内田実
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内田 実︵うちだ みのる、1873年︵明治6年︶9月-1945年︵昭和20年︶1月7日[1][2][3][4]︶は、実業家、および歌川広重研究家・蒐集家である。
父虎次郎と母セイの長男として、島根県松江[注釈 1]にて生まれる。内田家は松江松平家の家老である三谷家の家臣だった。島根県立松江中学校︵旧制︶在学中、千島探検隊に加わろうと上京。日清戦争後、台湾総督府に勤める。その後起業し、日露戦争開戦後、朝鮮半島に渡り、京城にて生気嶺泥土石炭株式会社の取締役を務める。のち大阪府にて神霊の研究をする。千葉県船橋市にて病死[1][2][6]。実弟に中国史研究者の加藤繁がいる[7][8]。
研究家・蒐集家[編集]
1912年︵大正元年︶、内田家にあった保永堂版東海道五十三次の平塚を見て感銘を受け[9]、広重作品は他の浮世絵師のそれに比べ安価だったことから、彼の錦絵︵浮世絵版画︶を全て集める決心をする[10]。その成果として、1930年︵昭和5年︶に、600ページを超える﹃広重﹄︵以下、内田本とする。︶を上梓し[11]、翌1931年︵昭和6年︶1月に、朝日賞を受賞した[3][12][注釈 2][注釈 3]。内田本の評価[編集]
内田本は、広重の伝記を多角的に検証し、かつ作品についても、ほぼ自身のコレクションを基に網羅的に取り上げた、これまでにない研究書であり、1970年︵昭和45年︶に鈴木重三の﹃広重﹄[13]が出るまでの40年間、広重研究の最重要日本語文献とされた[14][15]。丹波恒夫は内田本を手放しで称賛した[2]のに対し、林美一と鈴木重三、永田生慈は、内田に敬意を示しつつも、テキストを批判的に読み取り、その結果、広重の家系を記した﹁安藤家由緒書﹂︵1866年・慶応2年︶に表れる﹁安藤鉄蔵﹂が、広重であると判明したり、五十三次制作時に、広重の上洛を否定する説︵東海道五十三次_(浮世絵)#取材の有無︶など、新知見を見出すきっかけとなった[16][17][18][19]。 内田本に先行して、1914年︵大正3年︶に﹃浮世絵と風景画﹄[20]︵以下、烏水本とする。︶を出版した小島烏水は、内田が烏水の論を、あたかも自分で考えたかのように著作に取り入れ、逆に、烏水本発行以降に彼の説が覆された箇所に限って、名指しで批判したことを、内田本の該当箇所を引用し、彼の態度を非難した[21]。内田の烏水への態度には、林と鈴木も、烏水側に同調している[22][23]。著作[編集]
雑誌論文、共著書を含む。- 1917年 「広重忌に際して」『研精美術』120号 。
- 1917年 「広重の自然観と彼の人格」『浮世絵』29号。
- 1930年 『広重』、岩波書店。1932年に特製改訂版、1978年に32年版を復刊。
- 1930年 「『広重』を出版するまで」『浮世絵志』19号。
- 1942年 「広重の芸術」、北川桃雄・奥平英雄編『日本美術の鑑賞-近代篇』、帝国教育会出版部。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b 無署名 1931, p. 2.
- ^ a b c 丹波 1965, p. あとがき.
- ^ a b 朝日 2000, p. 1.
- ^ 加藤ほか 2000, p. 30.
- ^ 角川地名 1979, p. 689.
- ^ 井出 1987, p. 15.
- ^ 山田 1997, pp. 152–153.
- ^ 加藤ほか 2000, pp. 6、30.
- ^ 内田 1932, p. 跋1.
- ^ 内田 1930, p. 12.
- ^ 内田 1932.
- ^ 岩波 1996, p. 79.
- ^ 鈴木 1970.
- ^ 大久保 2007, pp. 16–17.
- ^ 大久保 2018, p. 160.
- ^ 林 1965, pp. 19–77.
- ^ 鈴木 1970, pp. 19、31、121.
- ^ 鈴木 1975, pp. 37–49.
- ^ 永田 1983, pp. 35–44.
- ^ 烏水 1914.
- ^ 烏水 1930, pp. 12–14.
- ^ 林 1965, pp. 24–27.
- ^ 鈴木 1970, p. 1.