下長崎村
表示
しもながさきむら 下長崎村 | |
---|---|
廃止日 | 1898年10月1日 |
廃止理由 |
編入合併 下長崎村、戸町村(一部)、淵村(一部)、上長崎村(一部) → 長崎市 |
現在の自治体 | 長崎市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 九州地方 |
都道府県 | 長崎県 |
郡 | 西彼杵郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
隣接自治体 | 長崎市、西彼杵郡上長崎村、茂木村、戸町村 |
下長崎村役場 | |
所在地 | 長崎県西彼杵郡下長崎村 |
ウィキプロジェクト |
下長崎村(しもながさきむら)は、長崎県西彼杵郡にあった村。1898年(明治31年)に長崎市に編入された。現在の長崎市中央地区の一部にあたる。
地理[編集]
野母半島(長崎半島)及び西彼杵半島の基部、中島川支流の銅座川流域に位置する。
- 河川:銅座川
沿革[編集]
「長崎市#歴史」も参照
江戸時代は幕府領︵慶長年間は大村藩領︶のうち、長崎奉行の支配する﹁長崎町﹂を総称する地域と長崎代官の支配する農村部[1]があり、これらを合わせて長崎村と称した[2]。後に下長崎村となる区域は、上記のうち農村部の地域にあたる。
長崎村は1878年︵明治11年︶の郡区町村編制法施行により、村内のうち﹁長崎町﹂を総称する区域を長崎区として分立。残部︵農村部︶は上長崎村・下長崎村に分割された[2][3]。
●1889年︵明治22年︶4月1日 - 市制・町村制施行により、下長崎村の一部が長崎市に編入し、同村の残部をもって西彼杵郡下長崎村が発足。
●1898年︵明治31年︶10月1日 - 戸町村・淵村・上長崎村の各一部[4]とともに長崎市に編入し、下長崎村は自治体として消滅。
地名[編集]
郷を行政区域とする。大字は設置していない。- 高野平郷
- 小島郷
- 十善寺郷
名所・旧跡[編集]
- 高島秋帆旧宅[5]
- 板垣絹子生家・小島郷 荒木家(学校法人順心広尾学園の創始者)
参考文献[編集]
脚注[編集]
(一)^ 地内は伊良林郷・岩原郷・片淵郷・高野平郷・小島郷・木場郷・十善寺郷・中川郷・西山郷・馬場郷・船津郷︵浦︶・本河内郷・夫婦川郷の13郷からなる。
(二)^ ab角川日本地名大辞典42長崎県﹁長崎村︵近世︶﹂
(三)^ 長崎村の農村部の分割時期については、資料によって明治11年から22年までの間でばらつきが見られる。
(四)^ 戸町村の残部は小ヶ倉村に編入、淵村は一部が浦上山里村に編入、残部が小榊村として分立し、それぞれ自治体として消滅。上長崎村も1920年︵大正9年︶に長崎市に編入し、自治体として消滅した。
(五)^ 高島秋帆旧宅 文化遺産オンライン
※1922年︵大正11年︶、国の史跡に指定。