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人物・逸話[編集]
●直接デニソンの薫陶を多く受けた外務官僚幣原喜重郎︵のち外務大臣︶による回想によれば、日露戦争時、小村外相と以下のやりとりがあった︵1951年幣原﹃外交五十年﹄﹁デニソンを憶う﹂︶。
開戦の直前、駐露公使宛に対露交渉開始の電文を起草するよう、小村外相に依頼されたデニソンは小村の真意が分からず、﹁閣下の真意が分からないので書けません。相手が言うことを聞かないなら戦争をするという覚悟がありますか。それともどうしても戦争を避けるつもりですか。いずれかを聞かなければどちらにも通じる文案は書けません﹂と問うた。小村外相は﹁それは談判の経過による﹂と答え、デニソンはうなずいて柔軟な文面を書いて送った。後日、幣原はなぜ外相に質問したのか尋ねたところ、デニソンは﹁戦争の覚悟があるなら柔軟で平和的・妥協的な書き方にする。そうでないのなら強気の文章にして多少脅迫の文句も入れる﹂と答えたという。
また日露戦争後、一時帰国のため書類を整理した際、日露講和交渉の草案が大量に出てきたため、幣原が後日の参考のために譲り受けたいと申し出たところ、デニソンはそれをストーブに入れて燃やしてしまった。曰く﹁君がこれを保存しておくと、それが後で人目に触れた時、日露交渉の主役が私であったように思われてしまうだろう。だが、あの交渉の功績はすべて小村さんのもので、私にはそれに参加する資格はない﹂。
●デニソンは普段から﹁私は、新たに英文の文書を書けと言われれば書けるが、日本人が作成した英語の文章を直せといわれてもできない。文法的に正しいかどうかよりも、英国人や米国人の立場になって、その考え方を表現したものでなければ、人に感動を与える文章はできない﹂と述べていたという。
●ポーツマスにおける日露戦争の講和会議で仲介役を務めたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは、日本側の事務を精力的にこなすデニソンの姿を見て﹁君はアメリカ人なのか、それとも日本人なのか?﹂と皮肉ったという。
●上記のようにデニソンの日本外交案件、および外交交渉術を日本人へ伝授した貢献は非常に大きく、石井菊次郎︵外務大臣︶は﹁天が日本に幸いして天下らせたような人物﹂と評した。
●若い頃は野球の名選手で、ワシントンのオリンピックスというクラブで主力選手として活躍していた。1876年に東京大学の学生チームと外国人チームの交流戦が行われたときは、4番捕手を務めている。この時のチームメイトには、日本に野球を伝えたホーレス・ウィルソンや、ジェームス・カーティス・ヘボンの息子がいた[要出典]。
参考文献
●﹃お雇い外国人 明治日本の脇役たち﹄︵梅渓昇、2007年、講談社学術文庫、ISBN 4061598074︶
関連文献
●﹃日本に外交はなかった―外交から見た日本の混迷﹄︵宮崎正弘・高山正之、2016年9月、自由社︶
関連項目[編集]
●お雇い外国人
●条約改正
●下関条約
●三国干渉
●日露戦争
●ポーツマス条約
●トマス・バティ - デニソンの後任となった外務省の外国人法律顧問。