶はイギリス海軍の大艦隊の隷下で第6戦艦戦隊 (6th Battle Squadron) と呼ばれていた[5]。﹁オクラホマ﹂は1918年8月13日まで姉妹艦ネバダと共にヨーロッパ水域で連合軍の船団警護に従事した。12月にはウィルソン大統領のフランス訪問での警護艦の役割を果たし、12月14日にキューバ水域での艦隊演習参加のためニューヨークを出航した。翌年6月15日にブレストに戻り、ウィルソン大統領の二度目の欧州歴訪での警護艦として輸送船ジョージ・ワシントン (SS George Washington) に随行し、7月8日にニューヨークに帰港した。 1927年9月から1929年7月にかけてフィラデルフィアで近代化改修が行われた。その後、カリブ海で艦隊演習に参加。1930年6月に西海岸に戻り、1936年の春まで作戦活動に従事した。1936年の夏は士官候補生を乗せヨーロッパへの訓練航海を行い、北部の港を訪問した。この航海はスペイン内戦の勃発で中断され、﹁オクラホマ﹂に乗艦していた生徒約300名は僚艦﹁ワイオミング﹂と﹁アーカンソー﹂に移乗した[20]。﹁オクラホマ﹂と重巡﹁クインシー﹂がスペインに派遣される[21]。 ﹁オクラホマ﹂は7月24日にビルバオを訪れると米国民及び他の避難民を救出してジブラルタル及びフランスの港へ向かった。ノーフォークに帰港したのは9月11日であり、その後10月24日に西海岸へ向かった。 続く4年にわたって﹁オクラホマ﹂は太平洋艦隊において陸軍との共同作戦及び予備役兵︵予備士官︶[22]の訓練に従事した。真珠湾攻撃[編集]
浮揚と喪失[編集]
登場作品[編集]
映画[編集]
- 『パール・ハーバー』(2001年、マイケル・ベイ監督)
- 真珠湾攻撃のシーンで、魚雷多数を被雷して転覆するシーンが描写されている。映画『タイタニック』(1997年)を撮影したバハ・スタジオで制作された。
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 戰艦“オクラホマ Oklahoma”[2] 全要目︷排水量29,000噸 速力20節 備砲36糎砲10門 13糎砲12門 起工1912年10月 竣工1916年5月 建造紐育造船會社︸ 全長177.69米、幅32.69米、平均吃水8.38米。軸馬力25,000馬力。備砲は上記の外に13糎高角砲8門を装備す。先年700百萬弗を投じて改装を施したが、その主なる改装個所はマストをカゴ式から三脚にしたこと、主砲の仰角を30度に増大したこと、汽罐を石炭主用より重油専燃としたこと等である。 / 同型艦“ネバダ Navada” これは“オクラホマ”と要目すべて同一。1916年3月フオアリバア會社で竣工したもので先年“オクラホマ”同様改装を完了した。尚この2隻の航續力は全速力で4,000浬、10節で10,000浬と云はれて居り重油搭載量は2,000噸である。
(二)^ NHKアーカイブス﹁特報ハワイ大空襲﹂、大本営発表で﹁オクラホマ型戦艦﹂の表記が使用されたこともある[4]。
(三)^ Battleship Rowは、二次資料でも翻訳に差異がある。戦艦桟橋、戦艦通り、戦艦横丁[28]、などの事例がある。
(四)^ 修理後の﹁シカゴ﹂︵艦長Ralph Otis Davis大佐︶も、1943年1月下旬のレンネル島沖海戦で撃沈された。
(五)^ ︵米海軍の誇りであつた頃のオクラホマ號︶[19] 一九四一年十二月七日、折柄眞珠灣に碇泊中の戰闘艦オクラホマ號は日本潜水艇の襲撃で半ば沈没し、乗員も殆ど犠牲となつたことは、未だ記憶に新たなる所であるが、同艦は、その後引揚げ修理を施され實戰にも参加したが今年いよいよ廢艦の列に入り加州のジャンク會社が買取り、解體する事となつた。そのためオクラホマ號は去る五月馴染み深き眞珠灣に最後の別れを告げ二隻の海軍タッグボートに牽引せされ、屠所に向ふ羊の如く、スロースピードで加州へ航行中ホノルルより五百三十五哩の海上で急に左舷へ傾斜し始めた。曳船よりは刻々オクラホマ號の状況を電報して來たが昨夕遂にホノルルより六百哩のあたりで沈没した。第一次、第二次大戰の﹃老武者﹄は生きてジャンクに拂下げの憂き目を見るより、潔よく太平洋海底の藻屑となり軍艦らしい最後を遂げたいと靈あるものの如く自沈したのだろうと古い海兵たちは云つてゐる。オク號沈没の際は一人の乗員もなかつた由である︵記事おわり︶
出典[編集]
(一)^ abcdeパール・ハーバー 1991, p. 180.
(二)^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 113(原本208-209頁)戰艦オクラホマ
(三)^ ミリタリー選書(6)世界の戦艦 2005, pp. 78a-83戦艦ネヴァダ級/真珠湾の悲劇から復活した不屈の戦艦
(四)^ ab“特報ハワイ大空襲”. NHKアーカイブス. 2023年12月28日閲覧。
(五)^ abcdefg“眞珠灣で撃沈された戰闘艦オクラホマ號 引揚げの上修理を了し再就役す”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1944.10.24. pp. 04. 2023年12月28日閲覧。
(六)^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 118a-119アメリカ/ネバダ級
(七)^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 120–121アメリカ/ペンシルバニア級
(八)^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 102(原本186-187頁)戰艦オクラホマ
(九)^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 116–117アメリカ/ニューヨーク級
(十)^ abマッキンタイヤー、空母 1985, pp. 97–101パールハーバー奇襲
(11)^ スミス、パールハーバー1941 2009, pp. 20–21(1941年12月7日、真珠湾艦艇配置図)
(12)^ abパール・ハーバー 1991, pp. 182–183機動部隊ハワイ攻撃隊の編制と指揮官たち
(13)^ スミス、パールハーバー1941 2009, p. 77.
(14)^ ab“眞珠灣の引揚げ作業 撃破された艦艇十九隻中五隻を除けば既に完了!”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1943.05.24. pp. 04. 2023年12月28日閲覧。
(15)^ ab“撃沈されて二年後に引揚げ作業を完了 オクラホマ號船渠入り”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1944.02.15. pp. 05. 2023年12月28日閲覧。
(16)^ ジョーダン、戦艦 1988, p. 119.
(17)^ ab“戰艦オクラホマ四萬弗で身賣り 數奇な運命へ終止符”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1946.12.03. pp. 04. 2023年12月28日閲覧。
(18)^ “舊戰闘艦オ號 桑港へ曳航 愈々屑鐡に解体”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1947.05.07. pp. 09. 2023年12月28日閲覧。
(19)^ ab“老戰艦オクラホマ號 哀れ海上で自沈 桑港へ曳航される途中”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1947.05.17. pp. 11. 2023年12月28日閲覧。
(20)^ “兵學校生徒を下艦 オクラホマ號 西班牙出動”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nippu Jiji, 1936.07.22. pp. 08. 2023年12月28日閲覧。
(21)^ “米國軍艦急派”. Hoji Shinbun Digital Collection. Shin Sekai Asahi Shinbun, 1936.07.23. pp. 01. 2023年12月28日閲覧。︹ (華府廿一日)スペインに於ける騒擾に鑑み、米國政府は廿一日戰艦オクラホマ號並に甲級巡洋艦クエシー號の二隻をスペインに急行せしめ、米國人救護に當らせることゝなつた。︵記事おわり︶︺
(22)^ “練習艦オクラホマ號出港”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nippu Jiji, 1938.07.06. pp. 05. 2023年12月28日閲覧。
(23)^ パール・ハーバー 1991, p. 18.
(24)^ バーガー、PEARL HARBOR 1984, p. 1441941年(昭和16年)12月7日朝、パールハーバーにおける米太平洋艦隊の配置
(25)^ 大東亞戰爭海軍作戰寫眞記録(1) 1942, p. 15彼我の海軍勢力一瞬にして逆轉 猛爆に喘ぐ米太平洋艦隊群
(26)^ ab掴めなかった勝利 1994, p. 51.
(27)^ ハワイ海戦、マレー沖海戦 1942, pp. 16–17吾ガ必殺ノ猛襲下ニ惨憺タル的主力艦群
(28)^ スミス、パールハーバー1941 2009, p. 45.
(29)^ トラトラトラ 2001, p. 294真珠湾奇襲戦果図
(30)^ ニミッツ 1962, p. 19第1図 1941年12月7日午前7時55分の真珠湾
(31)^ トラトラトラ 2001, pp. 230–231真珠湾攻撃飛行機隊編成区分表
(32)^ スミス、パールハーバー1941 2009, p. 90(付録)第一次攻撃隊の編制
(33)^ バーガー、PEARL HARBOR 1984, pp. 142–145第一攻撃隊の襲撃
(34)^ パール・ハーバー 1991, pp. 73–77第1波の攻撃/雷撃
(35)^ トラトラトラ 2001, p. 285.
(36)^ スミス、パールハーバー1941 2009, pp. 50–51真珠湾、第一次攻撃0750~0810時
(37)^ ニミッツ 1962, p. 21.
(38)^ スミス、パールハーバー1941 2009, p. 47.
(39)^ トラトラトラ 2001, pp. 289–290.
(40)^ パール・ハーバー 1991, p. 160(8-3)転覆して艦底部を海面に出したオクラホマ。後方はメリーランド
(41)^ スミス、パールハーバー1941 2009, p. 87(真珠湾攻撃後の戦艦横丁の写真および解説)
(42)^ バーガー、PEARL HARBOR 1984, pp. 168–169.
(43)^ サボ島沖海戦 1988, p. 135.
(44)^ 掴めなかった勝利 1994, pp. 305–307.
(45)^ サボ島沖海戦 1988, p. 282.
(46)^ サボ島沖海戦 1988, p. 286.
(47)^ “戰爭が終つて“失業”の廢艦 約百隻眞珠灣に繋留”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1946.08.26. pp. 08. 2023年12月28日閲覧。
(48)^ トラトラトラ 2001, p. 410.
参考文献[編集]
●デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー﹁第8章 ボード大佐、好機を逸す﹂﹃掴めなかった勝機 サボ島海戦50年目の雪辱﹄妹尾作太郎 著訳者、光人社、1994年7月。ISBN 4-7698-0687-6。 ●ドナルド・M・ゴールドスチン、キャサリン・V・ディロン、J・マイケル・ウェンジャー﹃パール・ハーバー THE WAY IT WAS‥PEAL HARBOR﹄千早正隆(訳)、光人社︿フォト・ドキュメント﹀、1991年11月。ISBN 4-7698-0582-9。 ●ジョン・ジョーダン﹃戦艦 AN ILLUSTRATED GUIDE TO BATTLESHIPS AND BATTLECRUISERS﹄石橋孝夫(訳)、株式会社ホビージャパン︿イラストレイテッド・ガイド6﹀、1988年11月。ISBN 4-938461-35-8。 ●ピーター・スミス 著、︵カラー・イラスト︶ジム・ローリアー、アダム・ホック﹃パールハーバー1941 ~アメリカ軍から見た真珠湾攻撃~﹄宮永忠将 訳、株式会社大日本絵画︿オスプレイ・ミリタリー・シリーズ 世界の戦場イラストレイテッド2﹀、2009年1月。ISBN 978-4-499-22984-5。 ●高橋定ほか﹃母艦航空隊 体験で綴る空母機動部隊の一挙一動と海空戦の真相!﹄潮書房光人社、2013年1月。ISBN 978-4-7698-1538-9。 ●(112-124頁)元﹁加賀﹂艦攻隊長・海軍少佐橋口喬﹃高々度水平爆撃隊﹁戦艦アリゾナ﹂﹂撃沈秘話 各種爆弾の研究から緒戦の戦果をうむまでの実験秘録﹄ ●(125-133頁)元﹁加賀﹂艦攻隊偵察員・海軍少尉吉野治男﹃加賀雷撃隊﹁戦艦オクラホマ﹂に針路をとれ 八〇〇キロ魚雷一本に祖国の興隆をかけた男たちの苦闘﹄ ●チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター﹃ニミッツの太平洋海戦史﹄実松譲、富永謙吾︵共訳︶、恒文社、1962年12月。 ●R・F・ニューカム﹃サボ島沖海戦 米軍史上最大の敗北﹄田中至 訳、光人社︿光人社NF文庫﹀、1998年4月︵原著1963年︶。ISBN 4-7698-2192-1。 ●A・J・バーガー﹃PEARL HARBOR パールハーバー われ奇襲に成功せり﹄中野五郎 訳、株式会社サンケイ出版︿第二次世界大戦文庫2﹀、1984年12月。 ●ゴードン・プランゲ﹃トラ トラ トラ ︽新装版︾ 太平洋戦争はこうして始まった﹄千早正隆 訳、並木書房、2001年6月。ISBN 4-89063-138-0。 ●ドナルド・マッキンタイヤー﹃空母 日米機動部隊の激突﹄寺井義守 訳 、株式会社サンケイ出版︿第二次世界大戦文庫23﹀、1985年10月。ISBN 4-383-02415-7。 ●ミリタリー・クラシックス編集部、執筆︵松代守弘、瀬戸利春、福田誠、伊藤龍太郎︶、図面作成︵田村紀雄、こがしゅうと、多田圭一︶﹁第二章 アメリカの戦艦﹂﹃第二次大戦 世界の戦艦﹄イカロス出版︿ミリタリー選書6﹀、2005年9月。ISBN 4-87149-719-4。 ●国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館 ●伊藤松雄﹁ハワイ大空襲戰﹂﹃無敵荒鷲魂﹄大東亜社、1942年6月。 ●海軍研究社編輯部 編﹃ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1935年版﹄海軍研究社、1935年5月。 ●海軍研究社編輯部 編﹃ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版﹄海軍研究社、1937年2月。 ●大本營海軍報道部 編纂﹃大東亞戰爭 海軍作戰寫眞記録(1)﹄大本営海軍報道部、1942年12月。 ●同盟通信社出版部 編﹃大東亞戰爭︻第一輯︼ハワイ海戰 マレー沖海戰﹄同盟通信社、1942年2月。関連項目[編集]
●第二次世界大戦中のアメリカ海軍の喪失艦一覧 ●真珠湾生存者協会 ●真珠湾攻撃を題材にした大衆文化一覧 ●オクラホマの歴代艦長一覧 ●オクラホマシティ (軽巡洋艦)外部リンク[編集]
- US Navy Historical Center gallery - ウェイバックマシン(2001年2月10日アーカイブ分)
- USS Oklahoma - Death of a Battleship (1916-1941)
- Maritimequest USS Oklahoma BB-37 Photo Gallery
- 2003: Survivors dedicate Pearl Harbor USS Oklahoma Memorial highway
- 引き揚げ作業の様子 - Pathe News