三崎亀之助
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
三崎 亀之助︵みさき かめのすけ、1858年2月15日︵安政5年1月2日︶ - 1906年︵明治39年︶3月16日︶は、日本の政治家、官僚、銀行家。衆議院議員、貴族院議員、横浜正金銀行副頭取。
略歴[編集]
1858年︵安政5年1月2日︶2月15日、讃岐国丸亀に生まれる。東京大学法科を卒業し、忠愛社に入り、﹃明治日報﹄記者となる。1884年︵明治17年︶に外務省御用掛となり、外務省書記官として米国公使館駐在、さらに公使館書記官としてワシントン駐在、次いで外務省参事官を務める。 その後、京都で﹃中外電報﹄で論説を執筆、弁護士業などを経て、1890年︵明治23年︶に第1回衆議院議員総選挙で香川県から出馬し、衆議院議員に当選する︵以後4回連続当選︶。立憲自由党に属したが、第1議会では土佐派の裏切りに同調して第1次山県内閣と妥協、予算案の成立に努めた後、同党を脱党する。また、法典調査会主査委員を務める。その後、復党し、1896年︵明治29年︶4月に板垣退助が第2次伊藤内閣の内務大臣に就任すると、内務省県治局長となり、同年12月16日には貴族院議員に勅選される[1]。1899年︵明治32年︶に横浜正金銀行に入り、支配人を経て、1900年︵明治33年︶から1906年︵明治39年︶まで副頭取を務めた。著書[編集]
●﹃国際公法﹄英吉利法律学校、1888年。 ●﹃戦時国際公法﹄東京法学院、1896年。 ●﹃局外中立法﹄東京法学院、1897年。 ●﹃国際公法総論﹄東京法学院、1897年。 ●﹃平時国際公法﹄東京法学院、1899年。脚注[編集]
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、6頁。