利用者:FlatLanguage/sandbox/原郷
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五十嵐陽介は、日琉語族の下位系統に拡大東日本語派と南日本語派を提案し、この分岐の仕方から日琉語族の原郷 (homeland)は愛知県・岐阜県から九州北部までのどこかだったとみている[1]。
一方、日琉語族が日本列島で話されるようになるより前の段階については、日琉語族の話者︵弥生人︶が紀元前700年~300年頃に朝鮮半島から日本列島に移住し、最終的に列島先住言語︵縄文語︶に取って代わったとする説が広く受け入れられている[2]。
朝鮮半島における日琉語族話者の集団は無文土器文化の担い手であったという説が複数の学者から提唱されている[3][4][5][6][7]。これらの説によれば、古代満州南部から朝鮮半島北部にかけての地域で確立された朝鮮語族に属する言語集団が北方から南方へ拡大し、当時朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしている。この過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。
この朝鮮語族話者の拡大及び日琉語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは山東半島から朝鮮半島南部に移住した日琉語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている[6][8]。一方でヴォヴィンは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日琉語族話者が存在していたとする[4]また、別の発表では、日琉語族とオーストロアジア語族またはタイ・カダイ語族の間に接触の痕跡があることから、日琉語族の︵朝鮮半島よりさらに過去の︶故地は中国南部であり、“Altaic”ではないと主張している[9][2]。
ジョン・ホイットマンは日琉語族の話者が紀元前700年~300年頃に朝鮮半島から日本列島に移住し、最終的に列島先住言語に取って代わったと主張している[10]。
朝鮮半島における無文土器文化の担い手が現代日本語の祖先となる日琉語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている[3][4][5][6][7]。これらの説によれば、古代満州南部から朝鮮半島北部にかけての地域で確立された朝鮮語族に属する言語集団が北方から南方へ拡大し、当時朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしている。この過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。
この朝鮮語族話者の拡大及び日琉語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは山東半島から朝鮮半島の南部に移住した日琉語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている[6][8]。宮本一夫は東北アジア初期農耕化4段階説を提唱しているが、2段階目にあたる前4400BP頃に遼寧省の遼西地域の偏堡文化が遼東半島に拡散した。さらに偏堡文化が朝鮮半島に広まり、櫛目文土器と接触する中で、無文土器の祖型である公貴里式土器が生み出されたとしている。無文土器時代自体は3段階目にあたる前3500BP頃に山東半島の岳石文化の遼東半島への伝播に伴い、磨製石器群および水田などの灌漑農耕が朝鮮半島に広まって無文土器時代が始まったとしている[11]。そして、偏堡文化、無文土器文化、弥生文化は同じ土器生産技術で系譜的に繋がっており、言語によって生産技術が伝達されたと考えられることから、紀元前4400年の偏堡文化、紀元前1500年の早期無文土器(突帯文土器)、紀元前900年の弥生土器の系譜が古日本語の伝播を表す、としている[12]。一方でアレキサンダー・ボビンは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日琉語族話者が存在していたとする[4]。
マルティン・ロベーツは、農耕/言語拡散仮説に基づき、中国遼寧省の西遼河流域で前9千年紀頃にキビの畑作農耕を行っていた興隆窪文化が日本語の起源となるトランスユーラシア語族(アルタイ諸語)の原郷であるとした[13][14]。また、そこから東方にキビ農耕が伝わる中で、前9千年紀から7千年紀に他のアルタイ諸語から遼西地域において日流祖語と朝鮮祖語の共通祖語が分岐し、さらにキビ農耕民が前6千年紀の中頃、櫛目文土器時代の中期に朝鮮半島を南下し朝鮮祖語が分岐したとした[13]。また2017年の論文では、前6〜5千年紀以降に山東半島の大汶口文化などと交流のあった遼東半島の後窪遺跡の文化が日琉祖語ではないかとしており、この交流を通じて大汶口文化からオーストロネシア語族の影響があったのではないかとし、したがって日琉語族へのオーストロネシア語族の影響は遼東半島で起こったとした[14]。さらに前3300年頃に山東半島や遼東半島から水稲稲作、小麦、大麦の農耕が朝鮮半島に伝わり無文土器文化が成立した[13][14]。ただし後に朝鮮半島を統一して朝鮮語の基礎になった新羅が成立する朝鮮半島東南部では水稲稲作の普及が進まず、畑作農耕が重要であった[14]。その無文土器文化が前3千年紀に九州に伝わって弥生文化が成立し、日本列島に日琉語族が広まったとした[13][14]。
Janhunen(2010)は、言語の伝播と人の移動は必ずしも一致しないと断った上で、日琉祖語はまずシナ・チベット語族の影響を受けたとし、その場所は中国から朝鮮半島へのルートを考慮すると、可能性として挙げられるのは山東半島や長江デルタではないかとした。そして朝鮮半島に移動した後で﹁アルタイ化﹂され、その後日本列島に入ったとした。そして日本列島で多少の﹁縄文語化﹂を受けたとした。また朝鮮半島に残った日本語(パラ日本語)話者の代表例として百済の言語を挙げた[15]。
ボビンは日琉語族の話者が紀元前700年~300年頃に朝鮮半島から日本列島に移住し、最終的に列島先住言語に取って代わったと主張している[10]。
朝鮮半島における無文土器文化の担い手が現代日本語の祖先となる日琉語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている[3][4][5][6][7]。これらの説によれば、古代満州南部から朝鮮半島北部にかけての地域で確立された朝鮮語族に属する言語集団が北方から南方へ拡大し、当時朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしている。この過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。
この朝鮮語族話者の拡大及び日琉語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日琉語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている[6][8]。宮本一夫は東北アジア初期農耕化4段階説を提唱しているが、2段階目にあたる前4400BP頃に遼寧省の遼西地域の偏堡文化が遼東半島に拡散した。さらに偏堡文化が朝鮮半島に広まり、櫛目文土器と接触する中で、無文土器の祖型である公貴里式土器が生み出されたとしている。無文土器時代自体は3段階目にあたる前3500BP頃に山東半島の岳石文化の遼東半島への伝播に伴い、磨製石器群および水田などの灌漑農耕が朝鮮半島に広まって無文土器時代が始まったとしている[11]。そして、偏堡文化、無文土器文化、弥生文化は同じ土器生産技術で系譜的に繋がっており、言語によって生産技術が伝達されたと考えられることから、紀元前4400年の偏堡文化、紀元前1500年の早期無文土器(突帯文土器)、紀元前900年の弥生土器の系譜が古日本語の伝播を表す、としている[12]。一方でボビンは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日琉語族話者が存在していたとする[4]。
マルティン・ロベーツは、農耕/言語拡散仮説に基づき、中国遼寧省の西遼河流域で前9千年紀頃にキビの畑作農耕を行っていた興隆窪文化が日本語の起源となるトランスユーラシア語族(アルタイ諸語)の原郷であるとした[13]。また、そこから東方にキビ農耕が伝わる中で、前9千年紀から7千年紀に他のアルタイ諸語から遼西地域において日流祖語と朝鮮祖語の共通祖語が分岐し、さらにキビ農耕民が前6千年紀の中頃、櫛目文土器時代の中期に朝鮮半島を南下し朝鮮祖語が分岐したとした[13]。また2017年の論文では、前6〜5千年紀以降に山東半島の大汶口文化などと交流のあった遼東半島の後窪遺跡の文化が日琉祖語ではないかとしており、この交流を通じて大汶口文化からオーストロネシア語族の影響があったのではないかとし、したがって日琉語族へのオーストロネシア語族の影響は遼東半島で起こったとした[14]。さらに前3300年頃に山東半島や遼東半島から水稲稲作、小麦、大麦の農耕が朝鮮半島に伝わり無文土器文化が成立した[13][14]。ただし後に朝鮮半島を統一して朝鮮語の基礎になった新羅が成立する朝鮮半島東南部では水稲稲作の普及が進まず、畑作農耕が重要であった[14]。その無文土器文化が前3千年紀に九州に伝わって弥生文化が成立し、日本列島に日琉語族が広まったとした[13][14]。
Janhunen(2010)は、言語の伝播と人の移動は必ずしも一致しないと断った上で、日琉祖語はまずシナ・チベット語族の影響を受けたとし、その場所は中国から朝鮮半島へのルートを考慮すると、可能性として挙げられるのは山東半島や長江デルタではないかとした。そして朝鮮半島に移動した後で﹁アルタイ化﹂され、その後日本列島に入ったとした。そして日本列島で多少の﹁縄文語化﹂を受けたとした。また朝鮮半島に残った日本語(パラ日本語)話者の代表例として百済の言語を挙げた[15]。
「半島日本語」も参照
朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日琉語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている[3][4][5][6][7]。これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。
この朝鮮語族話者の拡大及び日琉語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日琉語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている[6][8]。宮本一夫は東北アジア初期農耕化4段階説を提唱しているが、2段階目にあたる前4400BP頃に遼寧省の遼西地域の偏堡文化が遼東半島に拡散した。さらに偏堡文化が朝鮮半島に広まり、櫛目文土器と接触する中で、無文土器の祖型である公貴里式土器が生み出されたとしている。無文土器時代自体は3段階目にあたる前3500BP頃に山東半島の岳石文化の遼東半島への伝播に伴い、磨製石器群および水田などの灌漑農耕が朝鮮半島に広まって無文土器時代が始まったとしている[11]。そして、偏堡文化、無文土器文化、弥生文化は同じ土器生産技術で系譜的に繋がっており、言語によって生産技術が伝達されたと考えられることから、紀元前4400年の偏堡文化、紀元前1500年の早期無文土器(突帯文土器)、紀元前900年の弥生土器の系譜が古日本語の伝播を表す、としている[12]。一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日琉語族話者が存在していたとする[4]。
マルティン・ロベーツは、農耕/言語拡散仮説に基づき、中国遼寧省の西遼河流域で前9千年紀頃(BP)にキビの畑作農耕を行っていた興隆窪文化が日本語の起源となるトランスユーラシア語族(アルタイ諸語)の原郷であるとした[13][14]。また、そこから東方にキビ農耕が伝わる中で、前9千年紀から7千年紀に他のアルタイ諸語から遼西地域において日流祖語と朝鮮祖語の共通祖語が分岐し、さらにキビ農耕民が前6千年紀(BP)の中頃、櫛目文土器時代の中期に朝鮮半島を南下し朝鮮祖語が分岐したとした[13]。その後、前3300BP年頃に山東半島や遼東半島から水稲稲作、小麦、大麦の農耕が朝鮮半島に伝わり無文土器文化が成立したとする[13][14]。ただし後に朝鮮半島を統一して朝鮮語の基礎になった新羅が成立する朝鮮半島東南部では水稲稲作の普及が進まず、畑作農耕が重要であった[14]。その無文土器文化が前3千年紀(BP)に九州に伝わって弥生文化が成立し、日本列島に日琉語族が広まったとした[13][14]。
起源
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︵前略︶
宮本一夫は東北アジア初期農耕化4段階説を提唱しているが、2段階目にあたる前4400BP頃に遼寧省の遼西地域の偏堡文化が遼東半島に拡散した。さらに偏堡文化が朝鮮半島に広まり、櫛目文土器と接触する中で、無文土器の祖型である公貴里式土器が生み出されたとしている。無文土器時代自体は3段階目にあたる前3500BP頃に山東半島の岳石文化の遼東半島への伝播に伴い、磨製石器群および水田などの灌漑農耕が朝鮮半島に広まって無文土器時代が始まったとしている[11]。そして、偏堡文化、無文土器文化、弥生文化は同じ土器生産技術で系譜的に繋がっており、言語によって生産技術が伝達されたと考えられることから、紀元前4400年の偏堡文化、紀元前1500年の早期無文土器(突帯文土器)、紀元前900年の弥生土器の系譜が古日本語の伝播を表す、としている[12]。
言語との関連
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朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日琉語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている[3][4][5][6][7]。これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。
この朝鮮語族話者の拡大及び日琉語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日琉語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている[6][8]。一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日琉語族話者が存在していたとする[4]。
宮本一夫は粘土帯土器文化の話者を古朝鮮語だとしている。粘土帯土器文化は遼東半島の涼泉文化などの粘土帯土器文化が朝鮮半島北西部から南部へと広がったものであり、それまで朝鮮半島で主流であった無文土器文化とは系譜的つながりはない。また粘土帯土器文化はそのまま原三国時代から朝鮮語話者であったと思われる新羅が含まれる三国時代へとつながっていく。このことから粘土帯土器文化が古朝鮮語話者であり、それまでの日琉祖語話者であった無文土器文化に置き換わったものとしている[16][17]。
中村大介によると、粘土帯土器文化は、遼河中流域で夏家店上層文化が消滅した後で、その系譜を引きつつ内モンゴル、モンゴル高原などの騎馬遊牧民の影響も受けて成立した文化である。その粘土帯土器文化は当初は朝鮮半島西部で栄えていたが、前2世紀になると後の新羅が成立する地域である朝鮮半島東南部で勢力を持つようになり、原三国時代になると東南部の慶尚道地方に多数の首長墓が出現するようになる[18]。
宮本一夫によると、粘土帯土器文化人が遼東から朝鮮半島に渡ったきっかけとなったのは、中国の戦国時代に北京あたりにあった燕という国が、紀元前5〜6世紀に燕山山脈を超えて遼西に支配を広げたことによる社会的、政治的動乱だという。それによって伊家村2期の粘土帯土器を用いる人々が遼西東部から遼東、そして朝鮮半島南部まで移動したのだという[19]
マルティン・ロベーツは、農耕/言語拡散仮説に基づき、中国遼寧省の西遼河流域で前9千年紀頃にキビの畑作農耕を行っていた興隆窪文化が日本語の起源となるトランスユーラシア語族(アルタイ諸語)の原郷であるとした[13][14]。また、そこから東方にキビ農耕が伝わる中で、前9千年紀から7千年紀に他のアルタイ諸語から遼西地域において日流祖語と朝鮮祖語の共通祖語が分岐し、さらにキビ農耕民が前6千年紀の中頃、櫛目文土器時代の中期に朝鮮半島を南下し朝鮮祖語が分岐したとした[13]。その後、日琉祖語の話者である無文土器文化が広がったが、ただし後に朝鮮半島を統一して朝鮮語の基礎になった新羅が成立する朝鮮半島東南部では水稲稲作の普及が進まず、畑作農耕が重要であった[14]。
ただしロベーツらのトランス・ユーラシア語族へはいくつかの批判がある[20][21]。
案
[編集]日琉語族
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五十嵐陽介は、日琉語族の下位系統に拡大東日本語派と南日本語派を提案し、この分岐の仕方から日琉語族の原郷 (homeland)は愛知県・岐阜県から九州北部までのどこかだったとみている[1]。
一方、日琉語族が日本列島で話されるようになるより前の段階については、日琉語族の話者︵弥生人︶が紀元前700年~300年頃に朝鮮半島から日本列島に移住し、最終的に列島先住言語︵縄文語︶に取って代わったとする説が広く受け入れられている[10][2]。
朝鮮半島における日琉語族話者の集団は無文土器文化の担い手であったという説が複数の学者から提唱されている[3][4][5][6][7]。これらの説によれば、古代満州南部から朝鮮半島北部にかけての地域で確立された朝鮮語族に属する言語集団が北方から南方へ拡大し、当時朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしている。この過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。
この朝鮮語族話者の拡大及び日琉語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは山東半島から朝鮮半島南部に移住した日琉語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている[6][8]。
一方でヴォヴィンは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日琉語族話者が存在していたとする[4]。また、別の発表では、日琉語族とオーストロアジア語族またはタイ・カダイ語族の間に接触の痕跡があることから、日琉語族の︵朝鮮半島よりさらに過去の︶故地は中国南部であり、“Altaic”ではないと主張している[22][2]。
Janhunen(2010)は、言語の伝播と人の移動は必ずしも一致しないと断った上で、日琉祖語はまずシナ・チベット語族の影響を受けたとし、その場所は中国から朝鮮半島へのルートを考慮すると、可能性として挙げられるのは山東半島や長江デルタではないかとした。そして朝鮮半島に移動した後で﹁アルタイ化﹂され、その後日本列島に入ったとした。そして日本列島で多少の﹁縄文語化﹂を受けたとした。また朝鮮半島に残った日本語(パラ日本語)話者の代表例として百済の言語を挙げた[15]。
マーティン・ロベーツは、前6〜5千年紀以降に山東半島の大汶口文化などと交流のあった遼東半島の後窪遺跡の文化が日琉祖語ではないかとしており、この交流を通じて大汶口文化からオーストロネシア語族の影響があったのではないかとした[14]。さらに前3300年頃に水稲稲作が朝鮮半島に伝わり、無文土器文化が成立した。朝鮮半島東南部では水稲稲作の普及が進まず、この文化が前3千年紀に九州に伝わって弥生文化が成立し、日本列島に日琉語族が広まったとした[13][14]。ただしロベーツらのトランス・ユーラシア語族へはいくつかの批判がある[20][21]。
無文土器文化
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朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日琉語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている[3][4][5][6][7]。
これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。
この朝鮮語族話者の拡大及び日琉語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは山東半島から朝鮮半島南部に移住した日琉語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている[6][8]。宮本一夫は東北アジア初期農耕化4段階説を提唱しているが、2段階目にあたる前4400BP頃に遼寧省の遼西地域の偏堡文化が遼東半島に拡散した。さらに偏堡文化が朝鮮半島に広まり、櫛目文土器と接触する中で、無文土器の祖型である公貴里式土器が生み出されたとしている。無文土器時代自体は3段階目にあたる前3500BP頃に山東半島の岳石文化の遼東半島への伝播に伴い、磨製石器群および水田などの灌漑農耕が朝鮮半島に広まって無文土器時代が始まったとしている[11]。そして、偏堡文化、無文土器文化、弥生文化は同じ土器生産技術で系譜的に繋がっており、言語によって生産技術が伝達されたと考えられることから、紀元前4400年の偏堡文化、紀元前1500年の早期無文土器(突帯文土器)、紀元前900年の弥生土器の系譜が古日本語の伝播を表す、としている[12]。
マーティン・ロベーツ
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農耕/言語拡散仮説に基づき、中国遼寧省の西遼河流域で前9千年紀頃にキビの畑作農耕を行っていた興隆窪文化が日本語の起源となるトランスユーラシア語族(アルタイ諸語)の原郷であるとした[13][14]。また、そこから東方にキビ農耕が伝わる中で、前9千年紀から7千年紀に他のアルタイ諸語から遼西地域において日流祖語と朝鮮祖語の共通祖語が分岐し、さらにキビ農耕民が前6千年紀の中頃、櫛目文土器時代の中期に朝鮮半島を南下し朝鮮祖語が分岐したとした[13]。また2017年の論文では、前6〜5千年紀以降に山東半島の大汶口文化などと交流のあった遼東半島の後窪遺跡の文化が日琉祖語ではないかとしており、この交流を通じて大汶口文化からオーストロネシア語族の影響があったのではないかとし、したがって日琉語族へのオーストロネシア語族の影響は遼東半島で起こったとした[14]。さらに前3300年頃に山東半島や遼東半島から水稲稲作、小麦、大麦の農耕が朝鮮半島に伝わり無文土器文化が成立した[13][14]。ただし後に朝鮮半島を統一して朝鮮語の基礎になった新羅が成立する朝鮮半島東南部では水稲稲作の普及が進まず、畑作農耕が重要であった[14]。その無文土器文化が前3千年紀に九州に伝わって弥生文化が成立し、日本列島に日琉語族が広まったとした[13][14]。
朝鮮民族
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宮本一夫は粘土帯土器文化の話者を古朝鮮語だとしている。粘土帯土器文化は遼東半島の涼泉文化などの粘土帯土器文化が朝鮮半島北西部から南部へと広がったものであり、それまで朝鮮半島で主流であった無文土器文化とは系譜的つながりはない。また粘土帯土器文化はそのまま原三国時代から朝鮮語話者であったと思われる新羅が含まれる三国時代へとつながっていく。このことから粘土帯土器文化が古朝鮮語話者であり、それまでの日琉祖語話者であった無文土器文化に置き換わったものとしている[23][24]。
中村大介によると、粘土帯土器文化は、遼河中流域で夏家店上層文化が消滅した後で、その系譜を引きつつ内モンゴル、モンゴル高原などの騎馬遊牧民の影響も受けて成立した文化である。その粘土帯土器文化は当初は朝鮮半島西部で栄えていたが、前2世紀になると後の新羅が成立する地域である朝鮮半島東南部で勢力を持つようになり、原三国時代になると東南部の慶尚道地方に多数の首長墓が出現するようになる[25]。
宮本一夫によると、粘土帯土器文化人が遼東から朝鮮半島に渡ったきっかけとなったのは、中国の戦国時代に北京あたりにあった燕という国が、紀元前5〜6世紀に燕山山脈を超えて遼西に支配を広げたことによる社会的、政治的動乱だという。それによって伊家村2期の粘土帯土器を用いる人々が遼西東部から遼東、そして朝鮮半島南部まで移動したのだという[26]
脚注
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(一)^ ab五十嵐陽介 (2021).
(二)^ abcdVovin (2021a).
(三)^ abcdefgBellwood (2013).
(四)^ abcdefghijklmVovin (2013).
(五)^ abcdefgLee & Ramsey (2011).
(六)^ abcdefghijklmnWhitman (2011).
(七)^ abcdefgUnger (2009).
(八)^ abcdefgMiyamoto (2016).
(九)^ Vovin, Alexander (2014), “Out of the Southern China? – Some philological and linguistic musings on the Urheimat of the Japonic language family”, XXVIIe Journées de Linguistique - Asie Orientale
VovinAlexander﹁日本語の起源と消滅危機言語﹂﹃第5回人間文化機構日本研究功労賞授与式﹄2015年。
(十)^ abcVovin (2017).
(11)^ abcde宮本一夫 (2019).
(12)^ abcde宮本 (2021).
(13)^ abcdefghijklmnopqrsRobbeets et al. (2021).
(14)^ abcdefghijklmnopqrstuvRobbeets (2017).
(15)^ abcJanhunen (2010).
(16)^ 宮本一夫﹁朝鮮半島における初期鉄器時代の始まり﹂﹃史淵﹄第159巻、九州大学大学院人文科学研究院歴史学部門、2022年3月14日、37–84頁、doi:10.15017/4772806、2023年11月27日閲覧。
(17)^ 宮本一夫. “近年の日本語・韓国語起源論と農耕の拡散”. 九州大学人文科学研究院. 2023年11月27日閲覧。
(18)^ 中村, 大介. “令和5年度福岡市埋蔵文化財センター考古学講座 東アジアと福岡 第一回 青銅器を巡る社会変動”. 福岡市埋蔵文化財センター. 2023年11月28日閲覧。
(19)^ Miyamoto, Kazuo (2022-1). “The emergence of ‘Transeurasian’ language families in Northeast Asia as viewed from archaeological evidence” (jp). Evolutionary Human Sciences 4: 1-42. doi:10.1017/ehs.2021.49 2023年12月2日閲覧。.
(20)^ abVovin (2021b).
(21)^ abZheng et al. (2022).
(22)^ Vovin, Alexander (2014), “Out of the Southern China? – Some philological and linguistic musings on the Urheimat of the Japonic language family”, XXVIIe Journées de Linguistique - Asie Orientale
VovinAlexander﹁日本語の起源と消滅危機言語﹂﹃第5回人間文化機構日本研究功労賞授与式﹄2015年。
(23)^ 宮本一夫﹁朝鮮半島における初期鉄器時代の始まり﹂﹃史淵﹄第159巻、九州大学大学院人文科学研究院歴史学部門、2022年3月14日、37–84頁、doi:10.15017/4772806、2023年11月27日閲覧。
(24)^ 宮本一夫﹁近年の日本語・韓国語起源論と農耕の拡散﹂﹃Brown Bag Seminar﹄第33回、九州大学アジア・オセアニア研究教育機構、2021年12月22日。オリジナルの2023年11月29日時点におけるアーカイブ。2023年11月27日閲覧。
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参考文献
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