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チカップ 美恵子︵チカップ みえこ、本名・伊賀 美恵子︵いが みえこ︶、1948年9月2日 - 2010年2月5日︶は、アイヌ文様刺繡家、文筆家。北海道釧路市出身。﹁チカップ﹂とは、アイヌ語の名詞﹁cikap﹂で﹁鳥﹂という意味[1]。
人物・生涯[編集]
釧路でアイヌの家族に生まれる。伯父に、エカシとして有名な山本多助がいる。幼少期より、母の伊賀ふでより、アイヌ文様刺繡とアイヌ歌舞ウポポを習う。兄に、アイヌ民族活動家の山本一昭がいる。少女時代に映画[2]にも出演したことがある。このときの写真が無断使用された学術書が出版され、﹁アイヌ民族肖像権裁判﹂となる。
首都圏で、アニメーション彩色の仕事につく。その後、1983年に首都圏在住のアイヌの民族団体﹁アイヌ民族の現在を考えるレラの会[3]﹂の立ち上げに関わり、アイヌの復権運動に大きく関わるようになる。その一方、アイヌ文様刺繡家として生計を立て、知名度を上げる。その後、札幌市に移り住む。
また、1985年のアイヌ民族肖像権裁判でマスメディアに登場する。1969年に出版された﹃アイヌ民族誌﹄︵第一法規出版︶で、少女時代に映画撮影でとられたアイヌ民族衣装のいでたちの顔つき写真が無断で使われ、見出しに﹁滅び行く民族﹂という語句がつけられた。このことを知ったチカップ美恵子は、そのページの著者の更科源蔵らに抗議する。満足する謝罪は得られず1985年に札幌地方裁判所に提訴、﹁アイヌ民族肖像権裁判﹂として知られるようになる。その年に、更科源蔵は死去するが、出版社と監修者を相手に、裁判を継続する。1988年に、チカップ美恵子への謝罪、その他の条件で和解となる。この事件は、波紋を呼び、その後、日本における、アイヌを対象とする人類学・民族学の研究にあり方について一石を投じることになった。
その後もアイヌの尊厳、先住民族としてのアイヌ民族の地位の確立、その他アイヌ民族の立場として、著書を出版し発言する。アイヌ文様刺繡を初めとしたアイヌ文化の奥行きの深さについて、説いている内容の文章が多い。その一方で、アイヌを搾取・収奪してきた近代日本に対して、アイヌの立場として告発するような表現が多くあった。北方領土問題については、北海道ウタリ協会の立場と異なり、19世紀にアイヌを﹁北方領土﹂から追い出した日本が返還を要求することを非難するという立場をとっていた。ピースボートに積極的に参加した。最近[いつ?]の著書では、日本の一般市民との対話を大切にした雰囲気の表現となっている[要出典]。
2002年、第6回女性文化賞受賞[4]。
2006年に急性骨髄性白血病を患い入院。その後講演活動を再開した。2009年9月に再入院し、2010年2月5日午前11時22分︵JST︶、入院先の札幌市内の病院で死去した。61歳没。
2012年には故郷である釧路市の北海道立釧路芸術館で﹁チカップ美恵子展~アイヌ文様刺繡と詩の世界から~﹂と題された作品展が4月13日から6月27日まで開催された[5]。