五井蘭洲
五井 蘭洲︵ごい らんしゅう、元禄10年4月8日︵1697年5月27日︶ - 宝暦12年3月17日︵1762年4月11日︶︶は江戸時代中期の儒学者、国学者。五井持軒の子。名は純禎、字は子祥、通称は藤九郎、号は蘭洲のほか、冽庵、梅塢。本姓は藤原氏。
生涯[編集]
元禄10年︵1697年︶4月8日、儒学者五井持軒と妻香川氏との三男として大坂に生まれた。家が貧困のため、幼くして摂津国尼崎城下の遠戚に預けられ、藩主青山幸秀の信濃国飯山藩転封に伴い飯山城下に移った。 正徳3年︵1713年︶大坂に帰る。享保9年︵1724年︶の享保の大火で中風の母と共に焼け出され、平野の旅宿井筒屋佐平方に身を寄せた。困窮の中、享保11年︵1726年︶中井甃庵に招かれて懐徳堂助教に就任、10月5日に開講した。 享保12年︵1727年︶初夏、三輪執斎を頼って江戸に下り、下谷和泉橋の明倫堂で講義を行った。享保16年︵1732年︶陸奥国弘前藩と伊予国大洲藩から士官の誘いがあり、翌年3月3日弘前藩御手廻格30人扶持となった。主に江戸屋敷で儒学を教え、国元は藩主津軽信著に従い2度訪れたが、学問の振るわぬ土地柄を厭い、元文5年︵1740年︶5月11日病を理由に禄を辞した。 帰坂後上町に住居を構えて懐徳堂助教に復帰、病中の学主中井甃庵を助け勢力的に講義を行った。寛保3年︵1743年︶9月に懐徳堂右塾に移住した。宝暦8年︵1758年︶、第2代学主中井甃庵が死去した際には、年齢や外聞を考慮し役職には就かなかった。 宝暦9年︵1759年︶5月28日、母、姉に続いて中風に罹り、講義を行えなくなった。中井履軒を伴い有馬温泉で湯治を行うも効なく、宝暦12年︵1762年︶死去。辞世は﹁死なん命惜しからぬ身も親と云へば子の無けくらん事ぞ悲しき﹂。代々の墓所天満九品寺は手狭のため、上本町筋八丁目寺町︵大阪市天王寺区上本町四丁目︶実相寺に葬られた。 大正8年︵1919年︶、正五位を追贈された[1]。主な著作[編集]
●﹃刪正日本書紀﹄ - ﹃日本書紀﹄の和習を添削する。 ●﹃非伊篇﹄ - 伊藤仁斎を批判する。 ●﹃非費篇﹄ ●﹃承聖篇﹄ - 仏教を批判する。 ●﹃読史訪議﹄ ●﹃万葉集詁﹄ - ﹃万葉集﹄注釈書。 ●﹃古今通﹄ - ﹃古今和歌集﹄注釈書。 ●﹃勢語通﹄ - ﹃伊勢物語﹄注釈書。 ●﹃源語詁﹄ - ﹃源氏物語﹄注釈書。 ●﹃源語提要﹄ - ﹃源氏物語﹄概説書。 ●﹃蘭洲先生茗話﹄ ●﹃和歌新題百首﹄ ●﹃喩叢﹄ ●﹃駁太宰春台四十六士論﹄ - 太宰春台﹃赤穂四十六士論﹄を論駁する。ただし、﹁陪臣の分際で権貴を弑するは極刑に処せられるべき﹂﹁四十六士は身を公儀に委ねる能わず泉岳寺で自害せよ﹂と春台の意見に﹁吾も又同意見なり﹂と肯定する部分もある。 ●﹃非物篇﹄ - 物徂徠[2]︵荻生徂徠︶﹃論語徴﹄を論駁した書。蘭洲没後の明和3年︵1766︶、蘭洲の弟子にあたる懐徳堂学主・中井竹山が完校浄書した。 ●﹃鶏肋篇﹄ ●﹃質疑篇﹄ ●﹃瑣語﹄ ●﹃左伝蓄疑﹄ ●﹃爾雅翼﹄ - ﹃爾雅﹄注釈書。 ●﹃冽庵日纂﹄ ●﹃蘭洲遺稿﹄家族[編集]
家系は遠く藤原魚名に遡り、十世孫守貞の弟守康より代々大和国五井戸︵奈良県香芝市五位堂︶、中谷、辰巳︵不明︶を所領としてきたが、永禄の変が起こると五井戸に逃れ、そのまま定着した。曽祖父守香の代に大坂に移住したという。
●父‥五井持軒︵寛永18年︵1641年︶2月22日 - 享保6年︵1721年︶閏7月18日︶
●母‥香川氏︵? - 享保9年︵1724年︶3月29日︶
●長兄‥五井孫太郎 - 夭折
●次兄‥五井桐陰 - 名は純実。通称は内記、権蔵。砲術を学び、鷹司家に使え、江戸で御先手組鉄砲与力となる。
●姉 - 水谷氏に嫁ぐ。
●妾
●女子‥せつ︵? - 安永9年︵1780年︶12月29日︶ - 蘭洲発病後は中井竹山養妹となり、旗本永井伊予守尚伴大坂留守居役長島宗助恭寅廉斎に嫁ぐ。