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ゲルハルト・バルクホルン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゲルハルト・バルクホルン
Gerhard Barkhorn
ゲルハルト・バルクホルン
生誕 1919年3月20日
ドイツの旗 ドイツ国
プロイセン州 ケーニヒスベルク
死没 (1983-01-11) 1983年1月11日(63歳没)
西ドイツの旗 西ドイツ
ノルトライン=ヴェストファーレン州 ケルン
所属組織 ドイツ国防空軍
(国防軍所属部隊)
第2戦闘航空団
第52戦闘航空団
第6戦闘航空団
第44戦闘団
ドイツ連邦空軍
軍歴 1937年 - 1945年 (ドイツ国防軍)
第6戦闘航空団司令
撃墜記録301機
柏葉剣付騎士鉄十字章
1956年 - 1975年 (ドイツ連邦軍)
最終階級 少将
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Gerhard Barkhorn1919320 - 1983111西

1104500301352300

生涯[編集]

バトル・オブ・ブリテンまで[編集]


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19408152I6(6./II./JG52)1029

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Bf109G (1943)

1941622JG5272120DB-3822511101111

19425215244./JG52Bf109F7196Ace in a day50725282364101219101194311110552Bf109G

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1166 Fw190D50JG6Fw190DBf109G-14Bf109KJG6Bf110410JG6調

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1104500301913

戦後[編集]


31956西1976退

19831611163

人柄[編集]

軍帽を外した素顔

バルクホルンは自己主張が強い人物が多かったドイツ空軍の中では、もの静かで控えめな人物だった。乱戦だった東部戦線において撃墜結果が誰のものかわからなくなった時でも、気前良く戦果を部下に譲ったといわれている。加えて同僚の戦績に敬意を払うことを惜しまない器量人でもあり、バルクホルンが300機撃墜を前にして負傷、療養中にエーリヒ・ハルトマンが彼の撃墜記録を抜き去って300機撃墜に達した時、その偉業達成を誰よりも喜び、祝福したのはほかならぬバルクホルン自身であった。また戦闘中敵機に致命弾を与えた後、被弾機と並行して搭乗機の風防越しに敵パイロットに対して脱出するよう促すバルクホルンの姿をハルトマンはじめ何人もの同僚が目撃していた。ハルトマンはバルクホルンのその行為に、確実に撃墜すべきだと言ったが、バルクホルンは彼に 「ブービー、君はこの事を忘れてはいけない。彼も美しいロシア婦人の可愛い赤ん坊だったという事をだ。彼には命と愛情と持ち続ける権利がある。我々と同じなんだよ」と諭したという。 ハルトマンが「身命を投げ出して悔いることのないただひとりの指揮官であり、父として、兄として、同僚として、友人として、私の知っている人の中では最高の人物」と彼に対して最大級の賛辞を贈り終生敬愛し続けたように、戦闘機パイロットとしての能力以上にその優れた人格を高く評価する上官や部下が極めて多く、その人柄は連合国軍の間でも広く知れ渡っていたといわれる。 

参考書籍[編集]

  • 野原茂編『図解 世界の軍用機史3 ドイツ空軍エース列伝』グリーンアロー出版社、1992年、ISBN 4-7663-3143-5
  • Bernd Barbas『Das vergessene As Der Jagdflieger Gerhard Barkhorn』LUFTFAHRTVERLAG-START、2014年、ISBN 978-3-941437-22-7
  • Raymond F.Toiliver / Trever J.Constable(著)、井上寿郎(訳)『不屈の鉄十字エース(原題:The Blond Knight of Germany)』朝日ソノラマ、1986年、 ISBN 4-257-17075-1

外部リンク[編集]