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●﹃恕軒文鈔﹄[1]
●﹃恕軒詩鈔﹄[1]
●﹃恕軒漫筆﹄[1]
●﹃赤穂誠忠録﹄[1] - 巻頭の﹁序﹂に﹁吉良家の忠臣義人も併記し、義周以降の吉良家の活躍︵七代家継の治世︶[10]も記す﹂とある。
●﹃養蚕新論﹄
●﹃恕軒遺稿﹄
●﹃漢訳文則﹄
●信夫恕軒 - 自撰墓碑銘
粲字は文則、号は恕軒、晩に天倪︵てんげい︶と更︵あらた︶む[11]。信夫は氏、世々因幡守池田候に仕ふ[11]。其の家世を詳︵つまびら︶かにせず[11]。
天保六年某月某日、江戸邸に生る[11]。二才にして怙恃︵こじ︶[12]を喪︵うしな︶ひ又雁行︵がんこう︶無し[13][11]。幼にして学を好み、作文に長ず[11]。狷直︵けんちょく︶[14]にして世に容︵い︶れられず[11]。明治中興、三たび仕へて三たび罷︵や︶め、家処して[15]教授す[11]。一世知己︵ちき︶に遇はず[11]。千載豈︵あ︶に不朽を保たんや[11]。然れども、其の守節に至りては、不屈なり[16]。則ち諸︵これ︶を鬼神に質︵ただ︶すとも疑はざるなり[16]。乃ち石を買いて自ら碑して日く[16]、
貌︵かほ︶は陋︵ろう︶にして性は介[17][16]。屯如たり邅如たり[18][16]。世の清議を犯し[19]、郷曲[20]の誉を欠く[16]。寸心千古、白︵むなし︶く蠧魚︵とぎょ︶を看る[16]。
人用ひずと雖も、天其れ諸︵これ︶を舎︵す︶てんや[16]。窮まり愁へて以て死す[16]。噫︵ああ︶、命なるかな[16]。
(一)^ abcdefghij﹃鳥取県大百科事典﹄407頁
(二)^ abc﹃新聞人 信夫韓一郎﹄6頁
(三)^ 自撰碑文に﹁雁行なし﹂とあって兄弟はないとされているが、漢学者伝記集成には尚貞の弟となっていて詳かでない︵﹃因伯杏林碑誌集釈﹄213頁︶
(四)^ abcd森納著﹃因伯の医師たち﹄ 361頁
(五)^ 服部敏良﹃事典有名人の死亡診断 近代編﹄付録﹁近代有名人の死因一覧﹂︵吉川弘文館、2010年︶14頁
(六)^ ﹃新聞集成明治編年史. 第十四卷﹄p.339
(七)^ ﹃赤穂誠忠録﹄244p
(八)^ ﹃赤穂誠忠録﹄407p
(九)^ 松島栄一﹃忠臣蔵﹄214p︵岩波書店︶
(十)^ ﹃赤穂誠忠録﹄425p
(11)^ abcdefghij﹃因伯杏林碑誌集釈﹄211頁
(12)^ 怙恃=ともにたよる、あてにするの意で、怙は父を、恃は母を言う︵﹃因伯杏林碑誌集釈﹄212頁︶
(13)^ 順序正しく飛ぶ雁のことより、兄弟をたとえる︵﹃因伯杏林碑誌集釈﹄212頁︶
(14)^ 短気でまっすぐな気性︵﹃因伯杏林碑誌集釈﹄212頁︶
(15)^ 外に出て勤めず、家にいて︵﹃因伯杏林碑誌集釈﹄212頁︶
(16)^ abcdefghij﹃因伯杏林碑誌集釈﹄212頁
(17)^ 狷介であること。妥協することのない性格︵﹃因伯杏林碑誌集釈﹄212頁︶
(18)^ 行きなやむさま︵﹃因伯杏林碑誌集釈﹄212頁︶
(19)^ 世俗を忘れた清らかな議論。主として老荘の議論を言う︵﹃因伯杏林碑誌集釈﹄212頁︶
(20)^ 郷曲=故郷︵﹃因伯杏林碑誌集釈﹄212頁︶
参考文献[編集]
●森銑三﹃落葉籠 上﹄︵中公文庫、2009年︶ ISBN 978-4-12-205155-3
●森銑三﹃新編 明治人物夜話﹄︵岩波文庫、2001年︶ ISBN 978-4-00-311533-6
●森銑三﹃史伝閑歩﹄︵中公文庫、1989年︶ ISBN 978-4-12-201582-1
●森納、安藤文雄﹃因伯杏林碑誌集釈﹄1983年、211-213頁
●﹃鳥取県大百科事典﹄︵編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会︶1984年 407頁