南ベトナム解放民族戦線
(ベトコンから転送)
南ベトナム解放民族戦線 Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam | |
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ベトナム戦争に参加 | |
南ベトナム解放民族戦線の旗 | |
活動期間 | 1960年 - 1976年 |
活動目的 | サイゴン政権からの南ベトナムの「解放」とベトナム民族の統一 |
指導者 | グエン・フー・ト |
活動地域 | 南ベトナム |
関連勢力 | 北ベトナム、ソ連、北朝鮮、中国などの東側諸国 |
敵対勢力 | 南ベトナム、アメリカ、韓国、オーストラリア、タイ、フィリピン、ニュージーランドなどの西側諸国 |
南ベトナム解放民族戦線︵みなみベトナムかいほうみんぞくせんせん、ベトナム語‥Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam / 𩈘陣民族解放沔南越南︶は、南ベトナムで1960年12月に結成された反サイゴン政権・反米・反帝国主義を標榜する統一戦線組織。ベトナム解放戦線、南ベトナム解放戦線とも呼ばれる。
略して解放戦線とも呼ばれたが、越ベト南ナム共コン産サン党ダン︵ベトナム語‥Việt Nam Cộng sản / 越南共産︶を略したベトコン︵ベトナム語‥Việt Cộng / 越共︶と通称されることも多い。
SKSカービンを手に、掩体壕に身を屈める南ベトナム解放民族戦線の 兵士
1950年代後半のベトナム共和国は政情が不安定であり、貧富格差の問題や政権腐敗、仏教徒に対する弾圧などが生じていた。ゴ・ディン・ジエム大統領に反発する勢力も増加していた。また、北ベトナムはジュネーヴ協定に基づく統一選挙が実施されなかったため、武力闘争によるベトナム統一を検討し始めた。
これらにより、1960年12月20日、タイニン省タンビエン県タンラップ村[1]において、元ベトミン︵ベトナム独立同盟会︶らを中心に南ベトナム政府に対する反政府組織として、南ベトナム解放民族戦線が結成された。議長は空席のまま、副議長兼書記長をフイン・タン・ファットが務めた。1962年2月16日-3月3日、戦線の第1回大会が開催される。この大会で中央委員会が設置され、31人が選出された[2]。また、弁護士のグエン・フー・トが中央委員会幹部会議長に選出された。解放戦線は実質的にベトナム労働党が主導していたが、ジエム政権などに反発する仏教徒や自由主義者、華僑なども多数参加していた。これにより、ベトナム共和国国内に内戦状態が発生し、ベトナム戦争が始まった。南ベトナム軍の他、アメリカ軍・韓国軍などと戦ったが、圧倒的かつ近代的な戦力を有する敵に対してゲリラ戦で臨み、一定の損害を与えた。弾薬や燃料以外の補給体制が極めて貧弱であったが、農村を遊撃根拠地とすることで、物資の現地調達︵略奪含む︶や現地徴兵により長期戦を戦った。
しかし、捕虜となった米兵や南ベトナム兵を過酷に虐待し、サイゴン政権の情報員や密告者とみなした市民や動揺分子とみなした兵士を人民裁判で即刻処刑するなども行い、テト攻勢でフエを一時占領した際にもサイゴン政権の官吏・関係者・関係の無い民間人︵学生やキリスト教の神父、外国人医師などの一般市民︶などを大量処刑し、無差別テロを行ったとされる︵フエ事件︶。また、南ベトナム政権に揺さぶりをかけるため、各地で一般市民を巻き込む無差別爆弾テロ事件も数多く起こした。
1968年2月12日のフォンニィ・フォンニャットの虐殺は南ベトナム解放民族戦線による謀略であるとする主張が韓国軍からなされているが、韓国軍からの報告を受け取ったアメリカ軍では、アメリカ軍監察官のロバート・モアヘッド・クック陸軍大佐による調査が行われ、1970年1月10日に韓国海兵隊による虐殺事件であったことを明らかにした報告書が提出された。
ベトナム統一後の1977年1月23日、グエン・フー・ト議長が機関紙を通じて﹁南ベトナム解放民族戦線は歴史的役割を輝かしく完遂した﹂と宣言。名実ともに組織が解消されることとなった[3]。
隣国のカンボジアでは親中のポル・ポト政権が誕生し、中国がベトナム南部への干渉を図ったことで、北ベトナム政府が、中国の影響力が強い南部独自の軍事力が干渉を受ける危険性を危惧して、軍事部門はベトナム人民軍︵北ベトナム軍︶に吸収し、組織は﹁ベトナム祖国戦線﹂に合流する形で解体した。解放戦線兵士は北の指導部から疎んじられるようになり、解放戦線議長であったグエン・フー・トが名誉職である国会議長に僅かに就任した程度で、中には反発する元兵士も出た。