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内藤 政順︵ないとう まさより︶は、江戸時代後期の大名。日向国延岡藩の第6代藩主。官位は従五位下・右京亮、備後守。延岡藩内藤家宗家11代。
寛政8年︵1796年︶2月15日、第4代藩主・内藤政韶の長男として江戸にて誕生。幼名は亀之進。
文化3年︵1806年︶に先代藩主・内藤政和が若死にしたため、その跡を継ぐこととなった。蝋・和紙・菜種などの生産にも力を注ぎ、物産方役所や紙方会所を開設し、専売制を強化した。一方で自らの倹約には熱心ではなく、当時延岡に滞在した佐藤信淵から批判を受けたとされる。文化9年︵1812年︶、宮崎神宮の社殿を造営した。
天保5年︵1834年︶8月21日に39歳で死去した。嗣子がなく、繁子の実弟で養嗣子・政義が跡を継いだ。法号は海上院明山居士。墓所は神奈川県鎌倉市の光明寺。
政順の没後、髪をおろし充真院と称した繁子は、紀行記である﹁五十三次ねむりの合の手﹂、﹁海陸返り咲ことばの手拍子﹂、﹁三下りうかぬ不調子﹂、﹁午のとし十二月より東京行記﹂、延岡の日常を記した随筆である﹁色々見聞きしたる事を笑ひに書﹂など多くの著を残した。
父母
●内藤政韶︵実父︶
●内藤政和︵養父︶
正室
●繁子、允姫、充真院 ー 井伊直中の三女
養子
●内藤政義 ー 井伊直中の十五男
内藤氏 延岡藩6代藩主 (1806年 - 1834年) |
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