伊藤悌治
伊藤 悌治︵いとう ていじ、1858年8月4日︵安政5年6月25日[1]︶ - 1919年︵大正8年︶12月18日[2]︶は、明治から大正時代の司法官。大審院判事。位階および勲等は従三位・勲二等。
経歴[編集]
士族・大矢益彦の二男として越後新発田藩領蒲原郡中高井村︵新潟県中蒲原郡中高井村、根岸村、白根町、白根市を経て現新潟市南区︶に生まれ、12歳の時北蒲原郡水原町︵現在の阿賀野市︶の伊藤退蔵の養子となる。[1]。1883年︵明治16年︶7月、東京大学法学部を卒業し、判事となり、[1]。東京始審裁判所刑事公判および会議局に職を得た。翌年仙台始審裁判所詰めとなる。1886年、東京控訴院評定官を経て、1892年︵明治25年︶東京控訴院部長なった[1]。ついで1894年︵明治27年︶大審院判事に任じられ、民事部長兼文官試験委員[1]。晩年は官を辞し、中央大学で法律学を教授し、神道を信仰した。墓所は雑司ヶ谷霊園にあり、川面凡児の撰文、橋野正清の書による。親族[編集]
脚注[編集]
- ^ a b c d e 人事興信所 1903, 16頁.
- ^ 『官報』第2219号「彙報」大正8年12月25日。
- ^ 人事興信所 1928, ス75頁.